書評


書籍選択に戻る

[言い訳本]William Easterly(2003)「エコノミスト南の貧困と戦う」東洋経済

 Easterlyのトンデモ本を笑いながら読む。Easterlyは本当に愚かだ。前半部分は、検証もなしに別の理論モデルから予測される結果を用いて、成長理論モデルを批判している。どう考えても、途上国の労働市場を完全競争的と仮定するその別の理論モデルを適用するのは間違っている。現実妥当性のない仮定に基づいて出る理論予測と現実が違うからと言って、ある成長理論が間違いと考えるのは間抜けすぎる。もちろん、その現実妥当性の検証ができないホモ=エコノミストの仮定とかならまだしも、明らかに妥当性がない労働市場の完全性となると話は別である。先進国ですら、労働市場が完全競争的という実証研究など皆無じゃないか。

 また、Easterlyの論理性は偏執的で、理論家は途上国の分析に不向きな事を示す絶好の書籍になっている。それでも9章まではまだ笑いながら読める。10章以降は開発経済学の立場に立つ人間の書き物としては悲しむべきものがある。国際機関のエコノミストの知能がこれ程低水準となると本当に深刻だ。

 例えば、10章「不幸な星のもとに」では、交易条件は途上国ではどちらにもふれると結論している。しかし、Easterlyはここで論理停止してしまう。その後の論旨は、だから成長とは関係ないというスタンスである。先進国では、交易条件に影響を与える政治力も財力もある。途上国は、交易条件が改善したときは普通に振舞えても、悪化した時は対応する十分な財政力を持っていない場合が多い。途上国の財政力で交易条件悪化に対応可能という事を示さずに、成長と関係ないとはまともな人なら結論できない。

 11章「政府は成長を殺すことがある」では国際機関が成長を殺すことが多いということも真剣に考えた方がいい。Easterlyは、援助受入国の政治的要因を考慮しなかった事や、罰を考慮に入れない援助漬けくらいしか、国際機関の責任と認識できていない。これらは国際機関の罪悪のほんの一部分に過ぎない。Easterlyは、援助資金を継続して受けられるというだけで、途上国はフリーハンドで政策決定していると暗黙裡に考えている。これも現実と異なる変態的な考えである。援助資金を継続して受けている国も、援助ドナー諸国による圧力、国際機関内にいる職員の自国利益誘導行動など、様々な困難に直面していることは、公になっているものだけでも枚挙に暇がない。

 一番典型的なのは先進国の民間銀行の途上国債務に対する行動である。リスケには応じるが、債権放棄に応じたことはほとんどない。自国で破綻した企業があれば、貸し手責任を問われ、民間銀行は債権放棄に応じざるを得なくなる。しかし、海外の弱い立場の途上国には自国政府を通じて執拗な圧力をかける。例えば、1984年メキシコに対してアメリカの銀行シンジケートはまったく債権放棄に応じなかった。にもかかわらず、間抜けなEasterlyは、自国の強欲な民間銀行には目をつぶり、1980年代以降、3度に渡り債務を放棄しようとしたメキシコ政府を一方的に非難しているのである。典型的な国際機関エコノミストの傲慢さがここにも出ている。

 それに、アメリカの国連や世銀の職員の一部には、国連や世銀における自らの業務に全く関係ないが、書類を本国に大量にFax送付する人がいる。国連や世銀の経費を高めるだけでなく、自国政府の省庁に有利に働くようにと行動しているのである。こうした諜報行為は国連や世銀の職員の行うべき業務ではありえない。すぐにでも止めるべきだ。

 著者は実証家としても三流で、ひどい論理の飛躍を行って結論することも多い。例えば、Dani Rodrickらの論文への批判などは小学生レベルである。彼らは全部の文献を精査していないし、政策変数は正確でないから、その分析が間違っているのだってさ。彼らの分析及び分析結果が間違っていると結論するには不十分すぎる理由だし、その直後に自分達の論文を引合いに出し、自分達の結論が正しいのだと主張するとなると、さてはEasterlyの単なる嫉妬、やっかみにすぎなかったと断ぜざるを得ない。

 また、所得税率についてはデータが悪いんだそうだ。それを言うなら、他のすべての実証分析もデータが適当でないという理由で葬りさることができてしまう。著者の都合で変数の適当・不適当を決めるような恣意的な分析は意味がない。判断基準を示すべきだ。Easterlyによれば、所得税率は不適当で、政策変数はDani Rodrickが使用する際は不適当で、それ以前の章で自分が用いる時は適当で、関税率や就学率は適当の方に分類されている。非常におかしな分け方で、判断基準が無いに等しい。

 また11章には典型的な論理の弄びも見られる。政府の禁止事項として、高インフレ、為替レートの高い闇市場プレミアム、多額の財政赤字、大きくマイナスの実質利子率(20%以上)、自由貿易に対する規制、過度の官僚的形式主義、不十分な公共サービスがあげられている。ネガティブリストを作るのは簡単である。開発経済学者が提言しなければならないのは、政策のポジティブリストの方である。

 政策のポジティブリストの方は具体性が全くないし、後の章では、実証されていないが所得税率は低くなければいけないと信じると信仰表明している。Easterlyは本当に変な奴である。学者でありながら、理論的にも実証的にも示されていないが、所得税は低くなければならないという信仰をもっていると表明する事に何の意義があるのだろうか。欧米の大手企業がこれで自分を雇用してくれるとでも思っているのだろう。学術書に私的利益のためにする叙述を行う事を見ても、Easterlyの最低の人間性が現れている。ネガティブリストに掲げている以上、途上国が低い所得税率で、十分な公共サービスを提供できる理由については、最低限明示する義務がある。

 12章「汚職と成長」も程度が低い。さんざん、誘引を取り上げ、重要だと強調しておきながら、汚職を取り扱う場面では一変する。Easterlyがメキシコで警官に賄賂を要求された卑近な例から、成長できない国の典型として描いている。もっての他である。警官が賄賂を要求する誘引をなぜ考えないのか。そこには公務員の低所得の問題、累積的な債務からくる国際機関からの財政赤字縮小要求が影響していることは公然の事実ではないか。また、アフリカでは財政赤字削減を強要した結果、公務員の給与支払が停止し、クーデーターが何回か起きている。これは国際機関や援助ドナーが誘発したクーデーターである。

 また、著者はビジネスマンのランキングが正しいと信じる理由も少ないといいながら取り上げている。統計に関して言えば、特別の取り上げる理由がないなら、使うべきではない。

 汚職と闇市場の関係を論ずるには、闇市場が存在する理由を考える必要がある。先進国には汚職があっても、通常、為替の闇市場は存在しない。著者は暗黙裡に規制だけの問題と考えているようだ。為替規制なしに経済成長した事例は、少なくとも第二次大戦後にはない。それに汚職と経済発展が関係ないことはインドネシアが証明してきた。要は程度問題ではないのか。

 また、著者は家計と企業の意思決定の自由だけを考慮する傾向がある。政府も人間が運営する組織で、公務員にも誘引がある。それが国全体として発展していくように調整することが重要なのであって、政府を規制すべきなら、民間企業であれ、個人であれ、国家の発展と真反対な振る舞いを起こさないように規制すべきなのだ。つまり、法治国家の確立が重要なのである。

 民間企業や個人の自己利益のまい進だけで、Adam Smithのいうようにうまくいくというのなら、パキスタンの公的権力の及ばない文字通りの「自由市場」を経験してみればいい。民間企業はマフィア組織として自由に活動しても、個人がヤクザとして自由に意思決定できたとしても、まともな経済成長には役立たないのである。つまらない個人主義崇拝は眼を曇らせる。この章から導くべき結論は、法治国家の確立に他ならない。
 ただし、法治国家を確立していくためには、高い識字率が必要だし、社会全体を考える視点を持つ精神的余裕、それを持てるための所得も備わっていなければならない。つまり、成長と法律整備は貧困から抜け出すための両輪であって、どちらかが原因・結果といった関係ではないのである。

 13章「分断された人々」は、Easterlyが、理論家らしい歪な考えが示されている。政治家が短期利益に走る理由は将来に対する不確実性からである。軍人政権などは、長期に安定政権を築ける保証などどこにもない。「共有地の悲劇」などという七面倒な専門用語など用いずとも簡単に説明できる。誘引を重要視する割には、おかしな説明を好む。

 また、この章では、高額所得者から低額所得者への再分配を約束した政治家をポピュリスト(大衆迎合主義者)として否定的に述べる。そういう定義なら、高成長を実現してきた東アジアの政治指導者たちもすべてポピュリスト(大衆迎合主義者)の側面を持ち合わせている。それに完全競争信奉者なら、このようなポピュリストは歓迎すべきである。富の再分配によって競争が激化するためである。

 しかし、ここで富の再分配は紛争や貧困知識層の非効率利用で富裕層の効率利用より悪いと決め付けている。これは優生学者がさかんに喧伝してきた一種の人種差別思想を助長する考えで、見識ある者なら即座に否定しなければならない。この話を裏付ける確固たる実証分析例はまったくない。逆の事例なら、マイクロクレジットの成功例がある。マイクロクレジットは、貧困層の人が才覚に富み、高利率でも債務を支払える能力があることを証明した。一方、銀行から同じ高金利で高額所得者が借入をしたら、債務を支払えることは少ない。土地の再分配が平等な方が、成長できるという割には、こうした再分配には反対し、大衆の投資に結びつく再分配(これは長期にしか効果が現れない)を要求する著者の姿勢には疑念しか浮かばない。その具体的な方法を明示すべきだ。

 アジアについて言えば、軍事政権の時に、土地の再分配制度を定めた国が多い。完全な失敗に帰したのは、東南アジアではアメリカが食い物にしているフィリピンだけである。また不平等な国は政治的に不安定で、革命とクーデーターがよく起きるのだそうだ。その通りだろうが、タイはそれでも成長している。

 また民族大虐殺の一覧表には、この著者の無知ぶりが垣間見える。虐殺のリストにイスラム教徒がまったく出てこない。南京大虐殺もなければ、パレスチナ人の虐殺も出てこない。おおむね、キリスト教徒かユダヤ教徒の書いた歪んだ歴史書を参考にしたのだろう。ユダヤ人の書く歴史書物に嘘が多いことは、フランス人の歴史家フェルナンブローデルがある国際会議の場ではっきりと述べている。ブローデルは、例として、スペインのレコンキスタで迫害されたのはユダヤ人だけと書く例などはその典型と述べている。スペインのレコンキスタの時代にはイスラム教徒も大規模な迫害を受け、ほとんどのイスラム教徒がトルコへ追放されている。

 分配の際に重要なのは、何でも混合させる事にある。例えば、アメリカに関して処方箋を書くのは非常に簡単である。白人のみの居住区は認めない。白人のみのスーパー、教育機関、民間施設は認めない。こうした法の平等を進めればいいのである。貧困地域は分けて、富裕地域に混在させる。大きな貧困地帯は、大規模な再開発用地に転用する。先進国の政治家が本気になればできることだ。実際にchicago大学など貧困地帯に建てられた大学によってその地区の犯罪率は大きく減少している。

 アメリカが民族毎に極めて顕著に不平等な事はSenに指摘されて以来、多くの人が言及するようになった。偏見のためか、Senの文献が指摘されることは少なくなった。しかし、成長との兼ね合いでアメリカを論ずる際は、州毎の成長率の格差を考慮にいれるべきだろう。歪な発展をしているのである。これに関しては現在の中国も同様なのだ。
 中産階級の度合いで成長と関連付けるのは意味がない。これは法治国家同様、一方向的な原因結果の関係にないからだ。成長したからこそ中産階級が生じるのであり、成長を維持できるからこそ、中産階級が存続できるのである。

 13章の結論は何がいいたいのかまったく分からない。再分配すべきだといいたいらしいし、大衆教育が重要と言っているようだ。前の章では教育だけでは不十分だと主張していたはずなのだが・・・。

 14章「結論」を読むとやっぱりと思う。要はこの本は言い訳なのである。自分のふがいない世銀での経験・政策に対する免罪符を求めているのだ。あなたの仕事が実を結ばないのはあなたが馬鹿だからですとは認めたくないという事なのだ。そして、ドナーが非協力だったとでも言いたいのだろう。Novel賞を受賞したStiglitzも世銀辞職後、醜悪な言い訳本を書いたが、どうもこうした見苦しい言い訳をするのは、最近のエコノミストの特徴らしい。

 Easterlyは前半部分では協力する誘引を与えればいい。援助差し止めを使ってもいいのではというスタンスで書いた所が数箇所ある。違うと思う。読み進むと、成長の誘引を途上国政府、援助ドナー、国民が考えることだと変調している。そして、途上国政府に民間から掠め取るのではなく、インフラ供給することだという。どうやって?

 政府収入が少なければ、公務員の給与水準は低くなるだろう。公務員給与が低ければ汚職も起きる。その間、民間経済から徴税を強める必要もあるだろう。法整備が整わなければ、民間には脱税する誘引が働き、実際に脱税する。だから賄賂を取れるということは、皮肉にも公権力が民衆に及ぶ事を意味している。

 Easterlyは援助ドナーは独裁者を支援していないかと問いかける。しかし、それがなければ、韓国も、台湾も、インドネシアも、マレーシアもこのような短期間に何回もの高度成長を経験することはなかっただろう。開発独裁(権威主義的開発主義)=悪は短絡的過ぎる。著者自身述べているように多民族国家の誕生時には、利害の調整が難しい。国民の意識すらまだ形成されていないのである。その間、強権が必要と思える時期がある。もちろん、なくてうまくいくなら、その方が望ましい。しかし、野蛮な時代をなくして、今日のように先進国(例えばOECD)に仲間入りした国・歴史は皆無なのだ。あると思うなら、その国の歴史を記してみたまえ。

 それよりも親米だから援助、もっと親米な政権を作れるから、クーデーター側に援助するドナーに国際司法によって罰を与えられるようにしたらどうか?それと引き換えに、汚職政治家・官僚を国際司法に問う権限を国際機関に認め、汚職政治家・官僚の財産を没収し、その国民に還元するなんて法的措置なんかも面白いではないか。

 国際司法裁判制度の条約批准を果たしていないのは、アメリカや日本なので、こうした法治主義が徹底するのは、豊かになるためには是非とも必要と思われる。先進国だけ、二重基準で横柄に振舞える事は、市場原理とはおよそ反対方向の考え方だろう。

 最後の結論はパロディである。著者は「成長の処方箋を提示するのは困難だ」「自分の提示した処方箋は万能薬ではない」と述べている。処方箋とは何を指しているのだろう。なかったではないか。ひょっとしてみんなで「成長の誘引を与えるように」考えましょうという処方箋?まったくもって非論理的で無意味な解である。

 ここまで痛烈にこの書物を批判しているが、私は国際機関がなくなれば良い等とは全く思わない。むしろ国際機関が進化して、所得格差を縮小するためのマクロの所得分配機関としての性能を高めるように特化していくことが大事だと考える。日本において内紛が起きなかったのは、移動の自由、所得再分配、国民に対して公平な制度、役目を終えつつあるとはいえ、北海道開発庁、沖縄開発庁の存在が大きかったといえるだろう。

 この種の書物は最後に自分の免罪符のために書いたと疑われないようにしたいのか、国際機関の重要性を訴えて終わる決まりになっている。この本も例外ではない。しかし、本当に重要なのは未来への指針を示すために、現状で不十分な点は批判的に論証すべきなのだ。つまり、そうした事が、StiglitzやEasterlyにできないのは、また同じような機関で働きたい色気がありすぎるからだと推測できる。そんな中途半端な立場で書物を書くのは、資源の無駄だし、一種の公害だと思う。

Kazari