書評


書籍選択に戻る

[悪書] 小浜逸郎(2000)「なぜ人を殺してはいけないのか」羊泉社新書

 久々に馬鹿げた本を読んだ。著者は「問題設定が悪いから良い答えを得られない」と批判し、序説では「正しい問題提議をすること」を仄めかしながら、一箇所も適用箇所がないという非論理的な本である。序盤で哲学的な方法からアプローチすると断ってもいるが、適用された例が一つもない。ほとんど問題に対する不十分な答えの揚げ足取りに終始している。こうした本を新書・文庫にするのは本当に止めて欲しい。

 社会的な現象を解明していくには、個々の事例を丹念に調べ、どういう過程で結果に至るか考察することなしに良い回答が得られない。自殺論の古典デュルケームにしても、その労を取ったからこそ今日でも読まれている。こうしたものを引用しながら、著者の議論は誠に浅薄この上ない。

 売春の事例に至っても、賛成者、反対者どちらも完全な回答ではないと断じただけで、何の解決にもならない。売春などの議論で面白いのは、ビートたけしなどの肯定派が、自分が春を買いたい欲望に後ろめたさを感じたくないためか、「現在の娼婦は悲惨な境遇からこの商売に手を染めた例がない(ようにして欲しい)」といった趣旨の発言を雑誌に書いていることである。社会問題となるのは、自由意志で参加しているとされる娼婦が、健全な社会環境から、社会としては十分に止むを得ない理由で、本人の身勝手な意思によって、そうした職業についているのなら、この種の問題はそもそも大した社会問題といえないだろう。

 しかし、実際そうなのだろうか。親の借金や不和から家庭が荒れ、そうした環境から不良や暴力団との関係が生まれ、身を崩していっているのではないのか。もし、そうした環境悪化からそうした職業に就かざるを得なかった女性が娼婦のうちに1割であれ、存在するのなら、そうした社会環境を正す事は極めて重要である。また、そうした異常な状態を世間が異常と感じられるように道徳律が存在する事も極めて重要である。

 結果としての肯定・否定のみの二分法的解釈ではなく、健全な社会であるために必要な条件として、もう少し深く考えて欲しいものだ。この書物ではあくまで言葉遊びに終始している。

 著者は非常に無能なのか、「原爆の存在の是非を巡って賛否両論ある。どちらの回答も不完全だ」と言う事に何らかの意義を見出しているらしい。そんな事を今更指摘されずとも誰もが理解している。原爆を娼婦に変えた所で新しい意義はない。

 もっと現代社会の抱える深刻な問題に、手間暇を惜しまず、個々の事例がどういう過程で結果に至ったのか、きちんと捉えた上で議論して欲しいものである。そうすれば自殺とは、殺人とは、娼婦とは、といった事柄に関してより切実な現代社会の病理に迫る事ができるだろう。

Kazari