書評


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[良書] P.Krugman[著]三上義一[訳](2004)「嘘つき大統領のデタラメ政策」早川書房

 アメリカの2年前を日本が後追いしている姿が見え、愕然としてしまう。これを読むとKrugmanは日本を楽観視しすぎではないかと思えてしまうほど(別の彼の本では日本を批判的に取り上げている)。アメリカより、まともな点があまり見当たらない。

 構造改革とは景気の良い時に行うのが正しい政策である。確かに現在の日本経済は景気がよくなっているが、それが構造改革のお陰という竹中大臣の発言は詭弁である。日銀に押し付けた供給側の異常な金融政策でもって、確かにマクロ経済は改善した。しかし、財政政策がともなえば、今ごろ景気はもっと良くなっていただろう。

 Krugmanが指摘するまでもなく、竹中大臣は供給サイドのみ重視する経済学者である。しかし、もし彼が言うように、マクロ経済を良くする事が最重要なのであれば、なぜ財政支出を減らしたのだろうか?変なイデオロギーに染まっているからか。
 竹中大臣のばかげた理論のひとつは、非正規雇用の増大に手を打たないことに対する最大の政策が「供給側の政策だけでマクロ経済をよくして、派生需要を増大する」ことだという。阿保である。多くのヨーロッパ諸国では、そもそも契約社員などが社会保障に参加できるように制度改革することに着手して久しい。世界の主流な政策であり、普通のエコノミストの経済政策の正道でもある。新藤宗幸の言うように、最低賃金法の厳格な適用も重要である。

 小泉政権は、労働者より企業優遇を明白にした政策ばかりなのである。労働者問題を放置してきた小泉政権の指摘に対して、竹中大臣は議論だけはしていると抗弁していた。これもKrugmanの指摘する典型的な右派改革論者の詭弁として挙げられている。

 また、竹中大臣や石原議員の失業者問題に対する発言も許しがたいものがある。失業者の一部は就業意欲のない無気力な個人であるという事で、政治責任を転嫁しようと試みており、憤りを覚えた。昔の政治家なら、無気力な個人がいたら俺たちが世の中を良くして変えてみせると放言したことであろう。今時の政治家は自負も、政策に対する責任も全くない。

 竹中大臣によれば格差問題で大事なのは、所得の最低層のみなのだそうだ。呆れて物が言えない。通常は、最上層がどう変化したのかも見るものである。上記Krugmanの著書では、アメリカの最上位1%の所得層の平均所得が1979年には一般家庭の10倍から1997年には23倍になった点を問題としている。

 竹中大臣のおかしな議論は多々あるが、「機会の平等」を実現する政策が規制緩和なのだそうだ。機会の平等にもっとも良いのは、資産格差を減らすことである。資本のない人間が有限会社を1円で設立できても、1度、失敗すれば立ち直れないのである。資本のある人間が最初から株式会社を起業でき、失敗しても何度でもやり直せるというのが、小泉政権のいう「やり直しのきく社会」らしい。法律上、破産者が役員になれた所で、誰がその破産者に信用を供与して、「やり直し」の機会を与えるのだろうか。

 本当に構造改革しなければならなかったのは年金問題で、小泉政権は先送りした。また、需要面の消費増大につながるようにするというのなら、消費性向の高い低所得者層に所得分配するのが一番よい政策である。これを実現できないのは政治家が怠慢であるためである。これだけ大多数の与党で何で、<与党は反対が強く不可能と放棄している>資産課税の強化、もしくは、所得税の累進性の強化ができないのであろうか。例えば、労働人口中に所得上位1%しかいない層に課税強化すると、有権者1%以上の反対が見込まれるのだろうか。もしそのような経済社会になっているなら、その事こそ政治のモラルハザードで問題ではないか。このようなポピュリズムがもし現在の日本で成り立つというのなら、その経済的誘引は、政治家に対する不正な資金の流れ以外考えられないではないか。

 「結果の平等を求めるのは悪だ」と断言する竹中大臣のイデオロギーを正当化する理由も陳腐だ。ここ最近のGDP成長率が2%だからだそうだ。そして結果の平等を求めるとGDP成長率が止まるそうである。どういう理由で?

 そうそう、これと同様の脅し文句を使っていた事例を思い出した。自動車業界が排ガス規制に反対した時、自動車業界はこのような脅し文句を使っていたっけ。排ガス規制によって日本の自動車産業の国際競争力はなくなり、裾野産業までだめになれば、日本経済に大きなマイナスの影響を及ぼすだろうと。排ガス規制は結果、日本の自動車産業の競争力強化につながったのでした。もちろん、日本の自動車産業のすさまじい努力によってではありますが、・・・。

 規制緩和=競争力強化というのは幻想にすぎないし、規制強化=企業の海外逃避もはなはだ無意味な空想である。現に日本を含め、世界中の金融機関はtax heavenに子会社を持ち、曖昧な会計が可能になっている。制度によっては、投資ファンド本社が日本国内から逃げ出すかもしれないが、それだけでは大した影響は想定できない。本社移転の影響の典型的な反例はヤオハンがある。ヤオハンは海外に本社を移したが、海外での緩い企業統治規制で、経営が放漫となり、その後倒産している。

 それから、高度成長期に「結果の平等を求めた」ことによって改善された社会状況は枚挙に暇がない。最低賃金法、国民健康保険、労災なんてのもその例である。公害もそうだし、米軍基地移転も同様だ。これを求めるのを悪だなどと決め付けたら沖縄県民が怒るだろうな。

 最後にKrugmanの著書p145より引用しよう。”経営トップは株価を上げることに腐心してはいなかった。彼はいくつもの目的のために奉仕し、従業員のためにも働いた。その最たる例はゼネラル・モーターズで、ゲッコーの登場以前は「ゼネラス(気前のいい)・モーターズ」と社内で呼ばれていたほどだ。”

 富める者が社会のために奉仕活動することは当たり前である。どうして、自由を楯に一部の資産を持つ者が、民主主義を歪めてよいなどという間違った風潮が跋扈するのだろうか。一部の資産家に都合の良い社会なんて、悪貨が良貨を駆逐するような世界にすぎないじゃないか。

Kazari