書評


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[極悪訳本] J.a.Schumpeter[著]東畑精一・福岡正夫[訳](2005)「経済分析の歴史(上)」岩波書店

 ギボンズの訳本が好評だった福岡正夫が日経新聞で宣伝した本なので読み始める。

 とても不出来な訳出で、一般人の読書に耐えないほど、非常にひどい日本語である。訳の質からは、本の値段\18,000は詐欺レベルだ。注の方が本文よりは若干読みやすいが、本文は不適切な表現が多く、大変読みづらいので、出版自体が失敗だと思う。

 ほんの少しだけ例示しよう。まず、最初の本文から読む気力を奪う日本語である。1頁「経済分析の歴史とは、経済現象を理解するために人間が試みてきた知的な努力の歴史を、あるいは同じことになるが、経済思想の分析的ないしは科学的な側面の歴史を意味している」とある。こんな不自然な日本語で、よく日経新聞(2006.2.19)に「分かりにくい言い回しや表現をなくすことに細心の注意を払った」などと放言できたものだと年寄りの度胸にだけは感心する。他にも挙げれば切りがないが、悪文が多すぎるのは問題である。5頁「教育の見地からする利益」、322頁「はるかに多く役人であったが」、484頁の本文の第1文、488頁「これらのうち追剥は、残酷ではあったがあまり効果をもたなかった力で処刑されたし」、493頁「・・・という原則は、たんに極貧者の存否いかんを、これによってテストするのを狙ったものにすぎないと言えるだろう」、621頁「疑問なきをえないのである」など日本語ではないし、非常に変な訳が第二編を読み進むほど増大し、毎頁数箇所、誤訳と思える箇所(日本語として意味不明で、中途半端に意訳しているため、英語原文の想像、正しい訳の推理も困難)が数頁毎に現れるようになり、とても指摘しきれない。

 きちんと下訳を自ら作り直し、東畑訳と比較し、その上で改訳という労を取らないから、不適切極まりない訳につながったのだろうが、怠慢の誹りを免れない出来栄えである。原文と比較してないが、which構文を闇雲に括弧に入れたり、−−の間に入れているが、その文章が長すぎる訳出も多く、難解な判例文のようになっている。また、7巻本を3巻本に圧縮したためか、本文の一文が長すぎることが非常に多い。5行も続く一文などは悪文である。その他にも、補語を受ける動詞の間にかなり長い修飾語を入れてある文も多く、これも論旨明快な日本語の文章としては不適切である。比較級や最上級を不適切に訳しているためと想像するが、「・・・は革新的であった。しかし、それでは不適切である。」式の文章が多い。悪文読みにとても自信を持っている私でも、読んでいて(英文を読む以上に)疲れる。

 Schumpeterの書いた内容自体もあまり面白くない。Schumpeterは、MarxとMax Weberが非常に嫌いらしく批判的に取り扱っている。私から見れば、自論の正しさを情熱的に大著で語る方法論は三者共通である。Max Weberが自らの仮説と適合・不適合の事例を多数掲げ、適合の事例の方が正しいと情熱的に語るのに対し、Schumpeterは自分の考えと違うものを批判して、自分の方が正しいと情熱的に語るという相違に過ぎない。

 この本に興味を持てるか否かは読者の既存知識によるだろう。「産業革命」をどう捉えるかという近年の歴史研究を知っていたり、哲学を適度に読みこなしている人にとって、別段、目新しい歴史解釈は発見できない。逆に歴史に詳しいと、Schumpeterの歴史認識の不適当さも見つける結果となるだろう。いくつか埋もれていた経済学者の発掘には貢献しているのだろう。しかし、その事自体は彼の主張する経済分析に影響しない事柄のため、取り上げる理由もわからない。例えば「これは、現在の無差別曲線による分析の基礎となっている考え方の発見を意味するものである」とはどういう事か。彼の掲げた主題からすれば、そこからどうやって無差別曲線(経済分析道具)に辿り着くのかを(歴史的に)説明すべきではないかと疑問が生じる。仮にそれがSchumpeterがAdam Smithと同格とみなすベッカリアという経済学者であってもである。

 それから論理矛盾も多い。Marx系の歴史学者を批判する際は、歴史の偶然性を主張し、Adam Smithに対しては彼の功績が減じることはないが、当時の社会環境がこの書物を書き上げるに相応しい性質をもつAdam Smithを必然的に生んだと取れる内容を主張したりと、彼の好みで判断基準が複数になる。こうした例は上巻をざっと読むだけでも数点指摘できる。精読すればもっと見つかるだろう。

 私には細かい事例の検証能力がないため、もしそうした内容に誤謬がなければ、雑学の一助にはなるだろう。その場合でも「この経済分析道具は誰が最初に開発したといえ、200年程度放置され、その後活用された。」といった程度の知識が増大するだけである。そうした目的ならば時代別に誰々、何の貢献という歴史表の方がよぽっど有用であり、本書は完全な失敗作だと思う。

 Schumpeterの方法論にも矛盾がある。分析道具の価値と分析道具を開発した人のイデオロギーはまったく関係ないと言いながら、経済学者が「経済分析の歴史」を学ぶ利益として、1.「教育の見地からする利益」、2.「新しい着想」、3.「人間の心の動き方に対する洞察」を挙げている(p5)。1は意味が通じないので誤訳だろうが、3は分析道具を開発した人のイデオロギーの影響を受ける。それにこの過去の分析者の「人間の心の動き方に対する洞察」を捉えるのは、後の研究者であり、当然のことながら”翻訳”ミスをする。それにこうした内容を捉えるのに経済思想史や経済学説史では足りない理由も良く分からない。計量的な方法論に対するSchumpeterの好みが、経済思想史などに反発しているだけに思える。

 実際、Adam Smithの評価に嫌気があるのか、Adam Smithの賃金の洞察について「明らかに取るに足りない根拠ほど、誤謬の源泉となるものはない」486頁と酷評している。しかし、この批判こそSchumpeterのこの書物に当てはまる。こうした様々な理由から研究者以外が一読する価値はまったくない。この訳書を読む価値は研究者にすらない。原文をまだ見てないが、英語で読む方が理解が容易だと思う。もし本書に価値があるとするならば「誰がどうして誤った分析をなしたか」をSchumpeterが推論している部分である。本書の一割にも満たないので、経済学説史の専門家が訳注をつけて解説書を出すなら、それを読んだ方がいいだろう。

<2006.8.05記>

Kazari