久々に新書の良書に出会ったので紹介しよう。
藪下史郎・荒木一法[編著](2004)「スティグリッツ早稲田大学講義録」光文社新書172
以前読んだ J.E.Stiglitz[著]鈴木主税[訳](2002)「世界を不幸にしたグローバリズムの正体」徳間書店 は、IMF批判に関しても何を今更の観があり、世銀時代の言い訳本としか思えなかったが、今回読んだ方は、より痛烈かつ体系的に(世銀と比較せずに)IMF批判を展開しており面白い。
神野直彦(2002)「人間回復の経済学」岩波新書 赤782
福岡訳のJ.A.Schumpeterなどより、この新書の方が数段高級である。しかし、これを読むと日本の現状に暗澹たる気持ちしか起こらない。著者の主張は、90年以降の日本の政策失敗は、すべての経済活動はホモ・エコノミクス「経済人」ではなく、ホモ・サピエンスの人間が行っていることを見失ったことより生じているという事である。単純に言えば、政府も市場も、同じ人間が作っているのであり、「市場の方が常に効率的で、できる限り小さい政府が正しいという主流派経済学は幻想に過ぎない」という事である。
特に良いのはp51-69(p53図2.7)で、前半の新古典派批判(p90まで)は論旨明快で納得いく説明がなされている。p92以降の知識社会をめざす解決案は説得力の点でいまいちである。知識社会がIT分野の特許収入に頼る社会なら将来性がないが、明確ではないものの、著者の主張する知識社会は、個人がかなり小さい共同体単位で社会活動することを通じて、市場以外の価値を高め、人間的生活と成長を得られる社会のようだ。著者のいう「知識の累積」だけでは既に顕在化している知識の分業化に対抗できないだろう。人間らしい労働になるためには、環境など人間の全英知を叩き込まないと解決が困難な課題や、人間の統合化が必要な生活改善産業の誕生が必要と思われる。
蛇足になるが、途上国ではほとんど全部失敗した民間活力の活用が、日本だけはうまくいくと過信した官僚に、数年前に会ったことがある。その国土計画担当官は、開発経済学者の間ではアジアのPFIのほとんどが失敗という事は常識となっていた時期に、アジアの国土計画についてPFIが有効であると勘違いしていたし、その意にそぐわない報告書を見ても、その信仰を捨てる様子にはなかった。JRなど唯一の成功例にばかり気を取られ、ほとんど失敗している第三セクターに意を留めないようなものである。
両書(良書)の共通点は、市場も政府も、人間が組織して運営している団体という点に相違はなく、社会的な効率性基準だけから見ても、どちらも広範に失敗するという事である。そして、市場がより優れているなどと簡単化した理論モデルには根本的な欠陥があるという警鐘に他ならない。財政政策に大きな影響力を持つ井堀利宏や土居丈郎が、均衡財政という単純な主張に取り憑かれ続けることなく、現状認識を再考することに期待したい。両氏は介護保険制度の改悪のひどさを認識できているだろうか。今回の世帯単位での累進的保険料徴収は制度設計がずさんなため、制度改悪になっており、国民がホモ・エコノミクスとして対応した場合、高齢者の単独世帯化(姥捨て山化)が促進し、介護保険料の支出増大につながる。こうした認識ができないなら、彼らは人間を観察せず机上の空論しかできない「象牙の塔の住人」に他ならないという証明になるだろう。
<2006.8.18記>