- G.W.F.Hegel[著]樫山欽四郎[訳](1997)「精神現象学(上)」平凡社文庫 へ3-1
- G.W.F.Hegel[著]樫山欽四郎[訳](1997)「精神現象学(下)」平凡社文庫 へ3-2
- M.Heidegger[著]原佑,渡邊二郎[訳](2003)「存在と時間I」中公クラシックスW28
- M.Heidegger[著]原佑,渡邊二郎[訳](2003)「存在と時間II」中公クラシックスW29
- M.Heidegger[著]原佑,渡邊二郎[訳](2003)「存在と時間III」中公クラシックスW30
哲学の存在論は古代ギリシア以降は、Hegelあたりまで混迷を極めていて、あまり取るに足る成果が無いと、何らかの書物で読んだ記憶がある。Hegelの「精神現象学」の読後感は冗長すぎて、解説を読むだけで十分というものだった。Hegelの経済学への影響力は大きく、その事は、悪訳書である J.A.Schumpeter[著]東畑精一・福岡正夫[訳](2005)「経済分析の歴史(中)」岩波書店 でも指摘されている。Wikipediaによれば、樫山欽四郎[訳]はよくないそうで、岩波の金子武蔵訳で読むべしとある。時既に遅し・・・。
Heideggerも各界に大きな影響力を与えた人である。HeideggerもHegel同様、かなり細かく様々な存在の解釈の過程を裁断する割に、切れ味の良い論とは言い難いし、冗長すぎる文体で論点も掴みづらい。
私には、存在論の混迷が人間の解釈の限界性を仮定して出発していない点や、その全体像を世界とする方法、つまり人間の脳の内にある概念の事だから空間の制約は無いものの、脳内の世界という閉じた体系でなければならないといった使命感というか、信仰に大きく災いされているように思えてならない。二分法的な論理アプローチを適用して解明できる分野とも思われないので、哲学の論理学における成果が活かせる分野ではないように感じる。宗教の方が得意の分野と言えるかも知れない。
宇宙論で有名なホーキングの発言「神は(自分にも理解可能な)もっと単純な世界を作っていると思った」や存在論などに見られる思考法の背景には、"理論は単純な方が優れている"といった評価や、"真理は単純なはずだ"という思い込みが影響しているのだろう。もちろん、こうした間違った思い込みから学問が進歩する事もあるから、人生わからない。
Heideggerの存在論は、時間の属性の限界などから存在の輪郭を明らかにしようとした試みであり、精神異常者と正常者などから限界を読み取ろうとする試みは当時、斬新であったろうと思う。しかし、精神異常と正常を両方経験しないと、論理的に分析できる可能性はないし、仮にそうした人が分析をしたとしても、精神異常時の事を論理的に分析できるとは思えない。また、精神正常な人が精神異常な人を客観的な分析対象とした所で、そこには翻訳プロセスが介在してしまう。そのため、翻訳ミスを避けられないし、特定の人(例え天才であっても)の解釈には限界があるのだから、その翻訳ミスがどこかを正確に認知できない。
読後感として、Heideggerが数学の積分の感性をもとに、人間の存在に迫ろうとしているという印象を得た。解釈過程が介在する限り、如何に精密に裁断しても、そこに解釈ミスを避けることはできない。また、ひとつひとつの言葉の輪郭すら、時間によって変化する。それは単に、時間軸にそって進化するような単純な変化ではない。外部から体系内に影響する新技術、それまでに存在しなかった事物や思弁の存在もどう考えているのか伝わってこない。上述した理由からHeideggerの接近法をどんなに精緻化しても失敗するだろうと思う。
難解な書物である事は間違いないため、自分の理解が正しいか、木田元の解説でも読んで確認しようと思う。
<2006.9.16記23訂正>
木田元[編著](2000)「ハイデガー『存在と時間』の構築」岩波現代文庫を読んで、最後の点は、ウィトゲンシュタインのHeidegger評と同様と知る。それでも哲学者は(存在の意味を明らかにするために)言語の限界に向かって突進するのだ、と書いてあった。
また、この本により、現在では常識化している生物学の祖が、ヤーコプ・フォン・ユクスキュル(1864-1944)であるとはじめて知る。彼がハエにはハエの環境世界があり、生物体はその環境世界にに適応し、その機能的円環関係の中で自己の有機的統一体を維持していると提唱した人だそうだ。木田元はHeideggerの世界内存在が生物学の環境世界のアナロジーと見ている。そして、現存在の基本的な存在構造を形成している世界内存在は、不安を契機に有意味性を有し(世界の開示性)、世界のあり方(有意味か無意味か)は自分の可能性をどのように気遣うかに掛かっているという。また、世界を能動的に形成する働きを企投と呼ぶ。私は9.16時点でHeideggerを読み間違っていたように思う。
解釈用のメモとして、木田の書より抜書きする他、誤りと思われるものは訂正して書いておく。現存在の全体的構造が関心(ゾルゲ)として解釈された。Heideggerによれば、根源性とは全体性と本来性を含意する(SZ33,306)。死という不定の究極の可能性を考慮する事で、全体性と本来性を考慮できそう。そこで先駆的覚悟性とは、自己の死までに先駆けてそれに覚悟を定める事によって真の自己に到来することである。Heideggerの時間は通常の意味とは異なり、時間性は存在するのではなく、おのれを時間化する(SZ328)という根源的時間を考えている。そこから将来、既在、現在を時間性の「脱自態(エクスターゼ)」(SZ329f)と呼ぶ。この根源的時間性の特徴は、1)脱自態、2)将来の優位、3)有限性である。将来、既在、現在の対応関係は、本来的時間性では、先駆、反復、瞬間であり、非本来的時間性においては、期待、忘却、現前である。人間は非本来的時間性の中に生き、世界内存在は本来的時間性を持つ。人間が世界内部的に出会う存在者と交渉を通じて自己了解を行う時、時間もまた配慮の対象となり、配慮される時間(SZ411)が生じる。非本来的時間の世界への投影は世界時間(SZ414)と呼ばれ、世界内部的に出会ってくる存在者はすべて世界時間の規定を受けるため、世界時間内部での時間規定、時間内部性が問題になる。現存在の存在構造を可能にするのがHeideggerの意味での時間性だとすれば、それは同時に現存在のうちで生起する存在了解をするものでもあることになる。存在了解は了解作用のひとつである。了解作用は認識作用の一様態などではなく、世界内存在を構成する基本的構造である。おのれを了解するとは、おのれをある可能性に向けて企投することである。神経系の分化が進むにつれてある種の学習能力が生じ、環境世界に多少の変化が起こっても、それに応じた新しい行動様式を学習する(例.パヴロフの犬)。ある閾値を越えて神経系の分化が進むと環境世界との相互連関を通じて、世界の可変性が著しく高まる。人間以外の動物は、多少の学習はできても、環境世界を変えるようなことはできず、その結果、環境世界に閉じ込められているといえる。
ここから木田と解釈が異なりそうなので段落を変える。木田は動物には過去、将来がないから、環境世界に閉じ込められており、Heideggerのいう世界内存在を持たないと考えているようである。Heideggerは動物のもつ世界内存在が無意味なため、閉じていると考えたと私は予想する。つまり、動物が不安をもとに世界を開示することはないし、非本来的時間性と本来的時間性の区別がないため、世界時間との関係も固定で変化せず、世界内存在が変化しない環境に生きており、企投を行う必要もない。人間の場合は不安を契機に、非本来的時間性が複数になりうるため、世界時間との関係が複対一を考慮しなければならない。そのため、能動的な企投を行わないと、世界内存在の構造変化で存在意義が無意味化してしまう。自己存在が無意味化すれば、心理学的には自殺してしまいそうである。その自殺回避、自己存在の意義確認のため、何らかの自己の可能性に向けて企投を行い、新たな世界内存在を構築すると考えているように思える。そうしないと矛盾する気がする。
世界内存在は新たな技術や知識によってその都度、変動するものになる。この変動期に、存在の意味性が失われる場合が、Heideggerのいう不安なら、なるほどという気がする。その場合、世界内存在を有意味化させるような、自己の存在意義を修復するような自動的免疫作用は人間に備わっていないから、木田とはやや異なるが、世界が無意味化してしまうという不安を契機に、人間はこれを修復もしくは再構築(企投)することが必要となり、成功すれば新たな世界内存在の構築という均衡を得られる事をHeideggerは想定しているように思える。こういう理解でいいなら、Heideggerのいう世界は絶えず変化しているし、個人ごとに異なって良い事も言える。最後の部分は、木田とは過程が違うものの、同意見(p119-)になっている。
126頁以降は、世界了解が複数あるため、主観的、客観的というか、幻想としての、真のというべきか、もっとも価値の高い世界了解の仕方があるはずである。どの非本来的時間を選択し、それによってどう変化するのかを探るのが、Heideggerの次のテーマになると予想される。木田も同意見のようだ。私はHeideggerが人間の行動選択の問題を扱おうと企図するために、非本来的時間軸を複数として、人間が、どの時間軸を選択するかという問題を考えているように思われる。となると、次のテーマは選択の正しさに存在意義をどう見出すのかという事になりそうだ。
木田解釈に戻り、HeideggerがKantの『純正理性批判』の「超越論的分析論」の「純正悟性の図式機能について」がこの探究を行った最初のただ一人の人と評している。その内容を書くと、図式機能とは、悟性の能力である純正悟性概念が感性の形式である時間を限定する際に、超越論的構想力(想像力)の産物である図式が両者を媒介するその働きのことである。カントの失敗の原因は2つあり、「主観の主観性をあらかじめ存在論的に分析する」ことを怠った、その時間論が「時間という現象を主観のうちにとりこんだにもかかわらず、依然として伝統的通俗的な時間了解の線に沿っていた」ことである。
Kantのテーゼは「存在するということは事象内容を示す述語ではない」。「AはBである」の「Bである」は、Aという主語概念のもつ事象内容を示す(real:レアールな)述語で、Aの存在に関係しない。「Aがある」の「ある」は主語概念に対応する対象に付いての判断主体が行う定立作用にすぎない。したがって、もっとも完全な存在者である神が、すべての事象内容を備えていなければならないといって、その事象内容に[存在する]ということまで含め、[ゆえに神が存在する]と結論するこの証明は誤りである。KantのRealitat:レアリテートはある事象が持つ事象内容を意味する。KantのObjektive Realitatは客観のうちに現実化された事象内容を意味し、現実性と同義である。このObjektは主観という意味だったのが、対のSubjektと共に18世紀に意味の逆転が起り、Kantの時代には客観という意味になった。働きかけによって事物は現実に存在する。中世存在論(スコラ哲学)では、その働きは神の創造の働き、近代では事物の働き、例えば、感覚器官に対する事物の働きかけ、近代の中でもKantだけが例外的に認識主観の行う定立作用と考えた。Heideggerは、Kantのこの作用の考えに存在するということは作られてあることと見る存在概念が潜んでいることを論証した。つまり、存在=被制作性という存在概念であるが、HeideggerはKantのほかに、デカルトや古代存在論も同じ存在概念を持つと主張する。
前2段の木田解釈(-p198)は、『存在と時間』第二部の未稿部分で特に異論を差し挟めるほど私には知識がない。それ以後の木田によるHeideggerの挫折(執筆続行の断念)の理由は変である。木田は、Heideggerが本来的時間軸そのものを選択でき、自由な企投は、人間中心主義的に近代ヨーロッパ文化を切り開けるが、それがこれまでの西洋の歴史と変わらないから自家撞着に陥ったという内容を述べている。何故そのような解釈になるのかよく分からない。素直にこれまでの議論に即せば、自由を持ち込もうが、正確にその瞬間は本来的時間軸を選べたとしても、人間の知覚作用が現存在に働きかける限り、個人としていくら努力しても、Heideggerが生きていた時代のように世界が戦争になってしまったら、本来的時間軸が変化するはずである。そして本来的時間軸の選択問題を判断するのが主観であり、人間である限り、それが真に正しい選択という保障を得る手段がないからではないか、と私は想像する。Heideggerの前期の自由な企投が有効なのは、自由な選択が保障される平和な時代に限定される。世界大戦を経験したHeideggerが、自由な企投による存在了解という能動的な選択問題ではなく、より与えられた状況に適応する型の「存在の生起」という消極的選択問題になるのは自然である。
それにHeideggerが「西洋=哲学」式の図式を保持しつづける事はあり得ない。もしそんな事をしたら、東洋に哲学がないかのような印象を与え、ナチスへの関与という歴史をもつ彼が本当のレイシストの烙印を押され、生きていくことはできないだろう。
<2006.9.23記>