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[トンデモ本] 和辻哲郎(1979)「風土:人間学的考察」岩波文庫

 和辻哲郎は、「風土:人間学的考察」岩波文庫(1979)において、Heideggerを批判して書いたと序言で述べている。和辻によれば、Heideggerは人間の実在を時空軸で考えているものの、時間軸上で考えすぎており、「空間性に即せざる時間性はいまだに真に時間性でない」と批判している。また、Heideggerは「人間存在をただ人の存在として捕らえた。それは人間存在の個人的・社会的なる二重構造から見れば、単に抽象的な一面にすぎない」と和辻は言っているが、和辻は完全にHeideggerを読み違えている。

 Heideggerが存在を論じているのは、存在論の分析解釈的立場からであり、事物的な意味での実在など考察対象にしていない。それは空間性について論じたIII巻を読めば明白である。Heideggerの考察対象としている人間存在を分かりやすく言えば、形而上学上にある人間というイメージの存在を解体して解釈していくことにあるのだから、人間の脳内の人間というものの存在の解釈について論じているのである。したがって、脳内に存在する人間のイメージを解釈すると、存在を空間的というより時間性を重視して捉えるのは、普通と言わねばならない。

 一方、和辻哲郎は「風土:人間学的考察」岩波文庫(1979)において、風土との関係から、Heideggerと全然関係のない実在する人間の気質の型を明らかにしようと試みているのである。こうした人間の類型探究は、哲学の存在論とはまったく異なる学問系統に属することは言うまでもない。

 そして、和辻の浅薄な哲学理解や考察から導かれる結論には誤りが多い。和辻が風土として考察対象とするのは主に気候である。和辻の生きた時代限定の考察から、「気候→気質」として、モンスーンが人の自然への対抗を断念させ受容性を高めると断定している。しかし、ある同じ気候地域であっても矢印の間に異なる過程が存在する。気候は、考察対象となる人が山間の民、海の民、農耕の民かで異なる生活傾向を強いるし、その当時の技術、外界との交渉の有無によっても強いられる生活傾向は異なる。この生活傾向から気質が生じると考える方が合理的で、「気候→気質」の図式は単純化し過ぎである。

 和辻の企図(一面的解釈を多面的にする)に反して、とても没個性の分析に陥っている。こうした不適切な単純化による考察態度が、後に和辻を安易な天皇制擁護論へと傾かせる契機になったように思える。和辻の歴史性の欠如も気になる。特にインドの発展の遅さをモンスーンがらみに関連付けようとしているが、かつて帝国を築いた時期にもモンスーンはあったのだから、自分に都合のよい歴史だけを取り出して、自説と当てはまりが良いと主張する類の、極めて浅薄なご都合主義の歴史解釈となっている。現在の歴史学を視座に入れると、同じ気象状況や土地の状態が、その地域で永続したわけではない。こうした考察に至った原因は、昭和3(1928)年当時における科学知識の獲得の限界というより、自然科学に対する和辻の不勉強である。

 不勉強と指摘するからには証拠を提示せねばなるまい。和辻は欧州の森林(四手井綱英に不適切な表現と御叱りを受けそうだが、和辻の用語法に従う)は、真っ直ぐに伸びるのが、風が無いからだという。謬見はなはだしい。和辻は欧州のほとんどの森林が森林官によって管理されていることを後述しているので、人為的な植付け、枝切りをして製材としての活用を目指すことが、真っ直ぐ伸びる原因である事は疑いの余地がない。また暴風による倒木の分析も根本的に間違っていて、木が普段から風に慣れていないからなどと馬鹿げた妄想を掲げている。針葉樹などの根が浅いことの方が根本原因くらい、ちょっと調べれば当時でも分かっただろう。

 もうひとつ和辻の怠慢と思える分析は歴史に関するものである。例えばインドは歴史的に多民族がそこで衝突、融合を繰り返している地点であり、日本で言えば沖縄にあたる地域である。こうしたチャンプルーしたことによって生まれた文化を、気候という一つの風土軸で統括することは様々な側面を無視する一面的理解にすぎない。それに和辻が人の気質を捕らえる上で対象とするのは、文化、特に宗教、哲学、芸術に過ぎない。つまり、類型が一面的なのは、Heideggerではなく、和辻の風土論の方である。

 また、和辻は二千年もの間、風土の変化が無いと仮定しているが、地中海が古代ギリシア当時と同じと想定するのも、地中海近辺の歴史の不勉強から来ている。現在の地中海になるまでの歴史が広く一般に知られるには、ブローデルの「地中海」を待たねばならないのかもしれない。しかし、それ以前からも地中海沿岸部の地理に関しては、度重なる戦争に使われた舟の木材は地中海から伐採されたもので、これによって禿山が増えたのではないかとの議論はあるのだから、和辻の論考はいい加減の謗りを免れない。

 また本業の東洋の芸術比較論でも、東洋の特殊性を強調するあまり、未だに根本的理解の妨げとなる間違った謬説を掲げている。例えば、造園について、「西洋は自然に人工をかぶせ」、日本は「人工に自然を従わしぬる」と言う。これは今日まで続く浅薄な理解と言わざるを得ない。同種の論に日本の芸術を「作為の無さ」「偶然性」に見る方法がある。和辻も「偶然性」に言及している。より現実的な芸術解釈をしてみたい。西洋は人工の理想形に美を見出す感性を磨いたのに対して、東洋は現実の世界には理想形が無く、理想形を崩す作為の中に自然調和を読み取り、そこに美を見出す感性を磨いたと言える。芸術行為は、人間の所作であり、人間の行う行為である限り、作為の塊であることは共通項である。和辻の論などの俗説を成立させるには、人工の理想完成形を目指す行為を"作為"と定義しなければならないが、このような誤解を生んだ背景は禅の"無"を尊ぶ思想があるのだろう。

 和辻の本とは関係がないが、禅の説明も間違った俗説が流布していると思う。無の境地とは、自然と調和し自己の存在が特別の主張をしないという意味であり、存在をなくすという事でも、作為をなくすということでもない。この辺の禅の説明もこれまできちんと翻訳されているとは思われない。茶器など幾何的な理想形から、わざと窪みを作ったりするのは、特別の主張を消し、自然と調和するために意図的に作為的に行うのであって、これを"不作為"と言われると非論理的な表現にならざるを得ない。

 和辻のような類型分析はもっと精緻化した良い仕事があり、和辻の風土論を読む価値はもはや失われている。先鞭をつけたという価値が残るのみである。

<2006.9.18記>

Kazari