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[極悪訳本,トンデモ本] J.a.Schumpeter[著]東畑精一・福岡正夫[訳](2006)「経済分析の歴史(中)」岩波書店

 中巻も上巻同様、相変わらず変な日本語訳が多い。訳に関しては中巻前半はほんの少しまとも、後半はひどい。追加すべき怠慢は、高価な訳書として訳注が少なすぎること、索引が各巻にないことである。悪訳の例示は後述する。

 Schumpeter自身にも多大な非がある。もし、この本が教科書として書かれたなら、非常に間違った方法論で書かれている。以下問題点を列挙すると、(1)自己批評を封殺しようとする書き方(具体例は後述)、(2)現代の知識を下に、過去の理論の不備を指摘、(3)分析当時の問題意識の無視、(4)分析当時の知識の限界性に対する客観的評価の欠如、などがある。現代の問題の解明に役に立つように、歴史を鑑みるという普通の学習態度からすれば、精緻に書くべき内容は、当時の知的環境から驚嘆すべき分析が生まれた部分である。Schumpeterは進化論者なのか、現在の経済学の正しさを起点に、過去の分析の稚拙さばかりを指摘している。そして怨嗟から相対的に評価を貶めようとする学者の揚げ足とりの論述が大半である。例えば、リカードウ流の悪習などの定義がこれにあたる。今日から振り返って、当時の分析がいかに愚かかという指摘は、現在の問題を解く上でまったく役に立たない。当時はどのような問題に答えるために経済的な分析が行われ、当時としては格段に手段も考察も限られている中で、現在にも通用する論理や分析を発見できた理由は何故かを精緻に追求すべきである。こうした理由で、少なくとも教科書としてはトンデモ本と断定できる。

 28-9頁でSchumpeterは「いやしくもマルクスを研究しようとする者は、『資本論』の全三巻と『剰余価値学説史』の全三巻とを慎重に読むことを忍ばなければならない」という。注では『共産党宣言』『フランスにおける階級闘争』も不可欠としている。コルナイもそうだったが、Schumpeterもマルクス批評への反論を予想してかなり神経質に予防線を張る。コルナイは自分ほどマルクスを原典で精読した者はいないと言って自分以外のマルクス解釈を拒絶しようと試みているし、Schumpeterも同様である。この間の饒舌、だらだら感は、両氏の書でそっくりである。

 マルクスを批判する近代経済学者で両氏ほど、自分がマルクスをもっとも精読した人間と宣伝する人はいない。こうした断りに数頁を費やすのは、紙面の無駄遣いもいい所である。近代経済学者がマルクス批評する際の約束毎になっていると仮定しても、分量が馬鹿げている。

 Schumpeterは中巻前半では、"ある経済学者の説で分析的なのは著作『・・・』の・・章で、ここには誰それの影響しか認められない"といった類の情報しか書かない。情報提供不足で極めて不親切である。文献すべてを読まないとSchumpeterの誤りの指摘を不可能にするような書き方は、批判を封じるための工夫であろう。

 Schumpeterの本もコルナイのような強大な怨嗟に基づいているため、分析は歪な事が多い。しかし、誤訳と情報の意図的提供不足が数多く加わるため、Schumpeterの訳書の方が読みづらい。Schumpeterの分析が手抜きで、意味不明の箇所すらある。例えば、154頁は誤訳のため著者の意図が伝わってこない。文字通りなら意味が通じないが、論旨から推論するならSchumpeterは次のことを述べている。

 貧困の原因を土地という私有財産制に求めることは非常に愚かで、明白な間違いである。その第一の理由は、貧困が見られる場合、土地ではない農村の制度的構造(何を意味しているかは不明)に求めらる場合があるだけである。第二の理由は、土地の私有制度に原因を求める場合、土地が自由財と言われるほど十分にありながら、供給を独占する企業が独占価格をつける場合と同等の場合のみしかあり得ないからである。

 後者については何故このような愚かな分析をSchumpeterがするのか分からない。誤訳に基づく推論の誤りである事を願う。推論に誤りが無ければ、Schumpeterは怠慢な考察に基づく失敗を犯している。その失敗は、貧困という分配上の問題と土地の私有制度の因果関係を考察するにあたって、私有制度の問題を比較静学に基づく土地市場の部分均衡の問題とすり替えている所に起因している。意図的なら悪質と言わざるを得ない。貧困の問題は分配上の問題なのであるから、初期状態とその後の状態を考えねばならない。まず、土地資産を所有する人と土地資産を所有しない(絶対的貧困ライン上の)人のいる状態を初期状態として設定する。次に土地が私有制で、土地の自由な売買市場の下で、動学的に資産格差が縮れば(絶対的貧困から抜け出せると想定できるので)、土地の私有制度は貧困の原因とはいえないという問題設定をするのが適当である。そこで、このような状況を考察してみよう。

 単純化のため、土地資産の有無に関わらず労働の質が同じとしよう。仮に労働の質が土地資産所有者の方が土地資産非所有者より上と複雑化させても、資産格差の原因が増えるだけで、原因のひとつが土地資産の有無と私有制度にもある点は変化しない。そして、次のような現実的にいくらでも起こり得る仮定を導入するだけで、土地資産なしの人は動学的に最低生活水準から抜けられないことは起こり得る。土地資産なしの人が、銀行ローンを組むことなしに土地購入ができない状況を仮定するだけでいい。市場均衡では、土地なしの人はローンの代金を払うと絶対的貧困ライン以下の生活しか出来なくなる。このような状況で、所得格差は広がらざるを得ない。仮にレンタル市場から土地を借りれても、結論は変わらない。そのレンタル代の高騰が賃金上昇より早ければ、絶対的貧困ラインの上から下に落ちることも簡単に起こりうる。

 普通に土地取得のためにローンを考えると、担保なしの人の方が貸出金利が高くなるのは当たり前である。その高金利を負担するのは土地なしの人であり、金利は資産保有している人に渡る。一方、土地ありの人は金利収入を得る側なので、競争的な金融市場を仮定しても、担保の有無による貸出金利の差だけで、資産格差は広がる。したがって、少なくとも通常の現実的仮定+土地私有制度の下で、絶対的貧困者はその貧困から抜け出せず、土地の私有制度を通じて相対的貧困が簡単に悪化することを、経済理論を用いて分析的に導ける。

 当時の人間の移動の自由が格段に狭く、局所的に土地供給がないだけでも、土地市場は正常に機能しない。また、売買単位の最小の一区画が大きく、金額が高いだけでも、貧困層が市場参入できないため、貧困層にとっては土地市場が正常に機能しない。担保が無いので多額のローンを組める見込みもない。また、取引が少ない土地市場は均衡からはずれやすい事は実証的に証明されている。このように、土地の競争的市場で私有制度を肯定するというSchumpeterの論理は簡単に破綻する。市場の破綻を独占に限定するのは謬見である。政府は土地市場に介入することで、貧困の原因を緩和できる。

 政策を考えるならば、政府が貧困世帯に対して、土地レンタル料金をローン代金より低く設定して、土地(住宅)を提供すれば、社会福祉政策になりうることは明らかである。動学的に、賢い貧困世帯が、余裕の生じた所得を一部消費(絶対的貧困の解消)、一部を自分の労働の質を高める投資に用いれば、相対的貧困の解消も可能となる。154頁のSchumpeterの解釈は非常に特異で、資本家に媚びているのか、自説を疑いなく信仰しているのか、よく分からないが、154頁の論考は稚拙としか言いようがない。

 福岡変態訳は数多く見られるが全部指摘し、修正案を書けば、同じ分量の書物ができてしまうだろう。既に指摘した154頁を除いて、異なるタイプ毎に数例だけ指摘しておく。

 118頁「もっともこのなかに入り込んでいる種々の要素はそれぞれはなはだ異なる価値をもっているが」などは、種々、それぞれ、はなはだと繰り返し言葉を一節に三回も使い、しかも後半二つをひらがなで連ねるので読みにくい。"もっともこの中に入り込んでいる諸要素は各々とても異なる価値をもっているが"のように工夫しないのは怠慢だ。この前後を含む文も「ではあるが。」で終わっており、日本語らしくない。同頁「すなわちかりに」も平仮名だと読みにくい。岩波書店の校正も地に落ちたものである。

 指示語の不適切は福岡誤訳の源泉で、236頁「わが領域」の「わが」の意味が伝わってこない。265頁「自分の論拠をしばしば損ねた」はあまり使わない言い回しで、"損なった"の方が自然だが、損なうは意や健康に対して使う方がより適切であろうから、"しばしば自らの論拠に対する正鵠を誤まった"くらいが適当か。次の文は「しかもこのことが物を言ったのである」は意味こそ分かるが日本語とはいえない。"しかもこのことが効を奏したのである"程度には訳して欲しいものだ。福岡訳には、ひとつひとつの日本語の意味をおろそかに用いる傾向がたいへん強い。

 273頁「科学的知識のどの部門にせよ、ある一つの部門における研究者のグループは、おそらく一つの軍隊におけるそれぞれの編隊には比較されるべきものではない。なぜなら後者は、少なくとも原理的には、何らかのプランにしたがって行動するが、これに反して科学的グループは本質的に相互に連繋していないものだからである。」も何てひどい日本語であろうか。意味もなくカタカナ語を多用し、"おそらく"も不適切だし、"後者"は"軍隊"と置き換え可能なため、文字の節約にならない指示語の使用などで、ひどく読みにくく、発音しても変な感じしかしない。例えば、"どの科学的知識の分野であれ、特定分野の研究者集団は、軍隊の諸編隊に例えるようなものではないだろう。少なくとも原理的には、軍隊はある計画にしたがって行動するのに対して、科学的集団は本質的に相互に連繋していないからである。"くらいに訳せないのだろうか。このようにすれば、一読で頭に入る訳文といえるだろう。

 395頁のplausibleは普通に「もっともらしい」を選ぶべきだ。「まことしやかな」はその後に否定語である嘘などにつらなる事が多い語で、うさんくさいなどの意も含む。これより「もっともらしい」の方が文意が通る。英語の専門家に確認すればいい手間も惜しみ、自信のなさから「(plausible)」と書いているのも手抜きの証拠である。

 386頁「かくしてシーニア--もしくはウェストとシーニア--は、農業が低減法則の妥当領域であり「産業」が逓増法則の領域であるというような、死滅してしまうのにはなはだ長期間を要した伝統が生まれた責任を負うものでなければならない。このようなまったく人を誤解させるとり扱いは、つぎの期間にいたるまで、訂正されることがなかったのである。」の2文もひどい。長文と句読点の不自然さが読みにくさを倍増する。"このような理由で、シーニアは、あるいはウェストも、[農業が低減法則の妥当領域であり、「産業」が逓増法則の領域である]という伝統を生んだ責任を負わねばならない。この伝統が死滅するまでに、はなはだ長期間を要した。人に誤解を与える解釈は、つぎの期間にいたるまで、訂正されることがなかったのである。"くらいが適当な訳だ。"つぎの期間にいたるまで"は意味をなさないので、意味を通すには原文を参照する必要がある。

 417頁「人間の心にとっては、もっとも端初的な概念的図式を案出することのほうが、これらの要素が充分に掌握されたときそのもっとも複雑な上部構造に推敲を加えることよりも、はるかに困難であるということが、あらゆる科学の歴史のなかから、われわれを見詰めている事実なのではなかろうか。」もひどい長文で、誤字があり、文の構成も極めて悪い。「端初」は誤字で"端緒"である。2文に分けて適当な訳をつければ、"諸要素を充分に掌握して、もっとも複雑な上部構造に推敲を加えるより、もっとも端緒的な概念的図式を案出するほうが、人間の心には、はるかに困難である。このことは、あらゆる科学の歴史がわれわれに照らし出す事実ではないだろうか。"となる。「心」も誤訳と思われる。原文がIt is obviously more difficult to apply the mind of human to... than...などで、熟語を取り違えたのだろう。第二文も、原文を参照しないと分からない。少なくとも福岡訳では日本語として意味が通じない。誤字は岩波書店の校正能力の低さを表している。

 421頁「・・・に要するすべての要素」は、・・・が長い修飾句で、次に短い修飾語「すべて」、そして名詞が続く典型的な悪文である。「・・・に必要となる要素すべて」とする方が格段に発音が容易で、かつ読みやすい。この正しい訳出の方は、翻訳の基礎技術のひとつであるため、福岡が基礎技術も持たずに訳出している証拠となる。

 421頁「これを試みた最初の人であった」は不適切な指示語と、直訳文である。福岡は自ら「分かりやすい日本語」にしたと日経新聞に語っているので、直訳調はできる限り、日本語らしく改めるべきであろう。前半部分を考慮すると、"訂正を最初に試みた"で文意は明白になる。この前の文の「これ」は"現代では誤謬とされるリカードの定理"を指すし、ここでの「これ」は、"定理をまともにする"を受けているのは明白なので、そのように訳せばよい所である。福岡は指示語を自分が理解できないまま、指示語として直訳するので、こなれていない日本語となる。

 421-2頁「マーシャルは確かにそれに成功した。もっともそのためには、ミルのヴィジョンの圏外にある考え方に訴えるところがないわけでもなかったが。」も馬鹿げた文である。"マーシャルは定理の訂正に確かに成功したが、そのためにミルの構想以外の考えを必要とした"と差はない。二重否定に特に強い意味が無ければ肯定にするのも翻訳上の基本技術に属する。

 432頁「リカードウの意味での賃金財の実体価値」は意味が不明瞭である。実体価値はリカードウが導入した概念のはずだから、前置きする意味がない。労働賃金を指すならそう訳せばいいだけのことである。ここも訳出時に文意を正確にとろうとしない怠慢訳といえる。

 433頁「これはマーシャルやエッジワースのために後まで保留された」は誤訳と想像する。原文を見ずに言うのは良くないが、文意は、"マーシャルやエッジワースの登場までこの状態が続いた"という事だから、it is 過去分詞形のitに意味のない英文のitをこれと誤訳したために滅茶苦茶な訳になった可能性が高いと考える。その後の文の「彼ら、」は明らかに不要である。

 434頁「ミルは寛大であったため」の「寛大」はtolerantだろうか?それならばSchumpeterが皮肉を言っている部分なので仕方ないが、訳注として書いて欲しい所だ。続く文が否定的な評価なため、generosityなら"鷹揚"と訳すべきところである。446頁「リカードウの悪習(前述、第四章第二節、参照)」は明らかな手抜き。18000円も取る高価な訳本なので、(179頁参照)とすぐに参照できるように訳出するのは当然の責務だし、最近の版下作りなら、この程度の事は自動的に処理できるはずである。福岡より岩波書店の怠慢とするべきかもしれない。

 446頁「このような画面」は意味不明なため、誤訳だろう。455頁「しかし、・・・ここに示すことにしたい」も直訳悪文で、"しかし若干の読者が歓迎するであろうケインズの分析に関する要約は、ここで示すことにしたい"の方が断然よい。466頁の「読者みずから納得されたい」も日本語ではない。467頁「以上の・・・略・・・となる。すなわち、・・・略・・・が、それである」も直訳悪文で、2文にする価値がない。"ここからスミスが採用したのは第二の区分であり、スミスが第一の区分と混同したことが明瞭となる"で分かりやすい日本文になるため、直訳調で長くして読みづらくする意味がない。

 その他にも形容詞が不適切な例もたくさんある。同頁「とても明白に看破した」は直訳だろうが、普通ではまず使わない形容詞を動詞につけて日本文を勝手に作るのは雑に訳している証拠といえる。476頁「また以上に劣らず明白である」も意味不明。同頁「・・・を定義して、〜であるとした」も変な訳で、「・・・を〜と定義した」とすればいい。480頁「ところが彼の眼中からは、・・・がまったく逃れてしまっていたので」も日本語として不適切である。"まったく"の後に否定語がこないのは間違いなのだが、最近こうした悪文が増えている。"ところがシーニアは・・・を眼中に置かないので"と訳した方が分かりやすい。

 535頁「すなわち種々の集計量のあいだに単純な関係を設定し、そのさいこれらの諸関係は因果的には重要性を持つ見せかけの栄光に輝くが、他方真に重要な(しかも不幸にして錯綜している)事柄はこれをそれらの集計量のなかか後ろに放り込んでしまって顧みないという悪習に感染させたのである。」は意味不明な文。536頁「しかし彼は何ものをも加えなかった。トレンズはまさしくあるものを加えた。もっtもこれは最初から明白であるべきはずのものであった」は小学生の文章。次の文の終末「、としたのである。」も普通の日本語では使わない言い方。「それだけにますます驚くべきこととされねばならないのは、ジョン・スチュアート・ミルのいわゆる改説('recantation')であるように思われる」は直訳悪文で、英単語を囲む''が意味不明で、長い名前も一度出した後(以後、J・S・ミルと略す)とすれば読みやすくなるし、紙面の節約になる。

 539頁「さて、世の大衆に関するかぎり、--いや、専門家のなかの大衆に関してさえも--以上ですべてが尽きたわけではない。われわれの領域できわめてしばしば起こることが、この場合にも起こったのである。」の「専門家のなかの大衆」が意味不明、「以上」という言い方も不適切で、"これまでの指摘事項"などとすべきところである。次の文は意味不明。この頁の「これ」も基金なら節約にならないので、基金と訳出すべき。指示語のままが多すぎで、訳文が悪いから、どこを指しているのか日本語で追えない。同頁「以上のすべてがいかに不条理なものであったかは、当然にあきらかなところであった。」くらいひどいと日本語と思えない。本当にこんな強調があるなら、Schumpeterの英文が幼稚ということになるだろうが、訳文が強調のしすぎで、"これらすべてが非常に不条理なのは明白である。"くらいの英文と思う。「しかし大多数の賃金基金理論化の背後に潜んでいる「実際的な」診断が、たとえ世人のために粗雑なものにされたとはいえ、なお常識以上のものではないことも、これまた負けず劣らず当然に明らかなところである」の「実際的」は意味がわからないし、文章が幼稚園児なみである。

 540頁「忌むべき案山子を拒否した」も意味が分からない。禁忌だから避けるべき案山子を拒否するでは意味をなさないし、このような成句は存在しない。「しかし上記の感情論や、また「理論」が政策の導きになるといったような、これに劣らず不条理な信仰が、本来専門的な論点に関する無味乾燥な議論たるべきものに、風味と光彩を加えるところがあった」も変な長文かつ意味不明。541頁「ところが大多数の経済学者はそうした方途を辿らなかったので、結局三つの区分された説について語るほうが、歴史的にはいっそう現実に即することになるであろう」も「歴史的には」の意味が伝わらない。"歴史的事実に即する"の誤訳か。

 548頁「真実費用」は何のことかさっぱり分からない。552頁「真にその理由とするところは、」という日本語も読んだことも聞いたこともない。553頁「最後にいま一つの部類の問題に触れなければならない」も日本語ではない。"最後に別種の問題に触れる必要がある"の誤訳。このような段落の先頭の文にくる must や have to は、"必要がある"と訳する方が文意が通ることが多いのは常識である。555頁「慰藉(いしゃ)」も分かりやすい日本語を目指すなら、"慰め"と訳すべきところである。原文は、consolation?

 572頁「後述すべき留保条件をつけて言えば」や「混り気なしの欠陥」も意味不明。573頁「推賞」も変だ。辞書によっては(物を与えて)ほめることを指すという。広辞苑では「推称」の方が優先順位が高い。ちなみに「推奨」がもっとも良く使われる。575頁「正常的な」「正統的でない」は日本語としても英語としても存在しない。"正常な"、"正統でない"の誤訳に違いない。

 本文の一部指摘だけでもこの有様で、この他にも枚挙に暇がないのは言うまでもない。しかし面倒なので省略する。

 最後に、ほとんどないが、役に立つ箇所の指摘をしておこう。293-4頁の経済学の定義集は役に立つ事もあるだろう。上巻で指摘したSchumpeterが他の分析者の失敗した理由を推論する部分は役に立つだろうが、中巻では該当部分がほとんどない。経済分析の進歩を推論している部分も役に立つ可能性がある部分だろう。中巻では、リカードからマルクス(396-408頁)の論考はやや参考になる。あとは、436頁の1-7行、554-5頁くらいしか見当たらない。

 製造物責任法が本の内容に適用できるなら、回収義務が必要なほど、ひどい訳の本である。もし完成度の高い訳を100点とすれば、この本は10点もとれない。質が数%しかないのである。岩波書店は悪訳を出版、図書館に購入させた責任を取って、全品を自主回収し、まともな訳に直して、出版し直して欲しい。こういう悪質な書物に対して、全国で図書館連盟を結成して、あまりにひどい悪訳や事実に反する出版物は、出版社に返金請求して節税して欲しいものだ。

<2006.9.23記>

Kazari