書評


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[普通] 池上惇[ほか編](1998)「文化経済学」有斐閣

 今回は申し訳ないが、この本への書評はほんの少しである。最初に本関連のことを述べる。この有斐閣ブックスという教科書シリーズはなかなか変わった切り口のテーマが多く面白い。この他に、現代の経済政策、産業組織論、現代経営管理論、テキストブック国際経営などがある。この本の279-285頁に「文化経済学研究の沿革」という題のまとめがあるので、ざっと読んで興味がもてれば、全文読めばよいのではないかと思う。

 これ以降は時事トピックにもしずらい所謂芸術論に纏わる謬説や「芸術の経営学・経済学」に対する違和感を書き留めたい。

 書道評論家の石川九楊などが、抽象度の高い方が藝術性が増すなどと謬説をばら撒いている。抽象度を高くすれば、それまでの制約から解放されたような錯覚が得られる。作品製作に携わる人間は自分の作品に疑心暗鬼に陥りやすいため、この解放感はたまらないのかもしれないが、勘違いして現代アートなどと称して、小学生のような字や絵を描く愚人も多い。石川九楊は抽象=現代藝術のような錯覚に囚われて、最近は抽象墨画(定義は後述する)を作品としている。

 藝術は、藝の字を含む。藝の意味を広辞苑を紐解いてみれば、「修練によって得た技能。学問。わざ」という意味と、「技能をともなうあそびごと。あそびごとのわざ。また、機知や工夫」という意味がある。農藝、園藝、藝術や武藝は前者の意で、藝能や遊藝は後者の意である。藝術には(長期間の)修練によって得た技能を必要とする一方、遊藝の方はもっと簡単に誰もが参入できる。

 いきなり言葉の定義を書いたが、この言葉に丁度適応している事例があるので、紹介しよう。三線(さんしん)と毛遊(もうあそ)びである。伝統藝術として三線(さんしん)を弾くのと、一般の人が毛遊(もうあそ)びするのは、弾き方がまったく異なる。伝統藝術として三線(さんしん)を弾く場合、決まり事がたくさんあり、正規に演奏することは簡単にできない。毛遊(もうあそ)びは、三ヶ月程度の練習で可能になると聞く。私は藝に関する遊びの方を遊藝とし、藝に関する(長期間の修練を伴わないと大成しない)競技の方を藝術と定義するのが妥当であると思う。

 伝統分野で大成するのには高度な技術が必要なので、熟練にそれ相応の時間が必要となる。書学者が、書家から「理論は知っていても、その通り筆でかけない」と言われ、彼の作品が評価されないことを理由に、抽象化に逃れているのなら、藝術を語る資格など無いものと思う。石川九楊の場合、古典もそこそこに書けるので微妙ではある。

 抽象化の場合は、抽象化という判断基準だけでは評価できない。抽象化した作品が誰にでも簡単にできる技法に基づくものは遊藝で、書に近い世界では前衛書が該当する。一方、抽象化といっても超人でないと達せられない世界もある。ピカソやカンディンスキーのような画家がその良い例である。ピカソは青年時代に天才画家と呼ばれ、初期のデッサンの細密さ、精緻さ、柔らかさは秀逸で、見ていて惚れ惚れする。後に超現実派・抽象派になるが、キュビズムは私の好みで無いものの、素人が簡単に描けるものではない。カンディンスキーのような抽象画には藝術性が感じられる。カンディンスキーの場合、絵画の作成方法は、普通に描いていた時期より複雑化している。構想時には抽象画にする前に扱う部品となる対象を普通に細密にデッサンしているし、それを崩す方向で校正し直して、またカンバスに細密にデッサンし、色を重ねていく。こうした技法をとった背景には、戦時中ファシズムが吹き荒れるなか、好きな主題の絵画が普通には書けないという極度の緊張した環境が影響している。要するに、ピカソもカンディンスキーも基礎技術の習得も拒んで、安易に抽象化に向かったわけではないからこそ、藝術性を損なわなかったといえるだろう。したがって安易な技法にもとづく、抽象化は藝術性の喪失にしかならないことが示唆される。

 通常、書道では文字性を重視して、「読める」文字を書くことが主流である。ここで言う「読める」は知識があれば読めるという事で、現代人の誰もが読めるという意味ではない。書には、篆書、隷書、草書、楷書、行書の5つの基本書体があるが、篆書を更に小篆や大篆に分けたり、使われていた時期・地域、文字の形状から金文、甲骨文字などに分類することもある。これらの書体の作品のほかに、形状が面白い"瓦當文字、鳥獣文字、トンパ文字"などが作品化されることもある。それぞれの書体に独特の形状があり、その書体としての書き順、崩せる範囲が決まっている。この制約条件下で書家達は藝術性を競うのである。

 最近は現代詩を漢字かな混じり文で作品にして、「誰もが読める書」を流行らせようとしているが成功していない。これは書道人口を増やそうとする苦肉の策であろうが、抽象化して読めない嘘字を書くのと、誰もが読める書が、より簡単に書けるという技法を意味するなら、そこに藝術性が残存する余地はない。現代書道の中島司有の藝術性がいささかも損なわれないのは、伝統技法を守りつつ、ロウケツ染めを取り入れたり、カタカナを取り込んだりしているためである。

 つまり前衛書などというものは、少なくとも伝統的な書とは最低限守るべき技法が異なるのだから、名称として書という言葉を使わずに前衛墨画などと命名するべきだろう。名称としては伝統的な書の後ろ盾を利用しつつ、まったく異なる方法で藝術と称するのは詐欺にしかならない。前衛書を名乗る不遜な方々は文字性を捨てる事に意義を見出しているようだが、それなら前衛墨画とでもして新分野を確立すればよいと思う。その場合、どういう技法で藝の術(わざ)を競うのか、是非とも公開していただきたい。作者の内面を吐露し、そのような作者の作品解釈を強要されても共感など得られる見込みはない。

 技法にまったく規則のない競争をするのは暴力を振るうのと大して変わらない。既存の藝術に対抗する技術がないからといって、暴徒のように振舞う態度は遊びこそ相応しい。

 私が中学の授業で書道を習ったとき、担当の先生が「無作為な方が純粋」とか「子供の書が理想」など極端な考えに染まった方であった。本人は六朝体が好みらしいが、書を嗜む私から見ればかなり下手であった。こうした前衛思想はただの遊びである。

 それにこれまで私が書の展覧会で見た抽象化した作品のほとんどは愚作だった。教育書道は漢字を簡易化する過程で、新しい書き順ができ、伝統を疎かにしてしまった。例えば、臭いのもともとの漢字は「鼻」と「犬」から合成されて出来ている。合理的な理由も無く、あるべき点が削除された。これでは合点のいかない文字になってしまう。そのため、教育書道は藝術よりも遊藝の側面が強い書である。

 それにはじめから書きなぐっただけの偶然性による抽象などは誰もが描けるため、藝術性はまったくなく、遊藝と称するのもためらわれる。遊藝が台頭した背景には、上述した藝術という言葉に対する理解の不徹底もあるが、伝統藝術の低質化もあげられる。現代書道二十人展の魅力などだいぶ失われた。日展にしても、好きな漢字書きだった藤本竹香、松井如流、殿村蘭田や戸田提山など多くの書家が既に他界し、年々見所が失われていっている。近年の書では関正人、綿引滔天など印刻作品だけが私の見る所となった。

 こうした展覧会の低質化の背景には、出品者数の増加、つまり無節操に低質の半専門家を増やした事も原因となっている。半専門家とは、作品の売買だけで生きていけない人のことである。昔は専門家が少ない分、書道だけで生きていける人が藝術の担い手であった。また書道雑誌による通信教育などもその一因である。専門家の生活を支える手段となる一方、合理的経営者は何度も昇段試験などを受けてくれる貴重な講習者を絶対基準で落とし続けることは難しい。その結果、日展には多額の献金(数百万)がないと、会員水準の質がどんぐりの背比べのため、審査を通らないと言われる。その反動として、前衛書のような無節操な遊藝が生まれるのも故なきことではない。

 主に書を中心として展覧会での競争(市場)を考察してきた。遊藝が台頭した主な原因としては(1)藝術への理解の低下(教養の低下)、(2)伝統藝術の低質化があげられよう。問題は役割分担が認識されていないため、藝術と遊藝がいがみ合っている事にある。どちらが優越ということではなく、それぞれが別の楽しみ方を持っているというべきなのではないかと思う。だから藝術は伝統的技法を守る集団が担い、専門家を養成し、遊藝は半専門家が楽しむ場でいいのではないか。半専門家といっても技法上異なる手法で発展するのだから、伝統的技法を守る集団は藝術を追及し、逸脱を楽しむ集団は遊びを楽しめばよいのではないか。

 藝術性がなくても「相田みつを」などの下手な書が尊ばれる理由は、専門家の評価と一般の評価が異なるためである。専門家は技法から判断する限り、相田みつをに感心することはない。いわゆる文人の書として「味わいがある」と評することはあっても、そこに藝術性を認めるかは疑わしい。しかし、一般の人はどのような技法で書かれているかは興味がないため、選んだ言葉がいいからなどの判断基準で良いと評価する。こうした文化人や著者の書には嘘字も多く、遊藝に属する作品群とはいえ、高い評価を得られることもあるのである。そうと分かれば、逸脱を好む遊藝の集団は藝術を目指さずに、一般の人が参加できる手法を取る事が重要である。展示場で一緒に作品を作るとか、見ている人の前で作品化するとか、・・・。

 最後に、文化政策を考えると、藝術は担い手になるまでに長期間修練が必要なため、世襲以外の参入手段を確保するために、国が教育援助するのは合理的である。実際に、歌舞伎役者をほんの数人、国家によるエリート教育が実施されている。逆に遊藝は誰でも参加できるくらい技法は簡単なため、場所の提供だけ考えればよい。全般的な社会福祉のために労働時間短縮など文化関係への参加時間が確保しやすくなる政策もよいだろう。しかし、芸術家への直接的金銭支援は技術革新や創作への意欲を低下させるだけなので行うべきではない。

<2006.9.24記>

Kazari