書評


書籍選択に戻る

[トンデモ本] 荷宮和子(2003)「若者はなぜ怒らなくなったのか」中公新書ラクレ

 またリサイクル本からトンデモ本を読む羽目になる。世代論でまともな議論はほとんどないが、この本の出鱈目な推論にもうんざりする。根拠にアンケート調査などを当てるなど基礎的な努力も怠り、推論につぐ推論からの結論で、「いまどきの若いもん」の行動原理を勝手に妄想しており、怠慢としか思えない。

 序で著者は「この国を覆っている閉塞感」を「投げやりさ」と推論しているが、根拠に乏しい。現在は、経済的には右肩上がりの成長を経験した団塊の世代とは異なる局面におり、また弱者を嬲る政治が台頭しているのだから、若い世代が白けるのは必然であろう。特に世代に関係がない。あえて言うなら、1947〜49年のベビーブームで生まれた団塊の世代は、この本が出版された2003年には、54〜56歳になっており、定年が近く、もう一度右肩上がりの経済などどうでもいいのであって、生涯所得で見ても得をしている世代である。一方、団塊ジュニアとは1971〜74年生まれの第二次ベビーブームの世代である。バブルが弾けた1990年に16〜19歳で、その後、就職難のなか大学を卒業する世代であり、無責任な団塊の世代のつけを理不尽に払わされている世代である。著者によれば、彼らはぬくぬくと育ったらしい。著者はいじめを受けた経験もないらしく、自己の経験を簡単に世代にまで拡張するが、こうした推論は迷惑この上ない。団塊の世代の独りよがりを批判している著者が同じ過ちを論考で繰り返している。団塊ジュニア当たりから、学校におけるいじめ問題は非常に深刻化していっている。しかし、まだ一つの組に人数がいる分、陰惨にはなりにくい側面があった。少数クラスの誕生や金八先生などの劣悪な番組と共に、全国的にいじめが当たり前となっていったように思う。これを止めなかった責任は、親世代の責任であり、団塊の世代の責任問題であり、団塊ジュニアに非があるわけではない。著者は「団塊ジュニア」のいじめ問題を団塊ジュニア=ぬくぬくと育った世代と仮定する事で無視する一方、「なぜ人を殺してはいけないか」といった下らん問題は取り上げている。

 自らをくびれ世代と称して自分の世代だけ正当化しようとする箇所が多いが、これも根拠は示されていない。著者によれば少数意見ながら、団塊の世代と団塊ジュニアの世代の間に位置するくびれ世代は怒っているんだそうだ。著者は1963年生まれで、くびれ世代だそうである。私も定義上は著者のいう「くびれ世代」に該当するが、著者の意見に賛成できる箇所はほとんどない。そもそも団塊の世代を上記のように3年程度で定義するならば、「くびれ世代」1950〜70年生まれということになり、20年あるのだから最大多数である。この著者の推論が非論理的な事もあるが、データを取らない怠慢さや調査不足による事実誤認が多い。

 いじめを受けた大半の人は、怒るべき時でも怒るのが億劫だろうと想像する。私自身が数倍にお返しされている経験があり、億劫だからである。正直、私自身、相当の事がない限り、怒りを露にすることはない。社会正義を守らないといけない場合のみである。団塊の世代に注意するのも億劫である。やたら根拠に乏しい自信だけはあるので、正論を言っても後で陰湿な嫌がらせを執拗に行う人が多いからである。50人程度に試していやな目に遭うとそれ以上試す気がしない。何かの宣伝であったが、団塊の世代は最近の若いのは元気がないと言い、自己主張していいのだと言いつつ、Yes-Man以外を無視するというのがあった。自分達の世代はより上の世代から育てられたにも関わらず、その恩を忘れ、自力で為したと勘違いし、そういう謙虚さを失った感性が暴虐な態度を生むのかもしれない。団塊の世代には自力でのし上がったと放言する人をよく見かける。ジュニアはせいぜい「give and take」などという程度である。私はこの言葉が嫌いであるが、それは権力のある者がわずかのgiveを誇大にして、圧力をかける時に使うためである。多用な価値観を前提にすると、「give and take」なんて大抵は誤解の元にしかならない。

 いずれにしても、団塊の世代の悪行は団塊の世代が正すのが正論であり、それを若者の怒りに期待する事自体が著者の甘えではないかと私には思える。そしてどの世代であれ、現在は正論を言える雰囲気が失われつつあるのである。

 「フリーター=弱者」説への違和感という章で、「フリーター=弱者」説が受け入れられていると書いているが、何をもって受け入れられていると言っているのだろうか。日本ほど、長期アルバイトの雇用保険、厚生年金、厚生健康保険の加入に関する法整備が遅れている先進国はないのだけどなぁ。政策的に差別されているのだから、世間的に同情される程度では駄目なのです。単に景気だけのせいで、与えられる職業が正規雇用より圧倒的にアルバイトが多く、その事が原因で世代間の不平等があるのなら、是正するのが政治であり、それを促すのが評論家の努めのはずが、この章ではまんまと大企業の経営者に都合のいい若者像を著者は押し付けてくる。こういうのって読むだけで不快だなぁ。

 典型的な著者の推論の誤りを見ておこう。2chのような掲示板は、匿名性があるから、罵詈雑言が安易に書けるとする一方で、その書き込みを「最近の若いもん」と断定している。匿名なんだから世代なんて分かるはずもないのですが。統計も取らずによく断定する人だなぁ。2ch以外の掲示板でも、罵詈雑言になる事は頻繁に見られることであるが、言葉の使い方を見ていると、特に世代を限定できそうにない。一応、実名を書いて論争していた掲示板もあったが、そこでも中傷合戦となる事はあり、その場合、年齢はほとんど関係がない。私が思うに、著者は掲示板で書き込みの経験も大してないのにも関わらず、周りの風評から、ちょっと2chの掲示板を見ただけで推論しているのではないかと思え、そういうのを読んでも、怠慢だなぁと思う。

 「殺される側」の視点の封殺という章も変である。なんか特殊なノンフィクション作家なるジャンヌを恣意的に創設して、男性批判をしたい女性作家のくだらん戯言に見える。本多勝一などは「殺される側」を書いているし、多くの公害被害の本も被害者側から事件を見ている。どういう病的心理が被害者を見殺しにするのか知りたいので、かえって公害を出す加害者側の小説が見たいくらいであるが、こちらはあまり知らない。それに事件報道は殺される側の視点を封殺することはあまりない。逆に貧困が理由で加害者になるような場合、徹底して加害者の置かれた社会的状況は隠蔽されるのが、米国と日本の事件報道の特徴である。カナダのような事件報道になる必要がある。また、凶悪事件は低下の一途を辿り、執拗に一年前の事件を報道するのも、日本の特徴である。警察権力がマスメディアに天下りでもして、そういう偏向報道の圧力でもかけてるのかしらんと思うほどである。

 この著者の根本的な誤謬は、誰にでも共通の「怒るべき時」があるという認識である。経験的に言って、人により怒る点は相当に異なる。これを強要されると価値観の押し付けにしかならない。この本に終始違和感が消えないのは、個性を重視したくびれ世代と称する著者が、単一の「怒るべき」の価値観を強要する点にある。

 右肩下がりの時代で、ようやく自らの世代の怠慢、つまり労働組合などを通じて、きちんと怒りを表明しなかったため、賃金減少の憂き目にあった事を書く。遅いし、反省がない。政治に疎い事も、投票に行かない事も、周囲を投票に誘ったり、労働組合に参加しないのも、くびれ世代とか関係なく、怠慢だったツケなのである。

  唯一まとまな議論をしているのが、石原都知事批判である。著者の主張はほとんど正しい。あんな知性の低い人間に日本の総理を任せたら日本の破滅はますます進む。

 世代論を読んで、改めて世代を超えて、批評し、議論することが大事だと思うのだった。とても億劫で面倒と言いつつも、私は自己主張をしないわけではない。たびたび健康被害にあうので、マナーの悪い喫煙者には苦言を呈している。”関わり合いになりたくない”という風潮が強まれば、簡単に社会状況は悪くなる。いじめによる自殺の増加もそうした事と無縁とは思われない。助けを求められるのが健全な社会であり、その助けに応じられるのが、よい社会だと思う。そうした善い社会が崩壊しないように世代を超えて、皆が各々のやり方で努力する社会でなければならないように思う。批判や批評がなくなれば、世の中がよくなる機会が減ってしまう。失業者はもっと連繋してデモくらいしてもいいと思う。

<2006.11.25記>

Kazari