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[トンデモ本] 山折哲雄(2006)「ブッダは、なぜ子を捨てたか」集英社新書

 毎日新聞に掲載された高樹のぶ子評から、トンデモ本であろう事を確信しながら、仏陀の批判書と受け止められるので、図書館から借りて読む。以前、知人に勧められて読み、良い読後感のあった「聖書時代史」の著者:山我哲雄とは一字違いの別人であり、安心した。

 この著者の論理性のなさや推論失敗の背景は、「インドの時間概念の無さ」を悪用し、仏陀の生きた時代の時代考察を全く省いて、現代の日本の家族と同様に仏陀を比較する方法論にある。専門は宗教史、哲学史とあるので、歴史家として非常に怠慢である。時代考察をしているのは一箇所、著者の推論に関係の無い部分である。卑怯なやり方である。

 私には、仏教を専門とする方が「にせ:仏陀はなぜ子を捨てたのか」と題して反駁した方がいいように思える。これほどひどい仏陀論は読んだ事がない。この著者の質の低さは引用文献に現れている。全部、中村元の文庫本、こういう非常識な著作を書く以上、全集から歴史考察した上で、引用すべきではないかと思う。読んでないから書けないのだろうし、歴史考察をしていたら、こんな暴論は書けまい。

 まず、仏陀が子を捨てたと著者は定義しているが、この定義が異常である。仏陀は、王族の生まれという伝承で、どの王朝か特定はされていないが、一般的な歴史解釈としては地方の王族であった事は間違いないと考えられている。仏陀は王の嫡男であるから、日本では、天皇が政治の頂点にいた当時の皇太子に相当する人物である。その嫡男が、自分の妻が男児を設けた途端に出奔した事を「子を捨てた」と定義している。どうしてこのように定義できるのか、皆目、見当がつかない。嫡男を設けた妻は、王族の一員として不当に扱われる心配がまったくない。だから、長期の旅に出るには絶好のタイミングと見て間違いない。フェミニスト向けに根拠の乏しい謬説を撒くのは止めて欲しい。評者もこんな非論理的な内容から、「仏陀は、・・・妻子を捨てた酷い男だ」と言っているが、このような宗教弾圧的な発言をする宗教感覚の乏しさは国際紛争の源になりかねず、評者の見識を疑うに十分である。

 イスラム教徒は一般に他宗教の聖人の批判をしない。それが故に、ローマ法王が一方的にマホメッドを批判すると、宗教弾圧であるとデモを起こすのである。Wikipediaによれば、高樹のぶ子は女性作家だそうだが、こんな非常識な推論部分をメインに書評を書くだけに宗教の本質的理解はまったくできない人物と見て間違いない。この書物に良い点があるとすれば、それは仏陀論を除いて、日蓮派の藤井日達上人について書き始める197〜214頁に限定される。インドのカースト批判は正鵠を得ているが洞察力は無きに等しく陳腐だ。

 いくつか俗っぽい謬説を書いているので反論しておこう。第二の点は仏陀の子息に対する幼名についてである。「悪魔」という意味にとれるから、第二の子捨てだと著者は定義している。タイなど幼名に悪い名をつける習俗がのこっている。「ちび」「でぶ」「ぶす」など実にひどい名を付けられるが、これは悪魔が良い名をもつ人間だと誘惑して殺すという信仰から、それを避けるために行われる事は、アジア宗教に詳しい者なら常識である。したがって、そういう習俗のある事実を伏せて、自分勝手な妄想を正しいとする山折哲雄氏の手法は悪辣極まりなく、まさに悪魔のような手法である。

 第三に仏陀が捨て子と定義し、継子いじめがないのはおかしいと妄想している。そもそも当時の衛生環境から言って、子息の誕生直後からしばらくの間に妊婦であった母が死ぬ事は珍しいとは言えない。1800年代の統計からもそのように断言できる。そして嫡男を当時の習俗で妹が養育するのは、極めて自然であり、現代の継子に該当することもない。そもそも王族の嫡男男子であれば、母健在でも、母が全面的に養育するわけではない。父も同様で、これは仏陀の伝記にすらある内容であるが、著者に不都合なため、無視されている。

 第四に仏陀とガンジーを比較することがおかしい。仏陀は当時、王族として、バラモン教の僧侶と敵対関係にあったのではないかと推測されている。つまり、僧侶が既得権益から、民衆を痛めつけるのを心良しとしなかったと考えられている。一方、ガンジーは法律家、つまり商人の階級からヒンドゥー教(バラモン教から発展し、仏教と敵対した宗教)を全く批判しない立場を生涯貫き、そのため、アンベドーカルなどのインドのアウトカーストから批判されている。こうした事実も知っていて、伏せていると思われ、非常に悪質な推論展開を行っているのである。

 第五に、多聞の意味を著者は根本的に誤解している。自身で、経典編纂時に主導的な立場となったと記述しながら、多聞の特徴として、暗記力の高さを無視するのである。多聞の特徴は何と言っても、記憶力にあり、他の弟子があの時、師である仏陀はこういったという内容に少しでも誤りがあれば、それを正すのが、多聞の一番の役割であるが、これが著者の手にかかると、「愚痴も聞いたであろう」に卑俗化されてしまう。

 第六に著者は「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」で有名な平家物語が、詠嘆的無常観であると断定している。平家物語は戦記であり、栄華繁栄にあった平家が滅亡していく物語なので、仏教の乾いた無常観と合致する。これを詠嘆的というのは、今日の日本人である著者に過ぎないのではないかと思える。

 この著者は妄想癖がひどいらしく、その特徴は79〜93頁によく現れている。司馬遼太郎氏も自らを謙遜して、妄想という言葉を多用したが、山折哲雄は時代考察・文献精査がほとんどなされていない、単純な妄想の類で、よくこんな出鱈目を書けるものだと感心するが、集英社新書にはひどい著作が多い。

<2006.12.16記>

Kazari