[トンデモ本] 宮崎哲弥(2006)「新書365日」朝日新書
宮崎哲弥(2006)「1冊で1000冊読めるスーパー・ブックガイド」新潮社
評論家として、テレビで見る機会があるので、宮崎哲弥を評価するために読む。評価されている本も合わせて、数点読んだ上で判断することにした。既読のものも多数あるので、新規に数点読めば評価するのに十分と判断した。後者の本は編集も雑だし、日本語も汚く、読むに耐えない感がある。紹介の仕方も稚拙極まりなく、ほとんど読書欲の促進をもたらさない、ある意味、稀有の本の紹介本であった。リリーフランキーよりひどい紹介本なのである。
後者はまったく論ずるに足る箇所がない。正真正銘のトンデモ本である。前者は、少し装いがまともである。紹介文も後者に比べれば、桁違いにまともである。文章も適度に読みやすい。しかし、宮崎哲弥の教養の底の浅さを痛感できた。単に頭の悪い宮崎哲弥にとって理解しやすいか否かが、彼の評価の最大の判断基準という点である。
彼は仏教者であるらしいが、立場が全く伝わってこない。初期大乗仏教の龍樹の書いた「中論」信者と言っているが、意味が分かって言っていると俄かに信じがたい。別の箇所で、仏教原理主義者と称している時もある。原理主義なら、そもそも中論を祖とするのは根本的な間違いである。「ブッタの言葉」以外、原理主義者には参照する経典はないし、そもそも弟子の書いた「仏陀の言葉」も経典とするに足るか難しい。私は「ブッタの言葉」と上座部仏教徒に近い考えを持つ仏教徒のため、彼の底の浅さが何に根ざしているのか、計りかねた。しかし、彼の他の言動や書評を見ると、「自分が理解できた、納得させられた」=「正しい」式の低能な判断基準が垣間見える。まったくお話にならないほどの判断基準で、
山折哲雄(2006)「ブッダは、なぜ子を捨てたか」集英社新書 0351C
百地章(2005)「憲法の常識 常識の憲法」文藝春秋
稲垣武(1997)「悪魔祓いの戦後史」文春文庫 い36-2
を推薦するのだと思う。全書とも、自説に都合の悪い歴史や歴史事実や判例に、基本的に触れない、悪い歴史修正主義の見本書である。山折哲雄については既に論じたので、百地章と稲垣武について少し触れよう。この3冊なら、百地章の方が圧倒的に文章家としても、書き方としても高等である。百地章は、自説に都合の悪い史実や判例にも触れつつ、その最大論点を忌避して、自説に引き込むような強引な論理飛躍を巧みに用いている。いい加減な読者にはあまり違和感を感じさせないだろう。しかし、首相の靖国参拝問題で、信仰の自由を守るために憲法の規定があるというのなら、靖国神社の宗教法人格を否定し、無くすこと、日本人一般の民間の宗教感覚に柱(はしら)の思想はないため、この呼称を止める事、神社の名をやめ、国家管理の墓地にすることなどが必要不可欠になる。この辺をこれからの信仰の自由との将来課題として、一切触れないあたりが姑息である。
自説に都合の悪い判例に関して、自分と反対の立場も判例を批判していると指摘するのは補強として正しいように思うかも知れないが、実はこれだけでは詭弁である可能性が高い。その判例に批判し、最終的にどういう判例だったら良しとしている人なのかは紹介していないためである。ここが著者と反対意見なら、歪曲引用と呼ぶに相応しい手法なのだ。右派論陣に多い姑息なやり方であるが、感覚的に読者を騙しやすい論理展開法、詭弁術のひとつである。
それに玉串料の最高裁判例が不服というのを是とするなら、信仰の自由を軽視して、キリスト教の自衛官を合祀した最高裁判例が不服とする立場も容認しなければならないだろう。百地章はこの問題も回避している。
稲垣武は典型的な陰謀史観にたって左派論陣(稲垣武の言葉でいえば進歩的知識人)を一方的に批判している。宮崎哲弥がこれを良い書と分類するのは二重基準もいい所である。なぜなら、陰謀史観を信じる人間は、知識人ではないと主張しているからである。しかし、稲垣武は、これまでの歴史は左派論陣の陰謀によって歪曲されてきたと陰謀史観を主張しているのである。だから自分の考えがその対極にあるから正しいと。なぜ、このような論理飛躍を行うかというと、稲垣武がかつて青年の時、左翼信奉者で、或る時、事実に目覚めたと勘違いして、転向した人物であるためである。転向者に対しては右派も左派も厳しい姿勢で罵るのは通常の事態である。稲垣武は右派論陣が朝日など圧力にあって脅迫されたことだけを取り上げる。と同時に右翼が左派論陣を脅迫した事実や歴史はまったく取り上げないのである。放火された進歩的知識人もいるではないか。
自説に都合の悪い史実は真面目に取り上げず、また歪曲論法も目立つ。特に森嶋通夫の議論を「激戦を経験した兵士が暴行に走るなら、満州での戦闘以上の激戦で、他大の犠牲者を出した沖縄戦での米軍兵士になぜ住民に対する暴行がほとんどなかったのか説明できまい」は信じがたい文章である。沖縄県民を他国民のように扱うとんでもない卑劣な歴史歪曲である。ひめゆりの塔以外に、塹壕に無抵抗の人間でも、這い出る事ができなくても、米兵が立ち入って確認は危険だという理由で、手榴弾を放り投げて民間人を多数殺したことはどのような行為と思っているのか、稲垣武の議論を聞いてみたい。また、米兵による沖縄婦人の暴行の事実が、稲垣武がないと嘘をつく理由も皆目見当がつかない。アメリカは正しい式の安保信者にありがちな信仰もいい所である。特に自国民の犠牲に目をつぶり、親米的歴史歪曲は真実とは程遠いため、こうした歴史認識は許しがたい。
238頁では、西川潤を批判し、中国の子が教師に教えられた通りに答えるのは、日本のファシズムの時期の生徒と同じだとしている。稲垣武はこれまでの昭和史が左派論陣のでっちあげという主張をしておったはずである。ファシズムを批判した歴史観を書いた左派論陣を攻めるのに、大正から昭和にかけての日本のファシズムでも中国と同じであったから分かるはずだと言うのは、左派論陣が主張する日本ファシズム観が正しいと稲垣武が認めていることに他ならず、自己矛盾していることに気付かないのは何故か。
242頁では日高六郎の民族自決を認めるのは結構だといいながら、チベットの問題にしか触れない。それを言うなら、アメリカが民族自決を中国に強要しながら、パレスチナの民族自決を阻止しているのは二重基準ではないのか。315頁に「自省を欠いたまま、なおも次のように言い募るのは馬鹿は死ななきゃ直らないの類だろう」と他者批判しているが、稲垣武にこそ相応しい言葉である。318頁には、「一般にの国民が衛星放送を自由に受信できるのは、アジアなら韓国・台湾のような西側に属する国だけであって、いまだにラジオのチューナーすら固定されて自国の放送しか聞けない北朝鮮国民には全く当てはまらない」と書き、韓国も北朝鮮向け防諜ラジオ番組を提供している事実に触れずにいる。口コミだけで脱北者が出ているのではないことは、脱北者の証言より公然の事実になっているにも関わらず、不思議な情報操作をされる方である。
再三、非武装中立を机上の空論と罵り、現実的でないと批判した稲垣武であるが、ヴェトナム戦争がなければ、321頁「ドミノ理論の悪夢が現実のものとなった可能性は決して小さくはない」と具体的理由も示さず断定している。稲垣武は転向者に多い断定も批判も自分には許され、左派論陣には許されないという二重基準保持者の典型例である。憲法問題や自衛隊問題で左派論陣を現実感がないとけなしつつ、では稲垣武は安保保障が日本にとって金銭的にどれだけ価値があるのかという自説は決して明らかにしないし、それを安保条約を廃棄した時に日本が独立の維持に必要な軍事費についても自説を開陳しない。相手を貶めつつ、自説はないに等しい。頭の悪い親米主義者に多い議論の典型である。建設的でない。
その後のヴェトナムの政権を見れば明らかであるが、共産主義政権とは程遠い、軍事政権である。本当に現実的な歴史観を稲垣武はひとつでも持っているのだろうか。さらに共産主義者の報道規制は断固として許されないが、戦争時の報道規制は当然で、それが湾岸戦争の勝利を導いたとして、報道の自由を奪う民主主義国家の是認とも取れる発言まである。つまり、戦時は、国際法違反になる民間人を虐殺する権限もアメリカに与えるべきだという考えらしい。湾岸戦争で民間設備が多数破壊され、国際法に反する形で民間人が多数殺されたことは、戦後明らかにされた。また、湾岸戦争の際に西側が利用した油まみれの鳥の写真も情報操作であったことが知られているが、この事実には稲垣武は触れない。共産軍のフエ大虐殺は報じ方が少ないが、アメリカのソンミ村虐殺は報道されすぎたという。また一方的な稲垣武の価値判断で、これは偶発的ヒステリーによる事故だというアメリカ軍の報道を100%正しいと仮定している。例えば、イラクへの米軍の軍事戦略としてイラクの民間人を含む捕虜を虐待しても、アメリカ軍当局がそんな事を認めるとでも稲垣武は仮定しているようだ。とてつもなく非現実的な議論をしている。では、イラク戦争の際に、米軍女性兵士を敵軍から救助という米軍の戦争美談の情報操作は何を意味するのか。稲垣武に解説してほしいものだ。
稲垣武は左派論陣に解説して欲しいと要求する箇所が多数見られる。私も稲垣武に解説して欲しい歴史がたくさんある。金大中の拉致事件、アメリカのパレスチナに対する態度、第二次大戦後、アメリカが一番直接的に統治したフィリピンの経済発展が他の東南アジアの軍事独裁政権より遅れた理由、アメリカの片務的安全保障条約に対して日本が支払うべき対価、日米安全保障解消時に必要になる日本の軍事費とその文民統治の具体的方法などである。右派論陣は単に親米論者が多く、アメリカは巨大な国家だからアメリカの言いなりになればよろしいくらいに思っている阿呆が多い。
宮崎哲弥が右派論陣の詭弁的な言説に頼るのは、要するに、本当の教養書を読む時間を割愛しているか、あるいは理解できないことに起因しているのだと思う。右派論客自体に非常に多い。「自分が納得させられない」=「自分が理解できない」=「自分が正しい」式の論理展開は、科学否定のトンデモ本の共通思考パターンである。こんな基本もどうやら、宮崎哲弥には正鵠に理解できていないらしい。昔、化学が錬金術と深い関連性をもって発展した史実も知らないのだろう。歴史認識は科学でないと言い切ってしまうあたりも、彼の知的怠慢性を発揮した言葉であるし、経済にはついていけないらしく、どちらが正しいのかはっきりしてくれと経済の専門家に問いかけを行う程度の経済音痴にも関わらず、論拠も無く木村剛が正しいと判断している結滞な人である。自分の活動領域を守るため、言論の自由に関しては、ときどきまともな事を言っているし、登校拒否の時期があったらしく、いじめ問題については、まともな事を言っている。要するに、宮崎哲弥の言論で、信憑性の高い議論は、1.いじめ問題、2.言論の自由で、それ以外は信用に値しない愚か者と評価しておいた方が無難である。
<2007.2.24記>