書評


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[トンデモ本] 中島義道(2003)「私の嫌いな10の言葉」新潮文庫

  不出来な作品である。自分の論理性に対する過信から、論理の飛躍が目立つ。学者特有の自分は論理的に正しくて、他人は正しくないとする決め付けも散見されて、がっかりした。他の著作と比べても格段に論理矛盾の多い記述が目立つ。

 資金を欲してよく考えずに書いたのだろう(著者もよく行う決め付けをしておこう)。

 例えば、18頁に中島は「善良な人々の(無意識的な)暴力に立ち向かいたいのです。」と自分の論考や行為の正当性を主張しているが、これは不特定多数を、無理矢理に彼の理解の枠組みに強制的に当てはめる論考であり、彼の忌み嫌う所の言葉の暴力である。まず、「善良な」が、中島の自己中心的感受性からの勝手な判断であり、「無意識的な」も同様に、彼の主観に基づく検証が不能な分析結果あるいは定義ともいうべきものである。この定義に無理矢理あてはめさせられる側は、この没個性的な決め付けに抗議するに違いない。卑怯にも彼は大衆にはこうした野蛮な行為は許されると最初から自分の行為に免罪符を与えている。こういうのは、怠惰な思考様式である。最初に定義して、予め自分の行為を正当化してはじめるのだから性格が悪い。それに大衆批判が許されるのは笑いに限定される。それを論理飛躍して一般化するのも怠惰な考えである。

 哲学者同業者組合にでも加盟しているのか、15頁では小浜逸郎氏の著作「弱者とは誰か」PHP新書を誉めている。確か、中島自身は39頁に自分の「人間ないし仕事(本心からにせよ)を誉める」行為は、「ほんとうに恨みに思う」と述べているが、小浜氏は違うと確認の上での発言だろうね。小浜氏が中島と同じ感受性と仮定して書いているなら、小浜氏と仲違いしたくて喧嘩を売っていることになる。また、違うと仮定して書いているなら、相手の気持ちを考えることは絶望的なくらいに難しいと中島は主張しているので、自分は傲慢不遜なことに相手の感受性を分析する能力があると仮定していることになる。

 ちなみに小浜の本を経済学を真剣に学んだ者が評価すれば、愚の集積である。「そんなことは分かっているが、だからどうした」といった内容を、大衆はこんなことも知らないだろうと決め込んで、著者が悦に浸って書いた著作で、醜悪そのものとしか言いようの無い本である。中島の用語に合わせて言うならば、分野が違うから感受性が異なり、哲学者は既知の社会事象にまったく鈍感で、幸せですねとしか言いようがない。それをよく分析されているかのように書くのだから、中島のような哲学者は架空の大衆に罵詈雑言を浴びせる卑怯で、幸せな勘違いの中にいる井の中の蛙なのだろう。

 中島や小浜の過ちの典型は、反対事象の検討のみで正悪判断する論理飛躍にも表れている。まず、19頁で「相手の気持ちを考えないって、なんと楽しいだろうか」と、ある局面(笑い)では通用するかもしれないが、他の局面では通用するか分からないことを取り上げる。自説に都合がいい事象を即座に普遍化し、「相手の気持ちを考えろよ」の過ちと結論する。しかも、事前に限定的に「相手の気持ちを考えろよ」が通用する場合もあると断っているのだから、その反対が通用する例を出しても、論理的な正当性の根拠にまったくなっていない。

 「相手の気持ちを考えろよ」だけが暴力とはいえないことには、気付かない振りをして、本気で暴力と短絡的に断定しているのか、よく分からない。こういう怠惰な哲学者の思考は傲慢そのもので、以前読んだ、小浜逸郎(2000)「なぜ人を殺してはいけないのか」羊泉社新書と同じように劣悪そのものである。

 そして、この論考では襤褸が出ると悟ったのか、34頁からは問題のすり替えを行う。相手の気持ちを相手の言葉より尊重する社会が次の罵倒対象に切り替わる。「相手の気持ちを考えろよ」と、相手の気持ちを相手の言葉より尊重する社会は、同値ではない。こういう論理のすり替えは著作全体を通じて繰り返し行われているが、姑息であることこの上ない。

 自分は哀れな少数派と規定した上で、多数派より一方的に攻撃を受けると被害を訴え、多数派の暴力を制するには、少数派が暴力に訴えても正当防衛であるかのごとき珍妙な説を訴え始める。神経衰弱な精神病患者のようだ。

 そこまで仰るなら、自分の行動や感受性のうち、多数派と同じ部分をどう考えているのか、きちんと深く探求してもらわなければ、哲学者として怠慢以外の何物でもない。しかし、そのことが考察対象にすら、なっていない。哲学者に多いんだ、この種の二重の基準が。

 実際、中島は生きるために、社会と折り合いをつけなければならない場合もあるかのように書いている。どのような場合に妥協が許されるのか、考察結果から判断基準を明示していただきたいものである。判断基準がないなら、御託をならべずに、自分もたいして考えていないと白状するのが学者の良心というものである。

 哲学者の多くの論考過程の同一性で私が辟易するのは、本質的には認識不能な大衆を、著者の都合のよいように定義することである。これまで読んだ一定の評価を受けている哲学者のほとんどが無反省に行っている。しかも知的エリートを自認するあまり、大衆には著者自身は含まれないと傲慢不遜にも考えている。低俗化して定義した大衆について批判するのも、架空の対象に唾を吐いているようなものだ。

 例えば、「個人でも有名人は批判して構わない、大衆なら批判して構わない」という極めて世間一般に流通している干からびた基準を無批判に中島も取り入れている。一番の問題は、天才であっても一個人に認識不能なはずの大衆を自分勝手に定義する点である。自己をはずした上で行うので、これは学者先生特有の傲慢不遜の認識様式と言っていい。中島のいう大衆は、彼の頭の中にしか存在しないから、中島が批判を聞かずに済むという利点以外なにがあるのだろう。

 中島は39頁、自分の言葉を額面通りにとらない人間を、相手の人格を破壊するほど罵倒すると宣言している。中島自身を奇人変人と周囲に認知させるには有効な手段かも知れないが、社会の中で対話しなければならない人間としては、著しく欠陥のある態度である。周囲の理解を、こうした激烈な手段で強制的に認知させるのが、著者にとっての正義であるらしい。しかし、それにしては論理矛盾する行動もとっていることを後述する。これと同様、中島の異常人格を証明する行為として、御歳暮などを念入りに抗議して、品を送り返したり、代金を払うことを39頁に書いている。「私の人間ないし仕事を(本心からにせよ)誉める場合」も、「ほんとうに恨みに思います」とも書いている。私には性格破綻者としか思えない告白である。

 臆病を装いつつ絶えず攻撃をしたい著者は、多数派のように認められると困るのである。相手を一方的に攻撃的に振舞う自由を担保しつつ、自分を絶対的少数派だから常に多数派から攻撃を受ける被害者であると規定し、自らの安全な領域・砦への批判を認めない態度を保持したいのだろう。周囲の人間には、はた迷惑な処世術この上ない。そして攻撃的な自分の性格は、以前は、周囲の寛容さに助けられたとも白状している。

 しかし、その寛容さがけしからんというのだから、中島は偏屈である。もし他者が寛容でなかったら、彼は哲学できていたのかね。こういうのを恩を仇で返すというのである。学者に実に多い。それは自分は幼少期に覚めていて、学校から教わったことは無いなどとの傲慢な考えにつながる。一般にこうしたことは、精神異常者が記憶操作して、自らの過去を都合の良いものに置き換えない限り、起きる事はない。

 閑話休題して、後述すると約束した事例を明示しよう。中島は47頁で、塩野七生のマナー論を誉めている。しかし、50頁で、中島の「理想はテーブルマナーをすべて知った上で、そのとおりにしようと無理に努めないこと」と変節して受け入れる態度を表明している。ここでは、多数派のテーブルマナーを、個人の我侭ですべて破る事は許されないとの判断基準が働いている。なぜそうなのか、もっと論理を深めていただきたいものだ。

 年賀状では中島個人の我侭を通すと宣言している。理由は単純で年越し前に新年の挨拶語を書くのは変だから、「昨年中は御世話になりました」などの儀礼語が空疎だから、残暑見舞いなどヨーロッパに住んでいる時は残暑などなかったのに送ってくるのは相手の立場を考慮していないからという点があげられている。それまで、正月には御互いに訪問して挨拶をする歴史や伝統があり、交通手段の発達に伴い、長距離を移動できるようになった結果生じた郵便という(極めてよく考えられた伝統ある)方式に疑義を唱えるにはあまりに論拠に乏しい。

 それに「昨年中は御世話になりました」など手紙の儀礼語に相当する言葉を、中島独自の風変わりな感性で、特別に相手を思っているかのような恩着せがましい言葉と再定義するから、罪も無い言葉に不快感を持つのである。これは、これまでの一般に受け入れられている定義を覆す傲慢な再定義で、世間一般の言葉の定義を無視した傲慢な考えである。こういうのを言葉に対する敏感と中島は定義するが、本当の定義を知っている一般的な日本人からすれば、単に誤解に基づくアレルギー反応としか言いようがない。

 それから、もしこのような独自の感性での言葉の定義・判断が許されるなら、テーブルマナーを守る理由などないと断言できる。少しでも沈思黙考すれば明らかであるが、あらゆる制度や慣習を破棄して構わない立場になるのが論理的に正しくなる。中島がこうした制度・習慣破壊主義者でないというのならば、哲学者得意の二重の基準をここでも使用しているのに意識できないか、意図的に隠蔽しているためである。それから個人が勝手に言葉の意味を変えて定義していいなら、会話は成立しない。そんな社会を中島は提唱しているのである。おぞましいとしか言いようがない。

 他の箇所で中島は郷土愛がなく、土地に対する帰属意識がないと主張しているが、そうであれば尚更、土地の習俗に関わるテーブルマナーを守る理由など、どこにも存在しえない。

 次に論理不明文の例。52頁に出てくる。

 さて「相手の気持ちを考えろよ!」というメッセージは、言葉において自分をなるべく薄め、相手をなるべく濃くしろというメッセージでもあります。個人の言葉(個人語)を抑圧し世間の言葉(世間語)を使えという意味でもある。

 この文章は何かを言っているようで、ほとんど何の内容も伴わない悪文である。最初の文の「メッセージでも」の「も」が曲者である。このメッセージの占める割合が分からないため、重要性が分からない文章に仕立てられている。次の文章はさらに悪く、後の文章を読んでも、個人語と世間語の定義が出てこない。かなり重厚な日本語辞書にも掲載されていない造語を適当に使うことからも、中島の言葉に対する感受性が鈍く、偏執的である事が明らかになる。

 次に学者によく見られる自己神格化の例。62頁にも出ている。

 とくに自分が正しいという前提で相手を責める事がなかった。

 たいした記憶力に関する過信である。一般には記憶操作しないとこのような傲慢な思い込みはできない。「相手」を「個人」と読みかえてもである。大衆、多数派に対しては、この書物以前から責めているし、個人に対しても、自分の言葉を額面通りにとらない人間を相手の人格を破壊するほど罵倒すると言っている。中島は、そんなに離れていない文章で矛盾することを書いているので、記憶喪失を患っているらしい。

 次によくある論考不徹底かつ論理飛躍の例。65頁にも出ている。

 私が「きれいごと」を嫌うのは、こうした言葉を生徒たちの頭に注入する場合、先生は意図せずにマインド・コントロールの姿勢をとり、彼らから言葉に対する敏感で繊細な部分を奪い取るから。

 この日本語は言葉を大事にしていない証拠でもある。「から。」で終わるのは、外国語に毒された日本語である。言葉に敏感という割に、まともな日本語を書けない中島である。文章中にある「彼ら」も生徒で意味が通るため、古くから日本語になかった「彼ら」を使うのも翻訳調で、言葉を大事にしていない証拠となる。こういうひどい日本語を使うのを個人語と称して、際限なく奨励するつもりなら、論理的には将来、日本語間で会話が不可能になることを憂慮すべきだ。

 さらに悪いのは、教育とはある種のマインド・コントールであるという認識が欠如している点である。中島の立場は非常識で、教育者が取るような立場ではない。鈍感で許しがたい感受性といえる。「きれいごと」が中島の幼少期に役に立たなかったからといって、すべての子供に役に立たないとはいえないことは言うまでもない。まして、他人のことを考えるのは至難であるという中島が自らの個人体験を普遍化するなど、傲慢以外の何物でもない。そして、テーブルマナーでは、中島は理想を語っている。理想とは「きれいごと」ではないか。この言葉も中島は大切に使えていないのである。

 「素直」という言葉に難癖をつけている。特定の文化人などの権威者が不特定多数に発して使う場合を揶揄するのは、中野翠のように(125頁)批判に値する。

 だが、中島のあげる事例は、世間話が多い。世間話の多くは、きだみのるが的確に指摘したように、話す内容に意味は無い。この対話で人物の性格が誤解される気遣いもない。にもかかわらず、神経症の中島はこれを認めない。そして自分の価値観を強要する反社会的な態度をとり、それが少数者に許される特権と勘違いしてしまう。

 近所の人にありきたりの回答をした処で、安全な人物と見なされるだけである。そうした世間話の意味を無視して、あくまで自分の価値観を相手に強要し、被害者に見立て、価値を転覆させようとするのは、中島は革命主義者なのかもしれない。それにしても、自分の正しさに自信が無いと他の箇所で言う割には、完全に世間を悪者扱いするこの考えにはついていけない。

 それから多数派が少数派に暴力を振るうのがけしからんのなら、同様に、少数派が多数派に暴力を振るうのもけしからんはずで、どちらも許すのなら、どちらかを批判するのはナンセンスであるし、どちらも認めないなら、互いに批判しても、価値の転覆など目論んではならないはずである。しかし、中島は自分が非対称な特権的地位を得られるようにと論を運ぶ。

 中島が日本の多数派の文化を拒絶するのは構わない。批判するのも結構。やりたいようにするというのなら、どうぞと言いたい。しかし、それは同時に中島が多数派にやりたいようにさせることも許容しなければ、単に中島が特権を要求しているだけであり、それでは妥協が成立するはずがない。たとえ、現実が理不尽としても、中島の基準で理不尽でない世界になったところで、個人主義の世の中では、ほぼ確実に他の人にとって、理不尽となる。中島は、それを絶え間ない議論で埋められるという価値観で、人々を議論の渦に巻き込み、他の人々を常々の戦争状態に陥れることが健全と考えているのかも知れないが、それは所詮、中島の感受性にとって正しいだけで、他の人には迷惑である可能性が高い。私は中島のように攻撃的な考えを持っていないので、こういう人と議論に付き合うのは御免被りたい。それに、こうした考えは一種の独裁者的な考えで気持ちが悪い。

 「ノルウェイの森」に対する違和感、つまり、登場人物が軽薄すぎるという点では、中島と同じ見解だが、中島がそこから導くべき事柄にはまったく同意できない。

 中島は、読む人が登場人物の現実存在性なしに感情移入できないから小説を楽しめないと仮定して批判しているようであるが、すべての読者がそうとは限らない。たまにベストセラーになる本のリストを見ても、合理性や科学性が重んじられていたなら、売れるはずの無い本がたくさんある。これを見て、読者が非科学的だなどと結論するなら、それは分析の方に問題がある。米国にも見られるし、日本特有の現象でもない。

 ベストセラーの読者は、単に共通の話題として、そういった本を読むという体験を共有しようとしているに過ぎないと一般には考えられている。虚心坦懐に考えれば、ノルウェーの森に描かれた登場人物を軽薄と感じない読者もいるかもしれない。他人を分かった振りをして、議論するのは中島が嫌うと宣言した事であるが、本人が守れない。中島は自分が正しいと思わないという割に、反省すらできないのである。

 こうした中島の傲慢な決め付けは、この本全般に散りばめられていて、いちいち指摘しきれないが、いくつかは取り上げておこう。

 物書きという下賎な職につくほどの者

 153頁にあるこの表現は、「物書き」と一般化した上で、「下賎」をつけているので、中島の傲慢性を表している。中島のような物書きとか断りがあれば別だか、こうした一般化した上で、すべて他の人も一緒とする決め付けは、常々中島が気に入らないと怪気炎をあげている事柄である。

 中島は自分が意識的に言葉に鋭敏に使いこなせていないにも関わらず、他人を批判してばかりいる。自分ができないことを批判し、自分もできないが理想はこうだと述べるのなら構わない。しかし、中島は自分に対して間違いを犯したものに、人格を破壊するほど罵倒するという。他の箇所で、言い訳を聞くべきだというのなら、罵倒するのではなく、言い訳を聞き、議論すべきである。こういう自分が罵倒される時は、相手に弁解の機会を与えるべきだといい、自分が罵倒する時は、相手に弁解の機会を与えず、人格を破壊するほどに罵倒すると言う二重の基準が、中島にはあまりにも多い。

 中島は若い頃、周囲に好戦的で、周囲の人が寛容であったから、平和裏に済んでいた事例を書いている。ならば、中島の好戦主義をすべての人が採用したら戦争ですね。こういう人物に文句を言う資格があるとは思えない。また、解決策がいまのところ「話せばわかる」ということらしいが、話しても分からない場合はどうするのだろうか。

 また、話せば分かるという立場は、口の不自由な人に過酷になる。そういう社会が正しいと仰るのなら、口の不自由な少数者に対してきちんと深く思慮した上で、どのような解決案を持っているのか展望も書いていただきたいものである。

 次に「一度、頭を下げれば済むことじゃないか」と掛け声集団主義として排斥しようと試みている。中島のあげる事例が奇妙で、ゲラゲラ笑い出してしまった。

 152頁に調布市の放置自転車の垂れ幕の事例がおかしい。ここに至るまでに中島は、掛け声集団主義の問題を、集団主義と個人主義の問題に論点をすり替えている。そのこと自体、論理的ではないのだが、それはおいておこう。際限が無くなる。中島はこの放置自転車の垂れ幕に実効性が無いから、景観を損ねるだけだとご立腹するのである。

 個人主義者の中島が、集団主義的垂れ幕を公然と無視する市民に拍手をするのならよく分かる。こともあろうことか、中島は垂れ幕を無視した主婦を叱責するのである。さらに職員に問い正したとある。阿呆である。条例で放置自転車が禁止されても罰則が無ければ、実効性がないのは当然である。そうしたことを調べもせずにまず批判、馬鹿がやる事としか思えない。それに個人主義者であるはずの中島が「集団主義を守りましょう」と主婦に問うのはいかがなものだろう。喜劇としか言いようがない。

 これを自説の補強としてあげた中島の感受性は異常である。もっと論理的に考えてほしいものだ。157頁では、さらに暴走し、身の毛のよだつ提言をしている。箱根駅伝の管理放送を止めるべきで、「線からはみ出ないで下さい」といって守らない人物は逮捕すべきだと提案している。あぁ恐ろしい。そもそも管理放送なる名前付けが間違っている。個人の自由を認めた上で事故を防ぐ目的で行われている放送である。管理目的なら、テレビ以外での観戦を禁止し、戒厳令の放送をすればいいわけで、「戸外にでるな」という放送なら、管理放送と命名するに値しよう。それから、マナーの悪い違反者だからといって、法的な罪状が何も無いのにどうやって逮捕するのだろう。中島の提案は、警察権力に超法規的権力を持たせようとするものである。こうした国家管理の時代に、個人の人権がどれほど踏みにじられたか、頭の悪い中島は知らないらしい。

 「謝れ」を強要するでも被害者意識丸出しで呆れてしまう。「謝れ」という相手に対して悪いと思ってなければ、「悪いとは思わない」と言って無視すればいい。中島は自分以外にそういう事例を見出せないようだが、それはあまりに経験が偏っているというものである。私は謝罪要求に応ぜず謝らない事がある。後は犬の遠吠えを聞かされるだけである。うじうじ文句を言うほどのことでもない。それを中島は執拗に反論する。中島って暇人だなと思う。私には、「謝れ」を強要する人、自分の言葉通りに受け取らなかったとして人格を破壊するほどに罵倒する人(中島)、どちらも迷惑な存在という点で一緒である。

 最後の方になって、ようやく解決法のひとつが明示される「弁解」。中島によれば、日本文化にはこれが認められていないから駄目なのだそうだ。弁解のルーツはギリシア文化にあるがこの点に中島は触れず、ウィーンで経験した文化で、これがユーモアに溢れているという。それは中島の感受性ではそうなのかもしれない。しかし、中島がわからない他の人の感受性で、弁解を詭弁としか感ぜず、日本の落語などの笑いの方が正統とする人間にはどうだろうか。なぜ、それを誤りと一方的に決め付ける権利が、中島にあるのだろう。

 中島は、著書「ウィーン愛憎」では、ウィーンのお役所でがこの弁解を聞いた経験を取り上げ、相手に激怒してご立腹しているのである。同じ事象を反対に取り上げるご都合主義にはうんざりする。中島は神だから、白黒をひっくり返す権利があるとでもいうのだろうか。

 中島は別の箇所で、名前の姓名を入れ替えるのは業腹で、日本の伝統である姓名の順が日本語では崩れなくてよかったと書いている。なら、日本の伝統の笑い(落語)を拒絶する中島はやはり、ここでも二重の基準を使っている。私は二重の基準を使う差別主義者が大嫌いである。中途半端な論考をするから、中島は自分の差別に鈍感になるのである。

 192-4頁は恥の文化に対する中島の無理解が示されている。「盲人に席を譲らないのはおかしい」という視点から暴走する。暗黙裡に「盲人」に対して席を譲るのは善であるという前提がある。これは他人の感受性を無視した議論ではないか。特に周囲に聞こえるように、赤の他人である目の不自由な方を「盲人」呼ばわりするのは、私の感受性からすれば侮蔑になる。中島は気遣いを後に否定しているので、そうした気遣いはできない人間なのだろうが、だからといって許される行為ではない。それに、中島は後に日本人の気遣いを批判しておきながら、ここでは「席を譲る」という気遣いの無さを批判している。こういう二重の基準は、中島の知的怠慢もしくは知能の低さから生じている。

 周囲の面前で批判することは正しいと中島は信じてやまないようであるが、これは中島独自の宗教とも言うべきもので、アジア諸国、特にタイでもまったく通用しない無礼な行為である。中国でも日本でも無礼な行為である。私はそういうマナー教育を受けているので、そういうマナーを破壊する中島を迷惑に感じる。

 席を譲らなかった人に問い詰めて、気付かなかったという言葉を文字通り信じているが、それも間抜けである。中島のような異常言動を行う人に「気付いていたが譲らなかった」と答えたとしたならば、どんな暴力を受けるか分からない。常識のある人の答えならば、私にはそれ以外を想定できない。誰にでも本音で話せという中島の強要も、そういう文化や多数派の習慣がなければ、単なる暴力にしかならない。

 それに、中島の推奨する弁解が受け入れられた社会を想像してみよう。何故席を譲らないのかと問うても、嘘をついてでも譲らないかもしれない。「君は僕の事を何も知らないくせにいきなり非難しているが、今日は転んで足をひねって怪我をしているんだ」とか言って弁解をしたら、中島は「気付かなかった。すみませんでした」と謝れるのだろうか?弁解社会だったら、その目の不自由な方は結局座れないかもしれないのである。

 5-6人立ち上がったので、中島自身も座ったと書いている。やはり異常である。私が周囲に立っていたら、中島は自分が座りたいために、目の不自由な方を利用したと考える。目の不自由な方自身がそう受け止める可能性もある。

 仮に「一人の若い男性に席をなぜ譲らないのか」と問うても、これも感受性の不足に他ならない。見た目で健常に見えても、本当にそうか分からない。それをいちいち訴えないと座れない社会というのも居心地の悪い社会なのである。もちろん、私は腰など痛くなければ席を譲る。譲って断られることも3割くらいある。中島のような偏屈な人間で、老人扱いされたと怒りを露にされたこともある。しかし、声をかけるのを止めようとは思わない。そういう私から見ても、中島の行為は明らかに非難に値する。

 最後の嫌いな言葉「自分の好きなことが、必ず何かあるはずだ」

 これ言葉自体は悪い言葉ではない。しかし、中島は題名とは異なる極めて限定的な状況で使う言葉と仮定した上で、この言葉を批判する。読んでいて、10にするための帳尻合わせとしか感じる事ができなかった。

 限定条件は極めて厳しい。まず、話者は教師にほぼ限定される。聞き手もほぼ生徒に限定される。更に職業選択の際の言葉に限定される。最後に、現実に好きなことを職業にすることは難しいということは話さないという付帯条件も課せられている。

 中島によれば、これだけの条件の下に、この言葉が頻繁に生徒に繰り返されているのだそうだ。私は、これまでの人生の中で直接には一度も、このような条件下でこういった類の言葉を聞いた事がない。むしろ、好きなことが職業にすることは難しいことを説かれた上で、それが本当に好きなことかであれば問われたことは何回かある。

 こういう言葉とセットでよく聞く言葉は、「好きならどんな困難でも乗り越えられるだろう」である。中島の経験の方が異常なのである。

 中島の架空の世界に対する批判をウンザリしながら読んで本当に金を返して欲しいと思った。236頁以降には唖然とする。議論しない従順な国民を作成に成功した国家を安泰としているのである。

 そもそも中島は法について絶対権力として是認しているのだから、国家を批判する権利などないと考えているものと思っていた。やはり、中島のごとき哲学者には、社会や法に対する鋭敏な感覚など期待できないものらしい。仙人気取りの内容の無い説教といったところである。こんな浅い社会考察は、何の薬にもならない。

<2007.5.12記>

Kazari