[トンデモ本] 中島義道(2004)「働くのがイヤな人のための本」新潮文庫
これも不出来な作品である。中島は哲学以外の分野では、論理的な文章が書けないのだから、随筆で気ままに書いた「ウィーン愛憎」ならともかく、他の著作は駄作になるのは当然かも知れない。相変わらず、論理矛盾の多い記述が目立つ。
前作同様であるが、特に笑ってしまったのは、今回登場する4人の架空人物の浮世離れした人物像である。私の周囲には皆無のこれらの人間に、中島はたくさん会ってきたそうである。中島は地球に存在しない宇宙人なのかもしれない。また、中島は、この4人を20代、30代、40代、50代の代表的人間と規定している。相変わらず傲慢である。中島の批判する「ノルウェイの森」同様、非現実的で読むのが苦痛でしかなかった。中島の分身を無理矢理、現実的と考えろという方が土台無理な話なのだが、それに対する免罪符として言い訳を前書きに書いているのもプロ失格である。
「言い訳を前書きに書くくらいなら、出版するな」と言いたい。物書きのプロとしての誇りは中島にはないらしい。それならば、こんな駄作はネットで無料公開すればいいではないか。それくらいに出来が悪い。前書きに次のように書いている。
本書は私と異なった感受性をもつ膨大な数の人には何も訴えることがないのかもしれない。それでいいのだ。そうした一人であるあなたには、この本を読む必要はない。
さようなら。またいつか、どこかでお会いしましょう。
ここには、中島が前作で批判していた敗北主義が含まれている。感受性の異なる人間にも訴えかけられるよう、中島自身が工夫すればいいではないか。こういう自分を理解しない読者を切り捨てる発想で、自分の著作物への責任回避という免罪符を与える傲慢な作者は見たことがない。いくら頭の悪いインテリでも、批判的読者に釘をさす文章があるのが最悪の部類なのである。それを超える悪徳ぶりは、さすが中島といったところである。
自分の経験と架空の四人に対して、論理的に正反対のことを言っている箇所がかなりある。いくつか指摘しておきたい。この程度の頁数の著作で、論理性を担保にできないのは、中島に知性がない証拠である。77頁に、才能について書かれている。架空人物Cに対しては、過去Cが自らの才能を諦めてきたと叱咤する。自分を分析する際は、遊んでいた時期を含めて、哲学を真剣に捉えていたとか詭弁を弄しているにも関わらずである。
中島は生理的に天才に対してコンプレックスでもあるのか、それとも自分の理解を超えているから、分析対象にしたくないのか、最後まで真剣な分析はまったくしていない。そのくせ、本書の最後の方で、完全な憶測による中島のあて推量で、天才たちの生涯に言及している。
ここでも天才たちのことは放っておこう。ゴッホやカフカの生涯を研究してもなんの慰めにもならない。(80頁)
ゴッホにとってもランボーにとっても山頭火にとっても、絵画や詩や俳句とはこのようなものであったろう。彼らは、けっして自分の作品に満足して死んでいったのではないだろう。自分の仕事によって、わずかでも死を克服したのではないだろう。(187頁)
要するに、中島が187頁に書かれているような内容を推量形でしか語れないのは、正確な文献調査などを怠っているからである。更に、このような事を最初に言うと、現実味のない4人の対話が続かないため、この架空の対話方式の構造が崩壊するためでもある。そのため、論の運び方にはもっと工夫が必要なのだが、その能力がない中島には、非現実的な対話形式しか作成できなかったのは当然と言える。まず、中島の妄想による結論ありきから、対話を無理矢理、構築するから、論理性や全体の流れが不自然になるのである。
Cさん、ずっと感じていたことなんですが、あなたは正直に語る才能がありますね。それは、とても貴重なことですよ。そして、稀なことですよ。(85頁)
中島の分身のような人物に、正直と評すれば問題がおきるだろう。絵空事でしらじらしくしか聞こえない文章になってしまう。自らの分身に誉め言葉を使うということは、自画自賛である。これは90頁に自ら否定している。正確に引用しておこう。
評価とは繊細な精神をぐいと抑え込んで仕方なくするものであること。必要悪であることをどこまでも自覚せよ、と言いたいんだ。評価する者はどんな場合でも公正な評価をしたと自画自賛してはならない、と言いたいんだ。(90頁)
私は人生において勝者側の人々と敗者側の人々を過不足なく知っているので、両者がよく見えるんだよ(94頁)
中島には4頁分の記憶容量もないらしい。「過不足なく」も「両者がよく見える」も公正な評価をしているという明白な自画自賛である。さらに、中島は前作の中で、自画自賛して次のように言っている。
とくに自分が正しいという前提で相手を責める事がなかった。
この中島自身の自己評価である「とくに自分が正しいという前提で相手を責める事がなかった」という文章が、公正な評価をしたと自画自賛していないのだとすると、日本語で中島と対話する事は、絶望的なほど難しい事が分かる。
さらに言いたいことは、こうした必要悪を骨の髄まで知りながら、特に権威的な評価をわれわれは重んじてしまう、その理不尽を自覚せよということなんだ(90頁)
論理性のかけらもない文章なので、理解しがたい。ここで出てくる「われわれ」って誰だろう。中島とその分身だけではないのか。論理的に明晰な文章を書けない中島は、ここにも大衆侮蔑の思想を混入したのだろうか。仮にすべての人が権威的な評価に懐疑的になり、批判的に評価し、法(権威的な評価の一種)に抵触しても、中島のいう弁解に努めたらどういう社会になるか、簡単に想像ができる。すべての人が無政府主義者の集団となり、無秩序で、内乱状態になることは疑いの余地がない。ここまで極端な場合を想定しなくても、権威的評価をまったく否定するのなら、少なくとも初等教育は成立しそうにない。教育職についている中島先生のご意見拝聴したいものである。
中島はたびたび国家の規定した法には無条件に従うべきとの見解を表明している。法も権威的な評価の一種に他ならない。こうした権威全てが理不尽とするなら、通常の人間は無政府主義者にならざるを得ない。
94-5頁は1頁の記憶も中島にはないことが分かる部分である。長くなるが引用しておこう。
私は人生において勝者側の人々と敗者側の人々を過不足なく知っているので、両者がよく見えるんだよ。勝者は傲慢な態度に出ることもない。なぜなら、傲慢にしなくても自然に自分は他人よって評価されている実感を得ることができるのだから。そして、こういう人がその優位な地位にも関わらず、腰が低いと謙虚だとさらに誉められることになる。(94頁)
この社会的不正義は、私にとって永遠の難問だ。ここには、さまざまな変形した不平等が隠されている。
能力ある不遇な者は、おうおうにして能力主義者である。しかも、専門的能力一元主義者である。それは一つの整合的立場であろう。しかし、彼らはややもすると専門的能力の劣る者に対してはまったく不寛容な態度をとる。彼らが人間としてゼロであるかのような発言さえする。
とはいえ、逆に専門的能力劣等者が専門的能力優秀者より道徳的に勝っているわけではない。彼らが正しいわけではない。だが、今度はおうおうにして、社会的制度における敗残者は、同じ制度内の成功者より道徳的に正しいという論理にもたれかかる。つまり、よくよく考えてみると、どちらも正しくないのだ。心情の醜さにおいては、同じ穴のムジナなのである。(95頁)
中島は「社会的不正義」とか具体性のない抽象語を明確な定義なく、突然、適当に使う。学者として、物書きとして失格である。読んでいる方も文章が明晰でないので、一意に解釈できずに読み流すしかない。はなはだ迷惑である。それでも、まともな事が書かれていれば問題ない。しかし、最終的に、1.当たり前の陳腐な見解だが、もったいぶった遠まわしな言い回しで紙面稼ぎする場合、2.明確な意味が取れない曖昧な雰囲気の結論を隠蔽する目的の場合と判明することがほとんどで、げんなりしてしまう。中島には読者を労わる気遣いが使えないのだから、仕方ないとはいえ、出鱈目な文書を書いておきながら、一方的に読者に解釈力を期待する中島の方法論は子供じみている。
中島は論理性が欠落しているため、ある特定の人間像を描写した時に多面的理解ができない。95頁では、専門的能力と道徳という2つの軸、2次元でしか考えていない。そして、中島の浅薄な考えの2次元で考えても、結論部のどちらも正しくないは、何を言っているのか、さっぱり理解できない。専門的能力者が道徳的に劣っているという極端な場合と、専門的非能力者が道徳的に勝っているという極端な場合のどちらも間違っているということが、何を意味するのだろう。
中島の大衆侮蔑は骨身に染み込んでいるらしいから、この2つの極端な場合で、ほとんどの大衆が含まれると傲慢に考えていない限り、論理的な文章とならない。おそろしい思想を抱いた阿呆な学者先生である。2次元の評価軸でしか語っていなかったが最終的に、心情の醜さという3次元目の軸を出して、どちらも間違いという。まずい文章の典型例である。
それから「社会的制度における敗残者」も中島独自の用語法であり、この言葉からは何が言いたいのか伝わってこない。「社会的制度」という言葉が曖昧すぎるのである。一般的な人生の落伍者などで言い表せない何かが、この言葉に込められている様子はまったくない。日本語を知らないからといって、変な言葉を使うのは止めていただきたい。
95頁途中で、中島は敗者=専門能力劣等者として書いているが、もしそうであるなら、勝者=専門能力優秀者としなければ、論理的ではなく、94頁の勝者像と95頁の専門能力優秀者は正反対に描かれているので、中島が1頁の記憶も保持できない証明となる。また1頁分、論理整合性を保った文章が書けない証明ともなっている。
次は論理的飛躍の文章。
だから、何度でも確認しておくが、どう動いてもわれわれは無条件に道徳的に正しい行為はできないのだ。それを志すことはできる。しかし、実現できないのである。(95頁)
これ以前の文章で、条件付で道徳的に正しい行為ができるという証明はまったくなされていない。志すことはできるについても書かれていない。
自分がこんなにも不純であったこと、しかもその不純を貫けないほど不器用であったこと、それは変な言い方だが、いまの自分の自信にさえなっているんだ。(105頁)
変わった感性ながら、中島が自画自賛している箇所である。そして、Cに対しては、同じ事象で、自らの才能を諦めてきたと自覚せよと叱咤するが、二重の基準を持ち出し、中島自身に対しては「自分を鍛える上でたいそうよかったと思っている(105頁)」と分析するのである。あぁ醜い心情だこと。
私は、じつは前回にA君が言ったことがよく分かるんだよ。わかるからこそ激しく反発したんだよ。大学教師の職にあぐらをかいて生きることではなくて、カフカのように、宮沢賢治のようにむしろ平凡な職場で静かに生きること、それこそよく生きることだとまさにその頃に私は考えていた。 しかし、まもなくそれが自己欺瞞だということが分かった。彼らが輝いているのは、天才的な小説家であり、小説家だからであって、それを与えられていない私が、彼らの生活の外形だけ真似しても虚しいということがわかったからさ。
中島の間違った人生観や態度が析出した文章である。文章中の「じつは」は何と言う傲慢で嫌な言葉であろう。他の人間理解が難しいと言いつつ、本作では勝手に4つの人間の代表形を自分の分身と仮定しているから、やりたい放題である。しかも「分かっているから激しく反発」もみっともない対応である。普通こういう反応は自分と同じ性格を感じた親などがよくとる行動様式で、子供の教育を間違った方向に運ぶものである。
天才の分析も本書の結論と矛盾する。ここでは天才は幸福と仮定して書かれている。187頁では正反対のことを書いている。天才と言えど、死を克服したとはいえない。そして最後の結論は、職によって死を克服したと言えないのだから、もっと哲学して、生きるという大きな仕事をしよう、そのために高所得者にならなくてもいいという御寒い内容の結論を書いている。
そんな自己の学問分野の宣伝を行って、自分の生き残れる領域を増やすような馬鹿げた結論は当面無視する。この文章の中島は正直であり、「外形だけ真似しても虚しい」という自己欺瞞で、より高額安定職の大学教授を目指したことを暗に告白している。
前にコルナイという経済学者の批判的書評を行ったが、自意識過剰の人は、どうも自分の失敗を成功と捉えようとするあまり、また自分が論理的と過信するあまり、非常に浅薄な表現となり、一般の人間からすれば、気色の悪い欲望丸出しになることがある。この箇所も中島の欲望が暗黙裡に打ち出されていて、身も蓋もないが、本性の表れた箇所として記録しておく。
中島の幼児性がこれでもかと言うほど執拗に書かれている112-4頁。少しだけ引用しよう。
ここには、いまから考えると、親に対する復讐が大いに作用していることがわかる。
25歳の年齢で引きこもりが親へ復讐とは恐れ入る。中島の感受性が世間から相当ずれているのがわかる。それにしても、そんなことがようやく今の年になって分かったと開き直る中島って、非常識かつ阿呆である。
自分の過ちを自覚できない中島が僧を批判した言葉126頁。俗を哲学者、僧を大衆に置き換えるとそのまま自称哲学者の中島自身への批判になるので、引用しておこう。
俗であることに安住して僧を批判する者が、その批判の刃をとぎ澄ませばとぎ澄ますほど、自分が僧より正しいという錯覚がその全身を癌細胞のように侵食してしまうのである。(126頁)
129-30頁も喜劇でゲラゲラ笑ってしまった。純粋な者を少数者、不純な者を多数者に置き換えると、そのまま中島に当てはまる。131頁には「凡人」を自らを含まずに批判している箇所がある。135頁には若かりし中島の軽薄さが書かれている。恋愛なども触れられているが、この中島の若かりし頃は、「ノルウェイの森」の登場人物とほぼ同じである。この頃、結婚の意志はなく、女性と不真面目に付き合っていると告白している。「ノルウェイの森」の登場人物と若い時の自分が似ているから嫌悪しているのだとわかり、唖然とさせられた。自分の欠点を見ると怒るのは心理学でよく知られた現象である。また、ここで若いときに、不真面目に付き合った女性に対して、中島は不条理を突きつける存在としての自分への反省がまったく欠落している。暴力礼讃者なのかなぁ、中島って。
また遊び半分で塾で革命ごっこに参加したとの告白もある。ここでも他者に、不条理を突きつける存在としての中島自身への考察はまったくない。世の中や親から中島にもたらされた不条理には執拗に抗議し、自分が他者に押し付ける不条理には無頓着が、中島流正しい生き方らしい。そりゃ確かに身も蓋もない楽な生き方には相違ない。そこに悩みがないなら、中島は根っからの阿呆である。
中島は真実が見えないため、嘘をついて自分を飾り立てていることが多いが、自意識過剰の人に見られる如く、それを隠し通すことができない。例えば、人生について、次のような発言がある。
不特定多数の他者に向けて、それを表現しないかぎり、他者とのコミュニケーションを通してそれを鍛えないかぎり、強靭な思索とはならない。(158頁)
「かぎり」を二回続けるのは悪文である。論理が不明瞭になる典型的な書き方である。それを除いても、ここでは中島の信条が語られている。特に検証していない宗教観といってよいが、それを単純に断言するあたりが、傲慢な中島らしい。そして、これが無用塾を営む真の理由である。中島は非常に歪な感受性を持っているため、まともな思索が一人ではできないと考えている。それは正しい。しかし、いくら対話しても、論理が独自で、分析が不適切なので、あまり役に立っているように見えないのも、傲慢な中島らしい所である。きだみのるの言うように、周辺分野への膨大な知識なしに深い分析などできるはずもない。それに、自分より専門的でない人との対話だけでは、知性はさして磨かれないのである。
きみの思索と異質な、天と地のように異なる他者に次々にめぐり合い、彼らからめためたに切りつけられねばならない。(158頁)
また、中島は二重の基準を持ち出した。はじめにでは、感受性が異なる読者を排斥しているが、感受性の違いと思索の異質性とはどのように異なると中島は考えているのか、明らかにして欲しい所である。それを除いても、自分のやり方を認めない他者を、人格を破壊するほど罵倒する中島は、問答無用に切りつける側にたったことはある。その反対を経験したと傲慢に考える理由は何だろうか、被害妄想かな、やっぱり。それと、きだみのるが的確に言い当てているように、思想の違うもの同士がいくら論争した所で、論争の勝ち負けは体力で決まる。また、その思想の溝がうまることはないときだは断言しているが、この方がよほど世間の現状に合致している。結局、中島は経験不足で、そのような体験がなく、自分の経験を簡単に普遍化するため、分析を間違うのだろう。
そしてその廃墟の中からはじめて、それでもきみが立ち上がろうとするとき、きみはほんとうに思索しだすのである。きみの思索は現実的なものになる。(159頁)
「だから、自分の思索は本物だ」と言いたいのであろうが、単なる自慢話の領域を出ない意味不明文である。「ほんとうの思索」をどのように考えているのか、具体性が一切ないため、ちっとも伝わらない。感受性の問題ではなく、表現の稚拙の問題である。第一の文と第二の文は、ほぼ同じ意味の繰り返しで、少しも内容が厚くなっていないのである。非論理的な幼稚な文の見本といっても過言でない。
私は検証不能な命題を定義としてではなく、真理のように語る哲学者を軽蔑する。
つまり、生きることそのことは理不尽の極みであり、絶対に割り切れないが、科学や常識はそれを割り切るふりをする。(168頁)
この文章は、中島の信条であるらしい。しかし、中島の定義によれば、「生きることそのことは理不尽の極みであり、絶対に割り切れない」としても、そう感じない人も同様に認める必要性がないとして、中島が自らの信条を絶対化するのは傲慢である。「科学や常識はそれを割り切るふりをする」に至っては、完全な中島の妄想である。
若いころ、私は、職につかずにただ哲学ができたらどんなにいいだろうと考えていた。しかし、そんな場などこの世にはないのである。雨戸を閉め、蒲団をひっかぶって真剣に思索しつづけることはできない。他者に向けて思索しなければ、自分をのっぴきならない場に晒さなければ、凡人は思索できないのだ。(169頁)
中島の幼児性がいかんなく発揮されている悪文である。「そんな場などこの世にはないのである」という断定はなぜできるのか?すべての他者を知っていると傲慢にも中島は考えているのだろう。大金持ちは別に働かなくても一生遊んで暮らせる資金を有している不条理を中島は完全にお忘れのようである。「雨戸を閉め、蒲団をひっかぶって真剣に思索しつづけることはできない」も自分の経験の普遍化である。確かに凡人中島にはできなかったに相違ない。しかし中島の論理からすれば、天才の他者にできないとは限らないはずである。次の文章も、条件文を二つ連ねる悪文である。論理的な書き方ではない。中島は初等教育の作文教室から再出発した方が世の為人の為というものである。この文の断定も根拠は不明である。全般的に中島の文章力は幼稚園児並みで、呆れてしまう。中島自身は、自分を「のっぴきならない場に晒」してきたと傲慢不遜に考えているのだろうが、こういう自意識過剰が、中島の論理性の欠如、低質な分析をもたらしている。
中島は、近親に自殺者など自分の軽薄さが原因で、業に苦しむ者は、簡単に哲学者になれるという。これは自らの免罪符にもなっている。ひょっとしたら、若い頃、「ノルウェイの森」の登場人物のように、中島の軽薄さが原因で中島の付き合った女性が自殺しているのかも知れない。
結論は哲学を人生の最大目標にすることだそうだ。食肉業界の人が「食べる楽しみ」を人生の最大目標にすべきだというくらい破廉恥な提言である。哲学者の自覚があるのかな、中島には。後半に父とほとんど対話した経験がないにも関わらず、自分の父の人間像を断定的に描いている。こういう矛盾した内容を書いてもいささかも恥じない中島の強靭な自己顕示欲には恐れ入る。そんな中島のような人間に、普通の人の悩みが理解できるとは到底思えない。ここに描かれた4人の代表的人間は私の見たことない人間だから、結論部で中島のお説にしたがい、救われたことになっている。
この作品の中身は25文字ですべて表現できてしまうくらい浅いものだ。「人生とは不条理である。この紋所が目に入らぬか」である。これ以上の内容がまったくないのである。この世から、今すぐ永久に消え去って欲しいトンデモ本のひとつである。
<2007.5.19記>