書評


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[良書] きだみのる(1972)「人生逃亡者の記録」中公新書

 中島義道の浅薄な分析に付き合わされた後だけに、きだみのるの洞察の深さには感嘆する。中島義道のように彼個人の頭の中での憶測により事実が歪曲されて分析されるような幼稚な事例は一切ない。

 きだみのるは、すべて経験に基づいて観察された事実を直に受け止め、淡々と描き、それと同じ現象を的確に教養書で裏書きしてくれる。読んでいて胸のすく思いがする。高質の良書とはこういうものである。

 古今東西に渡り、書籍を読み漁り、あらゆる階層の人間と付き合い、経験してきた「きだみのる」は、常人の及ばないところがあるのも不思議ではない。また、読書とはそうした背景知識によって読みがまったく異なる点なども指摘している。卓見である。中島義道のような単純な生徒と教師のみの経験、カント中心の知識に基づく分析では、所詮きだみのるの足元にも及ばないのは当然のことかもしれない。

 きだみのるは自分の行為を赤裸々に語り、弁明もさっぱりしており、中島のような粘着質、暗さがまったくない。豪傑である。また、きだの洞察には名言が多い。正確な引用ではないが、記憶に留まるものを列挙してみよう。

・かつて、言う事なすこと気に入らない同士が、殴り合いのケンカをしたあげく、双方力が拮抗していた事から、ケンカの翌日より仲良しになった事例をもって、きだはケンカを平和構築のひとつの手段と認めた。

・酒場の兄さんにとってケンカに負けると言う事は、飯をおごらなければならないということらしい。

・論争はしょせん体力である。議論の勝ち負けは体力で決するが、決して御互いの意見が変わることは無い。

・昔、きだは薩摩で果物は盗んで喰っていた。そういうものだと思っていた。少年が果物を店頭から盗み食いしたからと言って、親がすすんで子を少年院にぶち込んだのでは、更生のしようがないのではないか。何も薩摩に限らず、自分が多くの人に聞いた所、みな似たような盗みの経験を子供時代に経験していたと聞いた。

 などなど。自分が確信を持てない点はしっかり「らしい」と書き、古典に頼れない場合は、周囲に質問調査をしている。物書きとして守るべきものをしっかりと守って書いており、手抜きがなく立派な態度といえる。

 きだのこうした叙述の誠実さを見ると、中島の不誠実さが明瞭で、それを誤魔化すために中島が他の物書きを巻き添えにして「物書きという下賎な職業」と書くのも無理はないと思える。人間としての品格の差が歴然としていて、そのことは文章全体の良し悪しに決定的な差異をもたらしている。

<2007.5.26記>

Kazari