[トンデモ本] 諏訪春雄(1998)「日本人と遠近法」ちくま新書
全般的に検証を伴わない空想論で、馬鹿馬鹿しい書物である。日本と西洋に対する宗教理解も御粗末そのもので、よく書物が書けると著者の無神経さにだけは感心した。
例えば、133頁に「おおらかに異国の神々を取り込んでいった仏教や神道に対して、魔女狩りや異端裁判をくりかえし、宗教紛争を頻発させたキリスト教との差は大きい」と書いている。しかし、日本における宗教争いは単に歴史家が怠慢で、叙述が少なかっただけで、キリスト教と比較して優れていると豪語できるほど紛争がなかったわけではない。
奈良以降に起きた廃仏や、神仏の争い、度重なる中世日本における僧侶の強訴、日蓮による禅宗は異端で排斥すべしという関東武士への檄文、一向一揆などどう解釈しておられるのか聞いてみたいものだ。不勉強で知らないだけではと思うのである。 こういうと国家単位ではなかったという輩が出てくるので、戦国時代に国取りといったようにこれをひとつの支配勢力の及ぼした国と見れば、国家間紛争と見ることもできるといっておこう。現代、区切られている国境を真として、歴史を見る事が必ず正しいとは限らない。
それよりも宗教が歴史に及ぼした影響が東西で異なるのは、単に西洋の歴史学者が宗教を主体に歴史を見るのが当然視されてきた一方、日本では、宗教と切り離して歴史を見るのが当然視されてきた相違が最大ではないのか。これは、西洋の歴史家が宗教家に多いという事に起因するように思う。
それと美術に対する見方を思想でくくろうとするのも、単純化した価値論にすぎない。特定の時代の藝術が何故にそのような絵画手法をとったのか、それを合理的という科学的遠近法を軸に考えるから、論理が錯綜するのである。西洋で発達した科学的遠近法を合理的とみる見方は単なるひとつの価値観にすぎない。東洋で心象風景を描くのが合理的とみる見方が、価値論的に劣っているわけではない。しかし、著者は暗黙裡に科学至上主義から順序付けしているようである。こんな事をすれば、古来の藝術に対する理解が正確になろうはずがない。著者の良識、論理性が疑われる由縁である。
欧州で遠近法が受け入れられた背景の歴史分析も完全に間違っている。14世紀-16世紀のルネッサンスに遠近法が確立したのなら、宗教の力が弱まり、末世的で、宗教改革を熱心に行った時期である。改革が必要なのは、そうしないと神が不在になると思われたからである。そうした時代にそれまで宗教と密接な関係にあった科学、特に化学は錬金術と不可分の関係にあったが、そうしたものが徐々に切り離され、科学が神と離れて独立した価値を持つに至るのである。これを本書では可笑しな事に136-7頁で「世界支配への意志」として説明している。近代科学は産業革命の歴史を紐解けば明白なように、強烈な無神論の立場から誕生したといって良い。そうした立場に科学的遠近法もあるのである。
また、142頁で、「山岳信仰は日本にも存在したし、いまも存在する。日本人は中国からとりいれるまでは独自の山水画を生むことがなかったし、遠近法もしらなかった」と書いている。中国のように虎などの猛獣がいて、人が住めない山に対する山岳信仰と、狩猟民族が住んでいた日本の山に対する山岳信仰とでは相違があって当然で、たまたま言葉が同じなら、無批判に同じと認識するから、論理的な考察ができなくなるのである。歴史的考察を行うものは、言葉に敏感でなければならない。同じ字が用いられていても、内容が同じなどという保障はどこにもないのである。
道教の理解も陳腐そのものである。中国の道教は政治(まつりごと)を行う君主の正当性と密接な関係がある。同時期の日本に、中国の皇帝が政治を司る正当性と同等の概念が天皇に対してないのだから、日本に道教が根付く基盤そのものが存在しない。日本で道教は理解されなかったと考えるのは当然至極である。146頁で、修験道と道教の類似性に言及しているが、修験道は仏教の六道から位置付ける方が自然である。だから「修験道の信仰の中核を形成していたのは密教信仰であった」(147頁)のは当然で、著者の歴史解釈が間違っているから、変な講釈に陥るのである。
全て指摘すると際限がなくなるが、著者の歴史に対する無知をもうひとつ指摘しておこう。181頁に「中世以来の日本的集団の結束力や意思決定の根底にはたらく原理になったのも、根回しや談合であり」と書いている。根回しが行われるようになったのは室町時代の後期からであり、「中世以来」とは時期早々である。根回しなどが行われる背景には、戦国を予感させる末世観があり、個のつながりを重視せねば、命取りになる歴史的背景があったことは言うまでもない。著者の歴史理解が浅薄になる理由はこのような不用意な考察に端的に表れている。
最後に自虐的に西洋的基準で物事を判断する著者のエセ知識人振りが発揮された考察を指摘しておこう。本書の全般に言える事だが、あとがきに書かれた日本人の「微笑」を曖昧さと捉える事に端的に表れている。日本人に限らず、タイ人もそうであるが、口論や喧嘩などの衝突をさける手段として「笑い」を取り入れる文化的態度は決して西洋に劣るものではない。
論理性や歴史的考察を疎かにした書物を読んでも、得られるものは何もないという証明となった一冊である。図書館リサイクル本にて読書<廃棄されて当たり前である>
<2007.10.13記>