書評


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[トンデモ本] 橋本治(1995)「ひらがな日本美術史」新潮社

 美術史とは関係の薄い神道を、日本の美術史の主役にしようと躍起になり、歴史事実を歪曲して書いた劣悪な本です。写真がきれいなので、美術写真を見るために図書館で借りました。内容は本当に最低で、歴史考証がほとんど見られず、自説に都合のよい部分を集めて、だらだら文で、推論して自説を結論するという、何とも身も蓋もない空疎な内容でした。文章に期待するなら、ちゃんと美術史家が書いたものを読みましょう。

 神道は偶像崇拝しないと出鱈目が書かれていました。勾玉は神道の考えから来る偶像ですが、橋本治氏は勾玉を知らないのでしょう。西洋の十字架と同じで、身に付けて有り難がるものと考えられており、奈良時代から和歌にも読まれ、神道に深い知識のある折口信夫も一説唱えた事がある勾玉です。文学を職業とする橋本治が知らないとなると呆れる他ありません。

 橋本治の珍説によれば、仏教の食肉禁止を受け入れたのは日本だけだそうです。日本の食肉禁止は歴史事実から見れば、ほとんど認められませんが、一応、魚は除くなどの記述はありました。日本の肉食の例外品目はこの程度ではまったく不足でして、鹿、猪、雁、熊、馬なども肉食ではないと定義しておかないと橋本の珍説を受入ることは不可能です。こうしたかなり少数説を唱える以上、当然質問されそうな内容については、あらかじめ答えを記しておいて欲しいものです。日本の鎌倉から江戸に至るまでの将軍などで、いつ鳥を食べない時期があったと考えているのか。

 食肉禁止の文化など日本にないことは、ちょっとでも歴史に興味がある人には常識の部類です。仏門に服しながら将軍していた人もおりますし、食肉禁止が日本で守られた形跡はほとんどないにも関わらず、あるという橋本治氏の根拠を拝聴したいものです。農民が生活苦で肉を食べる余裕がないというのならまだ分かります。しかし、日本には山の民が、利用価値のなくなった馬を食べる歴史も古くからあるというのに。

 スリランカのアショーカ王の時代はどうでしょうね。肉食禁止の御触れが出ていたと記憶してます。また、本家のインドも菜食は根付いています。神道が食肉しないなんて、聞いた事がございません。神話レベルでも食肉しているのに。出版社などの意向を反映して、虚偽をしたためるのは、文筆家のモラルに反しないのでしょうか。

 橋本氏が仏教に無理解である証拠はたくさんあります。57頁には、辞書的理解で上座部(小乗)仏教を分かったつもりになったことが書かれています。まず小乗と書く時点で不遜です。大乗仏教>小乗仏教という視点から書いています。小乗という名称自体、大乗仏教徒が侮蔑をこめてつけた蔑称で、本家には上座部仏教という正式な言い方があるのだから、上座部(小乗)仏教と大乗(下座部)仏教と書くべきでしょう。日本にも現在、上座部仏教を名乗る寺院(名古屋の日泰寺など)がある以上、その程度の配慮は言語を職とする人間はすべきではないでしょうか。

 また、上座部仏教は「大乗のように諸仏を認めない。」といった事が書かれていますが、弥勒菩薩は仏陀の生まれ変わりなので、上座部仏教でも扱いは微妙です。実際にタイなど上座部仏教国に行けば一目瞭然で、諸仏が崇められています。位は低いのは言うまでもないが、・・・。

 橋本治氏の決定的な誤りは、日本では民間レベルで理解されている宗教を基礎に議論する一方で、他の宗教や宗派に関しては、経典上の宗教・宗派で議論したり、民間レベルで理解されている宗教を基礎にしたり、自分の都合で変えることです。
 もっとも、はじめから、神道寄りに歴史を改竄することが目的なのだから、そのようにしないとあまりにひどい空文になるのでしょう。

 日本語として稚拙な文章も目立ちます。106頁に女神像について「その以前に前例というものがないものなのだ(と、私は思う)。」と書いている。根拠に乏しいのなら、それを断定しておいて、鍵括弧付きで推論を示唆する「(と、私は思う)」を入れて、責任回避するのは姑息です。堂々と「私はその以前に前例というものがないものだと思う」と言えばいい。聖徳太子像といわれる像が、本当に聖徳太子かよく分からないと言う事は、仏像好きには常識であり、一章もうけるほどのものかも疑われます。この頃の事は分からない事が多いのに、きちんと諸説の解説がないのも入門書としては不適切です。

 本当にひどい仏教音痴で、中村元の仏教の専門書程度はこの美術史を書くにあたって読んで欲しいものです。読んだ形跡はまったく見られない。例えば、167頁に、「膨大になったその仏教は、”一本の筋の通った体系”を持たない。」そうですが、その反対の宗教がこの世に存在するのなら、教えてほしい。神道、キリスト教、道教、ヒンドゥー教、ゾロアスター教、シク教、ユダヤ教、どれを見ても、多数の宗派の相違を見れば、”一本の筋の通った体系”を持つ宗教など存在しません。

 しかし何故、こんな回りくどい事を橋本治が書く必要があるのかというと、自分の調査不足に関する責任回避をしたいからだろうと勘ぐりたくなります。私は学者がもっともらしく装い、この手の責任逃れの文言で、紙面を浪費することを怠慢と見なします。もし私が購買者ならば、くだらん枚数稼ぎの頁数分、料金を返して欲しくなる。半分以上が空文だから半額以上は請求しないと損をしそうです。

 また、何かを原型とするなら、系統に入る美術の写真でも列挙してくれれば、読者が理解しやすいのに、そういう手間隙をまったくかけていないのも不思議です。銅鐸が金色だったのも有名な話ですが、新潮社も分かりやすさに金をかける気が毛頭ないらしく、CGによる再現図もない。一枚作るだけで、分かりやすさは格段に違うだろうに。

 それから、美術史なら最低でも巻末に目録を付けるべきでしょう。これも出版社の手抜きぶりが現れています。ひらがなという割に、小題も普通に漢字や外来語が使われており、その他の箇所すべて、ふりがな付きというわけでもない。「本のタイトルにも偽りあり」だと言えます。

 私にとって、橋本治氏程度が書く美術知識は、既知な事柄がほとんどであり、歴史事実については、橋本治氏の方がはるかに浅薄なため、文章から得る所がまったくといっていいほどなかったのが残念でした。この著者の本では「分からないという方法」とセーターの本以外は読む価値がなさそうです。

<2007.10.20記>

Kazari