書評


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[トンデモ本] W.Schubart[著]駒井義昭[訳](1982)「ドストエフスキーとニーチェ」富士書房

 この本の失敗は、個人的怨念と個人的感動から作者批評するという著者の愚かさが原因です。ニーチェの思想がファシストに利用されたことから、ニーチェに悪意を抱く一方で、ドストエフスキーに感動したという個人的体験から、ドストエフスキーをよいしょするという不純な動機が本書の論評を愚劣にしています。確かに、ニーチェの親戚がファシズムにニーチェの思想を利用しましたが、このことにニーチェが反対していた事を、著者が同時代の下で知らなかったとしても、以下述べる理由から駄作の域を出ることはありません。

 著者の推論がおかしいのは、人生の本質が死の安らかさにあると、いきなり根拠も示さずに断定したりするところに端的に表れています。そうした間違った定義の上から、死の安らかさなどにまったく関心がないニーチェを酷評するなど異常な論理構成を取っています。また、著者はキリスト教徒なのか、反キリストというだけで、執拗な抗議をニーチェに行っています。そもそも、ニーチェがローマ軍やキリスト教が、異教徒の奴隷を生み、そうした奴隷を差別した歴史を問題視した上で、ギリシャ復古を唱えたような箇所を、悪意に満ちた引用によって曲解し、反キリストという理由だけで、ドストエフスキーに軍配をあげるといった按配です。

 こうした主張を繰り返している本書の著者が、例えナチス・ドイツの犠牲者だとしても、学問的価値はゼロです。また、この本のせいで、ニーチェを誤読する人が増えた点で、学問的に害悪を及ぼす書といって過言でありません。こんな人の書物を持ち上げた呉智英って阿保だ。

 更にいえば、著者の平板な世界理解には吐き気がします。著者は、宗教や愛や生活が直線上に並んでいると理解し、個人や社会や国も直線上に並んでいると理解しています。その上で、評者であり神である著者によって、神は死んだ超人をめざすニーチェ、神への信仰に救いを求めるドストエフスキーなどと、こうした間違った単純理解をもとに、分類される。そんな単純な分類を可能と考える時点で稚拙です。

<2008.01.10記>

Kazari