[トンデモ本] パオロ・マッツァリーノ(2007)「つっこみ力」ちくま新書
Paolo Mazzarino(2004)「反社会学講座」イーストプレス
が面白かったので、新書を読んでみたが、新書の方はトンデモ本であった。
「分かりやすさは愛である」とパオロ氏は言う。
例えば、同じ水準の学問を教えるに当たり、専門用語で煙に巻いたような講義より、比喩を巧みに用いて、分かりやすい講義の方がいいというのなら、よく分かる。
しかし、学問的な説明(例えば、理論の説明)で致命的な間違いを含む単純化によって、分かりやすい場合はどう評価するのか。分かりやすさは大事だが、金科玉条の如く守るべきものとも思えない。
64頁には、「使っているデータなどの素材は事実でも、それを取捨選択して分析した結論は、純粋な事実ではなく、その学者がアタマの中で考えた現実になってしまうのです。」と書いてある。よく分からない文章だ。そもそも人間に把握可能な「純粋な事実」ってあるのか?
続けて読んでみよう。「学問もフィクションなんです。学問の正しさには限界があるんだから、おもしろさをもっと重視していいんです。」だと。
非論理的で、分かりにくい文章である。比較級を用いているということは限定条件があるはずだが、それが明示されていない。理論を現実に適用する際に、あるいは実証研究する際に、「学問の正しさには限界がある」のは事実だ。しかし、理論の説明には「正しさ」の追求に限界はない。
無条件に「学問の正しさには限界がある」というのは、理論が理解できない人が使う詭弁であることがほとんどである。
反社会学では「統計などの取り方などで騙されないように」と主張したり、「統計やアンケートなどで調査もしないで」と批判しておきながら、新書では調査もせずに、「私の見立てでは、たぶんほとんどの日本人は、郵政民営化など、どうでもいいと思っていたはずです。」と自分勝手に妄想し、自民党の大勝を調査もせずに「庶民がおもしろさで動いたからです」と断定している。社会学で決して行ってはいけない行為と「反社会学講座」では主張しておったのにご都合主義ですな。
それから、64頁に恐ろしい敗北主義思想が述べられている。ペンネームを使えば何を言っても良いということにならない。「社会問題っていうのは、どんなものでも、それによって得する人と損する人が必ずいますから、唯一の正解というものがないんです。」唯一がなくても間違いが分かる場合もある。暴君のファシズムを廃止すれば、暴君一人は確かに損をする。しかし、「ファシズムを続けるのが正解かも」と考える阿呆はいない。ちなみにパオロ氏は後に経済学を批判しているが、「得する人と損する人が必ずいます」という考えはノイマンのゲーム論あたりから出たゼロサムゲームの考えで、経済学の分野でよく使うものである。都合のいい時には、経済学で使う理屈も御使いになるようだ。
著者の非論理性には辟易するが、66頁には「背水の陣は決してやってはいけない愚かな作戦です」と書いている。小泉改革で郵政民営化は「改革なくして景気回復なし」、景気回復のためには、郵政民営化が絶対必要という論理で、背水の陣なのですがね。
多くの識者に失敗すると言われたにもかかわらず「やってみなければ分からない」といって強要するのも背水の陣の論理です。これほど論理性がないと、理論が理解できないのは当然だし、批判を封じる目的で、批判力は減点主義だからよくないなどと主張するのも首肯できます。ご自身の批判力で書いた「反社会学講座」自体が悪書になるけれど。そんな本を何で書いたのかね。
67頁には「民主主義国家とは、正しい国のことではなく、おもしろい国のことなんです」とある。通常の言葉の定義や意味をないがしろにする行為は正しいのだろうか。前半の方で辞書を引きながら「突っ込み」の分析をしていたけれど、ご自身の仮説の言葉の新しい意味を辞書に載せろと主張しているのですかね。意味ずらしは最低品格の詭弁法に属し、関心しないし、まったく面白くない。それに文章の書き方であるが、漢字をカタカナにすると面白いとでも思っているのだろうか。所詮、面白さなど主観的判断基準だから、著者が面白ければ、他の著者には認めていないが、自分が著者の時だけは、面白いと読者が捉えるとでも勘違いしているのかなぁ。
ベストセラーに対する評価は奇妙である。「つまらないんだもん」との小題が57頁にあるので、「ベストセラーとなるのは面白いから」との著者の仮説がある。論拠は示されていない。同頁に「ベストセラーにダマされている世の中の人たち」との断定がある。こちらも論拠はなし。著者は論拠無しの推論が多すぎる。こういう妄想はつまらない。
私がベストセラーの生まれる理由を社会学的に解釈するなら、共通の話題作りのためと解釈する方が自然と考える。論拠はアンケート調査結果などにある。
また著者によれば、「どんなに論理的に正しい批判だろうが、正論だろうが、一人でも多くの人に伝わり、納得してもらわないことには、なんの力も持たないのも真理です」とあるが、そもそも、批判本が出るようなベストセラー本の方を納得した読者って、どれほどいるのだろう。売れた量と納得が比例すると暗黙に仮定しているようだが、そこは社会学者なら調査しなきゃ駄目ですね。怠慢な妄想です。
60頁に「正しいと思ったことを、いかにおもしろく伝えられるかが重要なのに、識者も学者も教育者も、それをあまりに軽視しています。大衆に媚びる必要はありませんが、ウケを狙いにいくことは、大切です。「正しさ」にこだわり続ける限り、論理力も、メディアリテラシーも、つねに敗れ去る運命にあるのです。いままでも、これからも。」は典型的な悪文である。最後の方の主語がよく分からないので、分かりにくい文章だ。その前の頁で「なぜ本が売れないのか」と書いているので、仮に「本の売上」とすると、著者の推論はひとつの可能性に過ぎない。
私の仮説「共通の話題作りのためにベストセラーが生まれる」の場合、共通の話題のために読む本として、お堅い内容は会話に不向きなので、ふざけ半分の書物ほどよいと推論すればよく、それが正しければ、売上では「論理力も、メディアリテラシーも、つねに敗れ去る運命にある」との結論を得られる。
別に資本主義の下で、間違ったものが流行になるなど日常茶飯事で、書物のベストセラーで怪我になったり死ぬ人はいないだろうから、こんな問題は軽視すればいいのである。しかし、間違った健康法で身体を壊すような場合はよろしくなく、「正しさ」を追求することが肝要になる。
と著者の論理の荒さを書いた後に、著者が「字幕の誤字の指摘などすべきでない」という主旨の主張を行った後で、「もちろん、それが重大な間違いで、ほっとくと大変なことになるというなら、指摘してあげるのが世のため人のためいうものでしょう。例えば、テレビで毒キノコを食用と紹介していた場合とか。」と逃げ口上を書いてある。
しかし、もしそうであるならば、パオロ氏自身がベストセラーとその批判本などの「指摘はすべきでない」と結論しなければならないのに。
それから、私は、読者(利用者)を想定して統計の誤植を指摘したことが何度かある。著者の論理を援用すれば、誤植がない方が読者に分かりやすく、愛があるはずである。前段では、分かりやすくを目標にすべきだと説いた著者が、今度は人間は理不尽な生き物だから、自分が誤植を指摘されると怒るのが当然と考え、二重の基準をしいている。
しかし、間違いの指摘に愛が含まれないなら、教育ってどう行えばいいのだろう。著者からすれば揚げ足とりと評されそうだが、著者のご都合主義の論理構成が招く喜劇である。
「教科書も権威、権威は疑うべし」が著者による真言なんだと。馬鹿らしい。ということは、赤ん坊は親という権威を疑い、小学生は先生という権威を疑い、憲法という権威を疑い、国家という権威を疑いでは、救われないですね。
こんな馬鹿げた説を唱えている社会学者はパオロ氏くらいではないだろうか。
おー、75頁から経済学批判と仰々しいことが書いていある。ごく一部にも流行しなかったインセンティブ理論を批判すると、経済学の批判になるとはおかしなもんだ。インセンティブ理論の言葉自体あまり知られていないし、出典の「ランチタイムの経済学」は、読んでみたが劣悪な書物である。米国の物理畑から経済学に転向したミクロ経済学の教育担当教授(論文を自ら書く水準にない人)が書いたもので、経済学の理解が機械的過ぎるし、訳語も変である。インセティブ理論は普通、契約理論に使うだろうし、第二章の合理性でも、個人の効用関数の差異を述べているのなら、そこに好みが反映されているから、もともとの文章が論理的でないか、訳語が変ということになろう。「ランチタイムの経済学」はかなりひどい本なので、機会を作って、間違いを指摘してみたい。
しかし、計量経済学者を止め評論家になった佐和隆光が監訳している事からも、経済学の専門書とも教科書とも言えない。こういう質の低い文庫本から、経済学全体を批判するという手法を考えるパオロ氏の知性を疑う。単に「ランチタイムの経済学」の著者を阿呆呼ばわりすれば済むことである。しかし、この「ランチタイムの経済学」という本では、著者自らの責任を軽減するためか、自らの間違った経済学理解を批判する精神が欠如しきって合理的に振舞うので、「経済学者は必ず〜のように考える」式の叙述をしている。非常識な物言いである。それから、パオロ氏は、経済学の批判をするのに意図的に経済学と経営学を混同している。これも上記本のせいかもしれない。
それにしてもパオロ氏は、他人が社会学を批判する時に、低質の文庫本で社会学全体を批判され、周辺学問と誤解して批判することを許容するのかしらん。笑いにすれば許されるというのはパオロ氏の甘えか、再批判されることを恐れての議論封じかな。経済学者は人間を誘因に基づいて行動すると見ないといけないらしいから、そう批判しておこう。ところで、面白さという誘因(インセンティブ)から行動したから、自民党が大勝したと主張したのはどこのどなたでしたっけ。
インセンティブ報酬に対する批判が書かれている。これを主張したのはアメリカ万歳型の経営学者ですね。日本システムに一定の評価を与えていた経済学者も経営学者も、いずれも否定的な見解しか述べてないのに、社会学者の著者は調査能力が不足しておりますな。こうした事実歪曲をするのは、アメリカ万歳型の経営学者に議論で負けたのを恨みに思って、うさ晴らししていると解釈すればいいでしょう。インセンティブは、たいてい誘因という定訳が既にありますが、パオロ氏は浅学で知識がないから、新しい訳語が書いてある。ここでも知的怠惰が横行してますね。
隠し切れずに個人的恨みが94頁「それよりもっと私が腹立たしく思うことがあります。」と書いてある。これまでどの分野の著者でもそうだったが、個人的怨恨から著した本は、トンデモ本と相場はほぼ決まっている。著者のひねくれた理解によれば、「シロウトや経済学以外の分野の学者が変わったアイデアを出すと、経済学者は待っていましたとばかり、「それにどんなインセンティブがあるの?」とかいって、経済学のおもちゃ箱から都合のいい理論をひっぱりだしてきては、新しいアイデアを否定するんです。」94-5頁ということらしいが、私の知っている経済学者にこの手の方は一人もいないのは何故だろう。
ちなみにここで自信を持って紹介しているパオロ氏のCM理解が馬鹿げている。缶コーヒーの出荷数は、自販機の設置台数にほぼ比例するから、CMは必要ないそうだ。普通、そうした相関関係が見つかっても、見せ掛けの相関でないか周辺指標から厳密に検査するのはもちろんだが、単純に考えてもCM不用論に結びつかない。
自販機の設置の営業のために、CMを打っていると考えればいいだけの話だからである。
また、最近の経済学の教科書はインセンティブを全面に押し出しているそうである。ちなみに誰の教科書か本文に書けないのは何故だろうね。おっと、うかつに見逃す所だった。最後の参考文献一覧に一個だけ書いてあった。金融経済学者の人が書いた「インセンティブの経済学」、たったの一冊が論拠らしい。
ここは論理の飛躍はなはだしい箇所で、一人の経済学者(おそらく清水克俊氏)に批判された経験もしくは著者の妄想論争を下に、経済学者全員が同じと断定した上での批判らしい。こんな怨恨から八つ当たりせずに、調査した結果として、最近の経済学の教科書はインセンティブを全面に押し出しているという論拠を正確に述べてみなさいよ。社会学と経済学の学際研究もあるのに、パオロ氏の対話力がないからって、その責任を経済学者に押し付けなくてもいいでしょう。
「笑いを入れれば批判が許される」という著者の対話方法は著者にしか通用しない常識です。笑われた人にとってはより嘲けられているように受け止められ、その結果、猛反論を受けたかもしれませんね。次の事例、イチゴ大福。はいはい、経営学者ですね。経営学と経済学の違いを辞書で調べる能力もパオロ氏にはなかったのでしょう。
「つっこみ力で世をおもしろく」の小題の主張を見て寒気する。あぁ無学なるかな。既に間違いと分かっていることを主張するのは阿呆である。阿呆が面白いというのが著者の主張らしい。そういう論理なら、著者は阿呆であるから、たしかに面白いかも知れぬ。社会的には無駄の極地である。しかし、パオロ氏の出すものとは異なる有用な新規のアイデアなら、特許が取れたり、真似する人が現れたり、さまざまな批判に打ち勝つ力があったりするだろう。
アインシュタインの相対性理論のようなものとパオロ氏の妄想を比較して何になるのだろうか。自分を大きく見せたい小人の詭弁にすぎない。
詭弁が多い。ベストセラーの著者が「おしなべて、たぐいまれな天然ぼけ力の持ち主」だそうだ。そうであるならば、学問的に正しくない本のベストセラーを何故連発できないのかねぇ。
109-127頁あたりはまともになります。実際、自分の調査に基づいているから、逸脱ができないのですね。文章もそれまで荒廃度からすると格段に陳腐になります。
最近、日本の所得格差が広がっていること、不況期に行うのは、累進税率の増加が先進国の定法であったこと、にもかかわらず、小泉政権は逆の政策を行った事、いずれもパオロ氏は知らないらしい。それに所得格差を調べる時に、大竹文雄の本しか見ていない。普通、バランスを取るために、別の意見(例えば、下記)などを参照するものなのに。よほど経済学者に知人がいないと見える。
- 橘木俊詔(1998)「日本の経済格差」岩波新書
最後に良く分からないが、弁護士が既に調査して、経済学者が間違っていたことを明らかにした内容を、パオロ氏自身が指摘したかのように、我田引水した歪曲引用を自説として綿々と書いている。さすがに、パオロ氏にとってはこんな面白おかしい書き方はないのかもしれないが、読者に対する詐欺行為である。
そもそも、住宅のゆとりローンの問題点を指摘していたのも経済学者だし、社会学者では断じてない。百歩譲っても弁護士であり、社会学者では決してないのである。
それと、自殺に関係ない話も入っている。自殺と住宅ローンの相関性があって、その対策として住宅ローンに対する規制が正しいとは言えるだろう。しかし、日本の住宅ローン制度が諸外国より不備で不法建築が多いとしても、自殺とは関係がない。不法建築の住居で住宅ローンに苦しんでいる人は、保険金をかけてあるから自分が死んでローンをチャラに出来ても、家族の為に安心して暮らせる住まいを残す事は出来ない。自殺の要因が「ローンをチャラにして家族の為に安心して暮らせる住まいを残す」ことであるとパオロ氏が推論している以上、不法建築の住まいで住宅ローンが残ったなら、住宅ローンを踏み倒して、貸家住まいの稼ぎ手として頑張ると推論すべき所なのである。こういう詰めの甘い推論が多いと批判される。
詰めが甘く博士論文が通らなかった舛添要一のような方だから、パオロ氏の頭にパオロ氏に対する批判ばかりが浮かび、それを対立止揚して処理する能力もないため、毒にも薬にもならない「つっこみ力」を思いついて、喜び勇んでしまったのだろう。
パオロ氏の主張する「つっこみ力」の具体例を見ても面白くも何ともないし、対話や議論の手段にもなっていない。対話や議論を目指すなら、論理学の対立止揚の方がよほど建設的で役にも立つ。実用性ゼロのトンデモ本でした。