[トンデモ本] Steven E. Landsburg[著]佐和隆光[監訳](2004)「ランチタイムの経済学」日経ビジネス文庫
訳語も変なのだが、経済学的に物事を考える上で、著者の用語法はきわめて論理性が欠如している。第1章の「インセンティブの力」であるが、通常、誘因と訳して問題ないなら、そう訳せば済む話である。経済学では、経済的な動機のみを勘定に入れるわけだから、金銭的誘因と訳しても良いかもしれない。第1章から、応用分野の機会費用的なものの考え方を入れて話したいが、機会費用の用語を出したくないということから、不安定な一般語を用いるという悪書の常套手段が使われている。本来よい本であるなら、用語を出すかどうかは別問題としても、機会費用的なものの考え方自体は比喩で説明すべき所なのである。
それと章立ても変である。第2章が「合理性の謎」。入門水準のミクロ経済学では、経済的合理人を仮定していて、かなり上級にならないとこの仮定をいじることはないのだから、経済的誘因は経済的合理人の仮定から直接出てくる仮定の話である。それを分析結果のように書くから、すでにこの著者は経済学の真髄がほとんど理解できていない。しかし、これでも教育系の大学教授ということは現在の経済学の教育はかなり危機的な状況にあると考えてよい。こんな悪書を監訳した佐和隆光の良識を疑う。
チケット問題の分析が陳腐。売れっ子であればあるほどファンは多い。かつて値上げして、ファンなのに高くて入れないと苦情が殺到したコンサートは多々ある。その時のコンサート当日の警備やコンサートまでの苦情応対などの処理費用が高くつくことを考えれば、慣行に従って一定金額で興行する事は無難な経営手法である。過去の事例を経済学者が調査しない怠慢で、ランチの余興に推論だけで処理しようとするから推論を誤るのである。
CMについて有名人を使うのも、銀行の堅牢な建物の理解もよくある説。しかし、銀行は当初堅牢にしておかないと銀行強盗に襲われるという歴史もあって堅牢にしていたということもやはり指摘されていない。
端数価格については馬鹿げている。消費者の錯覚に期待しているはずはない。店員のレジうち詐欺もアメリカ特有の現象かもしれないが、もしそんな原因で経営者が得をすると考えているのなら、やはり馬鹿げた考えだ。著者は正しいと信じているらしいが、一日で店じまいするような店舗ならともかく、長期経営を目指す店舗とは思えない行動原理である。それに、経営者の労働者教育より99セントという値段付けの方が勝る理由がないと理屈に叶わない。返金をちょろまかすという窃盗を行う店員なら、店舗から商品を持ち出すだろうし、常に店長が監視し、店長だけは規律を守れると推論するのも変である。
「端数にしてでも安くしている」ということが消費者に対する経営努力のアピールになると経営者が考えるから、そういう値段にするのである。日本では、レジの計算を楽にした100円shopなども存在するし、99円shopもあるのである。しかし税制変更後に税後の値段を変えることはなかった。いずれにしてもこれらは全部、経営学の分野の話で、ミクロ経済学の理論から推論してうまく解が導けるような問題ではない。経済学で扱う内容を誤解する人が増えるのでこういう書物は迷惑である。
第3章の「情報の経済学」も粗雑である。前半の保険の例はミクロ経済学の守備範囲だが、後半の株主と経営の話は、ゲーム論のごく一部でしか扱わない問題で、ミクロ経済学の入門書水準の本で取り上げられることはない。入門水準でこうした事例をあげるのは難がある。
第4章の「無差別原則」も、消費者選好に関するミクロ経済学の仮定の話である。地域格付けは、一般には異なると解釈される価値軸を複数とり、その価値軸がすべて等しいと仮定して、価値の平均をもとに順位付けしたものであるから、経済的な意味での順位ではない。これをもし無差別だったらと仮定しなおして、経済学の考えでは、都市の格付けの差は、住宅価格に吸収されると考えるのは愚かである。
もうひとつ、皿洗いのチップに関して、かなり無理な推論を続けている。チップを払う主体の消費者の行動を省いている一方、他業種とレストランの競争を考えるのがナンセンス。皿洗いの賃金とチップの部分均衡を解いた後で、レストランと他業種の労働移動を考えている。そんな無理な物語にしなくても、この問題に関しては、普通のミクロ経済学の考えにしたがって、労働移動を考えずに、チップと労賃、レストランの商品の値段とそのレストランの顧客の増減だけで、説明がつく話のはずである。それにこれを無差別原則というのは変である。
また、ひどいのが「固有の資源」。これがあると得をするらしいが、反例を1秒で思いつく。まったく民間企業などが関心のない分野の研究者。いくら固有の知識があっても評価される事はない。なぜこうなるのかもすぐに説明できる。「固有の資源」が供給側の要因にすぎないからである。需要側の要因を無視した議論をしても、経済学的な含意は乏しい。70頁だけは「固有の資源を持つ」と経済的利益もしくは損害を被ると書いているのに、72頁の結論では「固有の資源が経済的利益を生み出す」になっている。73頁の寓話は、ただの妄想である。普通の経済学では、「消費者の選択肢が増えること=善」と考えている。著者は変人だから、そのサービスの受益者が、公園と水族館から得られる経済的価値が同一なので、新しく建設した水族館は完全な無駄で、ドブにすてたのと同じと結論している。馬鹿げた妄想に付き合わされると疲れるなぁ。例えば、その町の住民全員が一年間、水族館を利用するのに隣町まで出かける費用が、新しく建設した水族館に要した費用(減価償却の一年分)より高ければ、住民は新しいサービスを安く手に入れられるようになったと考えるべき寓話なのである。
第5章の「労働と余暇のトレードオフ」では消費者の選択肢が増えることが善になっている。なんとも中途半端だ。それなら、前章でも「消費者の選択肢が増えること=善」と考える方が自然だ。消費者から見れば、貿易で重要なのは輸入である。異論はないが、労働者の場合には輸出だって重要だ。より高い値段で買ってくれる国があれば、同じ労働時間でも賃金が上昇する。賃金上昇した分の購買力で消費もできる。貿易自由化の利益を主張するのに、輸入片方だけ取り上げるのは明らかにおかしい。とても経済学者の発言と思えない。貿易自由化論者のBagwatiの爪の垢でも煎じて飲んだ方がいいのじゃないかと思う。
第6章の「正しい政策をどう考えるか」は、所得分配の適性水準はあるかという問いである。著者の書いた内容を無視すれば、これには答えがいくつかある。ひとつはロールズの正義論。もうひとつは、各社会の構成員によって、最適な所得分配は異なるというものである。これは厚生経済学や社会的選択などの分野で扱う問題で、ミクロ経済学の応用にあたる。しかし、著者は倫理的問題に対するアプローチが苦手らしく、最終的にロールズの正義論でうまくいかない極端な社会をふたつあげて、他のアプローチの方がましと断定する。そのベール仮説も巧くいかない例は同じ程度あるというのに、どうしてベール仮説の方が良いのかという判断基準は示されていない。
ロールズの正義論は、社会の一番不幸な人の生活をより良くするという規範である。著者が示した批判は、社会の一番不幸な人自体が援助を拒否した場合と、社会の一番不幸な人の経済水準をあげる作業を繰り返すと、社会のすべての人が絶対的貧困に陥るケースである。ここでは、静学的な市場均衡からの所得分配しか考えていない点は忘れられている。現実の経済は成長も停滞もするので、静学的なゼロ・サム・ゲームではない。ロールズの正義論はあくまで、静学的な市場均衡からの所得分配に関するひとつの規範でしかないが、静学的な市場均衡を前提にすれば、これに勝る規範は今の所見当たらない。
第7章の「税金はなぜ悪か」は、部分均衡分析による推論の間違いの典型例である。部分均衡分析の前提を丸きり無視して、税金は悪と間違った推論をしているにすぎない。部分均衡分析を用いて税を見るには、次のような仮定が存在することを思い出すべきだ。まず、課税対象となる財・サービスに関して完全競争市場が成立すること、その完全競争市場の均衡が社会的に最適な財・サービスの供給量と一致する事である。その場合にのみ、税が死荷重(デッド・ウェイト・ロス)によって、経済に悪影響を及ぼすと推論できる。それ以外のケースでは、もちろん税が悪にならない。
さらに、政府の役割は所得分配だけと仮定されていることも忘れてはならない。つまり公共財が提供されてその便益が税収を上回る可能性があるのである。もちろんGDPの計上などでは、公共財の受益者の満足度を金銭的に評価する方法がないため、会計的に無視されているから理論でも無視しているというに過ぎない。このことは、財政学者でも良く忘れて議論する阿呆を見かける。
死荷重が悪にならない反例を示そう。課税対象となる財が、いま完全競争下の市場均衡では、社会的に不必要な水準まで供給され過ぎているとしよう。例えば現在の技術では副産物として出る公害物質を抑制できないと仮定すれば、税金を使って財の供給を抑えることで、公害を抑制するほかない。課税することによって、社会的に最適な供給量を達成できる場合は普通の入門水準の財政学の教科書に載っている内容で、これをミクロ経済学の教授が知らないとは問題である。
そして頭の悪い著者Landsburgにとって、死荷重を避けられるのは人頭税のみだと嘘を書いている。
また、110頁には、効率性の追求を最善と考えるのが、経済学だとこれまた悪質な嘘をついている。完全競争が成立しない市場に関しては、効率性のみでは測れないというのが普通の経済学の考えなのである。完全競争には完全情報も含まれる。したがって判事うんぬん以前に、もし採掘などのプロジェクトでいうなら、プロジェクトによってもたらされる環境への影響などが予測不可能であるならば、効率性だけで判断するのは間違いであるということしか分からない。
限られた情報で効率的なら、どんなにリスクがあっても取るべきというのが著者の立場らしいが、それは普通の経済学の考えではあり得ない選択である。112頁になってようやく機会費用の説明が書かれている。すでに第1章で使っている論理であるが、非論理的な著者にはその事が理解できていないらしい。さすが三流。
さらに寄付と紙幣の焼却の結果が本質的に同じという結論も意味が分からない。普通、税金の減額を税率の低下とみるなら、経済成長率が変化してしまう。ここでも著者は、変数の変化の結果としてもたらせるのは、静学的変化に限定しているようだ。そうした特殊な経済環境を仮定した分析結果という点を意識できないらしい。
119頁の芝刈りの事例を見ると、この著者は精神病じゃないかと思う。別に経済的効率性だけが人間の行動基準として最善であるわけではない。倫理的問題は経済的効率性で測れないと第6章で結論した事をもう忘れているようだ。
120頁の独占企業の航空機チケットの購買に至っては、完全に病気である。経済効率でいうなら、独占企業に利益をもたらす選択肢が効率的であるはずがない。また、自分の満足度最大化を犠牲にして、独占企業に利益をもたらすのがなぜ部分均衡分析をするにしても効率的になるのか、もう一度よく考えた方がいい。三流のミクロ経済学者にありがちな静学信仰もいいところである。
第8章の「なぜ価格は善か」の説明も根本的に著者の誤解がある。合理性と経済的合理性の区別がついてないところが根本的に間違っている。それにこれだけ応用分野の話を出していいなら、価格メカニズムは、市場価格でなくても影の価格でも、正常に機能するから、128頁の記述も間違っている。市場メカニズムが機能するためには、多くの市場参加者が必要など説明しておくべき項目は多々あるが、そういう基本事項が省かれ、くだらない著者の妄想が多いのは、著者が正鵠にミクロ経済学が理解できていないのではないかと疑われる。
第9章の「法廷の経済学」には、著者が無断で仮定している内容を書いていない。例えば、キャンディー製造業者の騒音と医者の取り決めには、他に移動する費用が、両者の交渉によって解決する額より十分に大きくなければならない。静学で考えれば、使用権の争いなのかもしれないが、防音設備の負担でも解決可能かもしれないし、動学で考えてよいなら、どちらかが移転費用を支払うという解決法も存在する。普通、このようなコースの定理に関する説明をする場合は、もっと適当な例が多々ある。
第10章の「麻薬合法化の経済学」。よくある随筆の話題。陳腐だが、なんと他人の費用便益分析の揚げ足取り。著者はここまでの章で十分に間違いだらけなので、他人の事をとやかく言う資格などありはしない。それに普通の入門書の経済学では、費用便益分析を扱う事はない。この著者は費用便益分析がとても政策決定に有効な手段と考えているようだ。過去の公共財の費用便益分析を調べた経験があれば、いかに意味のない費用便益分析が多いか気付くだろう。プロジェクトの費用としなかったために、公害によって死んだ人も、廃業に追い込まれた人も枚挙に暇がない。
こうした調査は追跡調査をすればいいが、責任を取りたくない政治家や官庁が自ら行う誘因などあるはずないのだから、経済学者が調べなければならない。しかし、ランチの推論に汲々としていて、Landsburgは学問的調査ができないらしい。
その当時、換算していない費用が高くつく場合は、環境に限らず数多くある。費用便益分析の要が、完全競争が成立している状況と考えられる場合に有効ということである以上、政策決定にはほとんど役に立たないのである。政策決定にかけるのは、ほとんどは公共財なのだから。
第11章の「財政赤字の神話」。さて、ほとんど静学でしか考える能力がない著者が、動学の問題をどのように扱うのか見てみよう。債務不履行近辺で起こる経済現象を一括して神話と呼んでいる。確かに、第二次大戦後、先進国の債務危機(デフォルト)はない。しかし、発展途上国ではたびたび起こっているし、現に神話としたものの一部は、こうした折に実現した。この歴史事実を、著者はどのように考えているのか、書いて欲しいものだ。
第12章の「新聞記事の間違いを指摘する」。これもよくある随筆の話題で陳腐。またしても、エコノミストの知っている基本的な経済原則として、「合理的な範囲内で、できるだけ消費を平準化せよ」というのが書かれている。これを理由に金融危機の際には、政府が破産金融会社の債務負担を税金投入して構わないそうである。昔の経済学者でシューペンターは、これに大反対であるけれども、彼はエコノミストではないと著者は定義しているようだ。私は、シューペンターの説には反対だけれども、だからといって、そうでない考えのみが経済原則などという傲慢な見解は持っていない。
第13章の「統計でうそをつく方法」。これも、よくある随筆の話題で陳腐なのだが、著者のあげる事例が変わっている。失業は自発的失業ならいいことだということを普通、こういう章で述べない。アメリカの所得分配に関連する統計が貧弱なのを理由に、所得分配は経済学的に何も意味しないと断定している。論拠はないに等しい。マスメディアへの一方的批判が書かれているが、著者が統計で嘘をつく方法を記した章だった。
第14章の「自動車の品質を高めるべきか」。また、著者の主観が「エコノミスト」を主語にして書かれている。Landsburg特有の傲慢さは、本書に一貫して表れている。冒頭の「エコノミストが最も情熱を燃やすのは、世界を改革することではなく、理解することだ」(218頁)と理論かぶれミクロ経済学者特有の世界観が述べられている。マクロ経済学専門の研究者は政策志向が強く、Krugmanも危機の際の政策提言が最も好きだと述べているくらいである。
そして、同頁には、「すべてのエコノミストが共有する通念がある。インセンティブの重要性、貿易の利益、正当な所有権が強調される」と嘘が書かれている。労働経済学者などの中には貿易の利益を軽視している人もいる。また、土地に関しては、所有権でなく、使用権で十分とする土地公有化の議論が存在する。経済的誘因はミクロ経済学の合理的経済人という仮定から出てくる話だから、共有する基礎知識ではある。現実の経済が完全競争に近ければ、規制がいいという経済学者も少ないだろう。しかし、それでもやはり「すべての〜」と書くのは、書き手の論理性を疑われるだけである。
220頁以降に著者は、”アメリカが生産した自動車の低品質が価格に反映されていれば規制の必要なし”という主張を書いている。ここが、この章の題名に関連するだけで、あとは著者が規制の必要がないと考える事例や規制が必要な特許の事例などを無秩序に散りばめている。雑な推論が目立つ。最後は、Krugmanの政策を売り歩く人びとと同様の見解を述べて終わる。馬鹿馬鹿しい。何らかの政策立案を経済学ができないのであれば、経済学という学問の実用性がないと結論する他ない。
第15章の「政治家に約束を守らせよう」。著者によれば、政治家の談合を防ぐと、良い事があるらしい。普通の経済学にはない不思議な考え方だ。例えば、社会的弱者の救済などの政策を真面目に考えよう。現在のアメリカの議会制民主主義・大統領制の併用を仮定して、その下で談合がなくて社会的弱者の救済策は成立するのだろうか。どうやって成立させることができると考えるのか、是非ともLandsburgに説明して欲しいものである。
増税しない約束を反故にした政治家に法的拘束力を持たせることは正しいとLandsburgは説明する。現在の社会的弱者の救済サービスが実施できない歳入のもとで、増税しない決定を反故にできなければ、どうするのだろう。また、現行の政府サービスを維持するという約束と、増税しないという約束を同時に選挙公約に掲げていたが、当選後、景気が悪くなり、歳入が減った場合、どちらを優先すべきだろうか。確か著者は、国債の発行と増税は同じと主張していたはずである。
こうした公共選択論などですでに有名な政策ラグの問題などへの考察が皆無なのはなぜだろうか。また、公約が3つ以上あれば、これまた超有名なアローの不可能性定理に当てはまり、政治家の政治公約への法的拘束を設けることは損失をもたらす可能性があることも簡単に分かる。公約が一つしかない政治で、市民が幸福になれる現実など存在しない。また、在任期間中に市民の意見が変化しないとも言い切れないのである。例えば、失業者が増えれば所得税を増税してでも、失業手当の増額など救済策を望むかもしれない。
最後に完全に常軌を逸した政策立案がされている。確か前章では政策立案は間違いと主張しておったはずなのに、Landsburgには、一片の論理一貫性もないらしい。完全に常軌を逸した内容は、犯罪者を裁く権利を市場に委ねるという提案である。Landsburgは、憲法に規定されている基本的人権は金科玉条の如く守るべきものと主張していたが、ここでは被疑者の段階の犯罪者の基本的人権を一切無視することに決めているようだ。
第16章の「どうして映画館のポップコーンは高いのか」。相変わらず間違った推論が多い。まるで、映画館の入場者は、すべてポップコーンを購入すると仮定しているかのようだ。いくらアメリカ人に、ポップコーン好きが多いとしても、現実的でない推論である。なので、総額いくらになるように、入場価格とポップコーン価格を調整すると考えている時点で、完璧に間違っている。
途中から独占企業が消費者余剰を奪う価格付け「差別価格」の話に転化する。そして、251頁に「差別価格とは経済用語で、同じ商品に複数の価格を付けて売ること」と間違った定義が書かれている。正確には、独占企業が、消費者間の再販売が不能な商品について、各々の消費者の属性(需要関数の形状)に関する情報を知ることができ、その情報をもとに異なる価格を設定して販売するときの価格を差別価格という。
著者によれば、ポップコーンも差別価格に相当するそうである。これも間違っている。普通の経済学の教科書には、入場料とポップコーンなどは、二部料金制という名で呼び、別の現象をさす。独占とは関係がなく、情報の非対称性で説明する。
この事によって、やや上級のミクロ経済学の教科書には確実に書いてある内容の知識程度も、Landsburgは持ち合わせていないと断定できる。Landsburgは、クーポンも独占ではないが差別価格に似たものと勘違いしているが、これも情報の非対称性で説明する事柄である。
最後の方に著者が差別価格かの判定が難しい事例が複数書かれているが、なぜ、差別価格で説明しなければならないのだろう。
難しい事例の第一は、国境近辺のレストランで、市場レートより米ドルを高く評価する店がある問題だそうだ。答えは簡単で、カナダのレストランが、食材などを米ドルで購入しており、自国の外為銀行まで距離が長く、カナダドルから米ドルの変換に時間がかかるならば、客から外貨を獲得する方が簡単だからである。国境付近ではよく見られる経済現象だ。
難しい事例の第ニは、ディズニーランドが株主に割引券を配ることである。著者は正真正銘の阿保ではないか。配当金の一部を減額した上で割引券を配っているかどうか分からないが、一般に株主に自社製品やサービスを理解してもらうことは、さらに株を引き受けてくれることにつながるのだから、多くの企業が実施しているではないか。
難しい事例の第三は、アメリカのホテルの(宿泊人数に関係ない)一部屋あたりの宿泊料金とイギリスのホテルの(部屋数に関係のないあたりの)宿泊客一人あたりの宿泊料金という違いである。本当にこんなにきれいに分かれているのか?
日本のホテルでは両方のタイプがある。
第17章の「共謀と求愛の共通点」。Landsburgが犯罪者を裁く権利を市場に任せるべきだと主張したことからも御分かりのように、Landsburgには、標準的な法認識や法理解をする能力がない。したがって、Landsburgによれば、「男性が複数の女性と結婚する事を禁じている法律は、原理的には、企業に複数の労働者の雇用を禁じる法律と異ならない」そうだ(268頁)。まず、結婚とは契約の一種ではあるが、市場で売買されるような価格に基づいた契約ではない。婚姻と労働契約とでは、言葉の上で契約と呼びうる以外に原理的に等しい本質的な要素がない。また、この両者が決定的に異なる要因として、同等の権利が反対側に存在しない場合と存在する場合と言うことができる。
この婚姻事例の場合、女性が複数の男性と結婚する権利が保障されていない。現行法では男女同権という憲法に違反してしまう。また、労働契約は正規雇用はともかくとして、労働者が複数の企業に同時に労働契約を結ぶことができる。というわけで、Landsburgの政策論議は的外れなものがほとんどだが、経済学の理解と法の理解がほとんど欠如していることが理由と思われる。
著者の見解では、妊娠中絶の選択権と豊胸手術の禁止を同時に求めるのは理屈に合わないそうだ。レイプなどによる妊娠を中絶可能にすることと同時に、豊胸手術の禁止を求めても何の矛盾も生じない。レイプ犯の子を産むリスクが、中絶という健康上のリスクより大きいと考えるのは自然である。曲解する所をみると、Landsburgには女性蔑視の根強い信念があるらしい。
第18章の「この本はあなたの期待通りですか?」。この表題からして言い訳が書かれていると推察されるので、必要のない章である。訳が正しければ、269頁の「完全情報」は論理的に間違っている。「不完全情報」の訳出間違いかもしれない。パオロ・マッツァリーノの本から相当ひどい本という覚悟はしていたが、これほどひどいとは思わなかった。
この章も表題と内容が一致しない。本の購入は競売と関係がないが、途中からオークションの話に切り替わっている。そして理論上、いくつかの仮定が成立すれば、競売方式によらずに売り手の平均競売収入が一致することが述べられる。その上で、現実は特定の商品に特定の競売方式が採用された歴史があり、競売商人の方が商売をよく心得ているのだから、理論家が見落としていると考えるのがよいそうである。そうであるならば、これまでの著者のすべて推論手法は完全に間違いで、当事者にインタビューすればよいことになる。
しかし、著者によれば、「エコノミストの仕事は、・・・略・・・。商人が商売の仕方を知っていると想定して、なぜ彼らの戦略が正しいかを解明することである」と言っている。どう定義しても、著者のこれまでの推論が間違っていたことの言い訳にはならない。
第19章の「金利の正しい考え方」。かなり雑な計算をしている。名目金利10%で1ドル預金すれば、30年後に20ドルになると281頁にかかれているが、1.1の30乗すれば分かる通り、おおよそ17.5ドル(17.4494)にしかならない。実質金利3%で計算すれば、1.03の30乗だから2.42726なので、2ドル50セントではなく、2ドル40セントにすべきところだろう。
フィッシャーの教科書的な異時点間の価格が金利という説明より分かりやすくなっていない。
第20章の「ランダムウォークは株価理論なのか?」。よくある随筆の話題だが陳腐。まず著者のように、日々のストック価格変動の動きを説明するランダムウォークの理論を株価水準を説明すると間違えたという阿呆は、はじめて知った。それから、株価の変動がランダムウォークなのではなく、時間単位の変動や、日単位の変動がランダムウォークなのである。年単位なら話は異なる。
第21章の「アイオアで自動車を「栽培」する」。フリードマンの貿易利益の比喩に感動したという短い身も蓋もない話。
第22章の「アインシュタインは信頼できるか」。最後まで著者自身は実行できていないが、「私が経済学が好きなのは、経済学者は仮定を明らかにしてものを言うからである」そうだ。これは科学者全般に言える事で、定義などをきちんと明言しないで進める学問はない。哲学にしてもそうなのだから、数行前で書いている「結論だけをいいたてる思想家」の具体例を書く必要があるだろう。
第23章の「フットボールのルールの改正」。この章はルーカスの合理的期待から導かれる結論が斬新で正しいと主張した章である。1970年代のアメリカのインフレが高い時期のスタグフレーションの経済を合理的期待でうまく説明できるが、後にまた説明力が落ちた。
第24章の「私は環境保護主義者と対決する」はとてもくだらない。行き過ぎた保護は問題かも知れないが、公害など外部不経済は経済学でも社会的効率性を損なうのだから悪である。日本は大気汚染による公害病「四日市ぜんそく」などがある。所得と引き換えに発展途上国でこうした公害病を発症させてよいと考える経済学者はいない。
私には、環境保護主義者の頑迷さと経済学を曲解するLandsburgの頑迷さは同じに見える。また、価値論の本質を理解していない著者は、「狭義の経済学は価値判断とは無縁の科学である」と誤解している。経済学は人間行動を経済的誘因に出来る限り結び付けて考えようとする。これは一種の価値判断である。環境を経済的価値のみで判断する経済学者も、環境に経済的価値以上の価値を見出す環境保護主義者も、異なる価値論で判断しているに過ぎない。著者の愚鈍な頭脳では理解できないか。
また著者の異常人格を象徴する幼稚園の先生への手紙で締めくくっている。著者の考えによれば、熱心な反環境保護主義者と名乗れば、政治的見解の多様性から、環境保護プログラムをボイコットできるべきなのだという。その理屈が正しいのなら、幼稚園先生の信じている物理であれ、化学であれ、反物理主義者、反化学主義者に対して、教育自体が不可能になる。著者には、幼児や初等・中等期の教育は一種の洗脳に他ならないことが理解できていないようである。