[良書] 岡本裕一郎(2009)「ヘーゲルと現代思想の臨界」ナカニシヤ出版
ヘーゲルの原著は長谷川宏[訳]の「歴史哲学講義」と樫山欽四郎[訳]の「精神現象学」くらいしか読んでいないので、それほど詳しくはないが、難解であまり理解できなかった「精神現象学」の方は、有名な書物は学派争いの渦中に巻き込まれ、誤読が繰り返されているとこの本を通じて知った。
ヘーゲル神話について専門ではないため、吟味はやめておくが、この本の著者の主張で意味が伝わらないのは、ヘーゲル神話以外の部分で著者の見解を述べる際に、ときおり論理の飛躍が見られる程度なので、弊害はあまりないと言えるだろう。
ヘーゲル神話のような事例は、哲学に限らない。経済学では、Adam Smithの「国富論」「道徳感情論」など誤読される古典の典型である。例えば、こうした経済学の古典紹介の悪例として、松原隆一郎「経済学の名著30」ちくま新書がある。この著者の小論文は何本か読んだがいずれも低質であるし、経済学説史家でもないので、かなりいい加減な内容と推測される。そういう場合たいてい、「はじめに」や「おわりに」といった場所に言い訳が書かれているものであるのだが、この著者の場合には「はじめに」において、「本書のような解説も私の読み込みに過ぎない」と責任回避している。
そうはいっても紹介本だから、最低限、取り上げる著書の著者の略歴や本の成立くらいは書いてあるかと思いきやさにあらず。松原隆一郎の「経済学の名著30」でも取り上げられている Adam Smithの「道徳感情論」および「国富論」について、ヘーゲルと同様の状況があるので、指摘しておこう。
まずは、松原隆一郎の難点から指摘する。「国富論」誤読の最たるものとして、マンデヴィルの「蜂の寓話」にも触れられていないし、「道徳感情論」については同書を読んだとは思えないほど経済学の分野に引きずりすぎた解釈をしている。ちなみに、Adam Smithは、「道徳感情論」の中で、マンデヴィルの「蜂の寓話」を明記した上で、その誤りを批判している。さらに言うなら、Adam Smithが他に書名を記した上で誤りの指摘を行った箇所はここくらいなので、とても印象に残る箇所である。また、「国富論」で言及している内容と「道徳感情論」の内容をきちんと分けて書いていないので、紹介本として低質である。「国富論」の解説と思える箇所も、適当に既存の学説史から抜書きし、それを「国富論」の目次だけ見て御茶を濁したような記述にしか見えない。松原隆一郎は恐らく、「道徳感情論」も「国富論」も精読した事はないようである。ただし、このような低質な紹介は彼に限らない。例えば、専門家とはいえない竹内宏から、一応ミクロ経済学者の武隈慎一「ミクロ経済学」新世社でも同様である。
武隈慎一は、Adam Smith について「彼の基本的な考えは、社会の調和及び人類の幸福は、人為的に実現されるのではなく、本来的に備わっている「道徳感情」によって、自然にいわゆる「見えざる手」によって、達成されるとするものである」と書いているが、これは「道徳感情論」と「国富論」を誤読しない限り導けない結論である。「道徳感情論」を精読すれば明らかであるが、産業革命後、増大した市民によって、これまでの哲学では、そうした大衆が社会秩序を混乱させると考えがちであるが、本来的に備わっている「道徳感情」の同感の作用を通じて、法整備がなされることなどで、新たな社会秩序が生まれると主張したものである。「道徳感情論」には「見えざる手」の表現は一箇所のみ出てくる。該当箇所では、「見えざる手」を市場の調整のような意味で使っておらず、普通の神学的な意味合いで使用しているにすぎない。その箇所では、乞食であろうと大富豪であろうと、肉体の安楽や精神の平和などを生活必需品と想定すれば、彼らは神から同じだけの恩恵に授かっているのだというAdam Smith の価値観もしくは宗教観の表明の際に用いられているだけなのである。それに、「道徳感情論」は当時の哲学書の基本的な構成を踏んだ書物であり、経済学の書物として読むこと自体が無理である。
<2009.7.25記>