[普通] Adam Smith[著]水田洋[監訳]杉山忠平[訳](2000)「国富論(四)」岩波文庫
Adam Smith[著]水田洋[監訳]杉山忠平[訳](2000)「国富論(三)」岩波文庫
Adam Smith[著]水田洋[監訳]杉山忠平[訳](2000)「国富論(ニ)」岩波文庫
Adam Smith[著]水田洋[監訳]杉山忠平[訳](2000)「国富論(一)」岩波文庫
経済学のテキスト選びで触れた書物だし、J.M.Keynes (1883-1946)はともかく、Adam Smith (1723-1790)に関しては、あまり良い解説を目にしないので、原書訳本の批評くらいは書いて置かなければ、不親切かなと思い、取り上げることにします。この訳本は日本語としてはまぁまぁ読みやすいのですが、当時まだない経済概念を現代的な訳出で放置している箇所がいくつかあり、そうした点は不親切と感じます。
Adam Smith の「国富論(諸国民の富の性質と原因の研究、1776-1789)」の頃には、まだ国民所得統計のようなものは存在しませんから、「実質価格」のような訳出は疑問に感じます。「実質的な価格」として、その箇所で想定している実質化の基準は意識して訳出した方がいいでしょう。それから、Adam Smith にとって、市場に出回る穀物、製品など価格付けの根拠は、マルクス同様、労働価値説です。
第一巻の第11章で金や銀、穀物の相対価格から、実質的な変化について分析していますが、巻末の付録からも、当時の統計の不備を感じる事ができるでしょう。この章でのいくつかの結論を、現代風に書いてみましょう。例えば、石炭には薪という代替財があるので、石炭市場での石炭供給の減少は石炭価格の上昇をもたらさないなど具体的な現象を観察して帰納的に結論を導いています。代替財の分析は現代でも通用する考えです。Adam Smith が「国富論」を書いた時代には、まだマーシャルのようなミクロ経済学や限界革命は経験前ですから、代替財のような考えはまだありません。
また第一巻では、Adam Smith による深い洞察で、いくつか興味深いものがあります。例えば、徒弟制度で、労働賃金が労働意欲を引き出すように歩合とかになっていないなら、その労働者が作る製品の質は低質である事が多く、それが消費者にとっても不利益となるといった洞察があります。他にも、穀物は保存が効くが、当時ジャガイモの保存は効かないという財の差から生まれる価格の変動の違いを説明する下りも秀逸です。農業奨励策がもたらした帰結として貿易促進をあげているのは変な感じもしますが、Adam Smith が「豊作時の穀物を貯蔵して、不作の時に手当てすれば」という異時点間の供給調整による価格の平準化の発想があるのは注目に値します。
分析対象となる期間が戦争状態の内乱などを含む期間であるため、単純な市場分析ではありません。また同書で実際の観察から帰納的に結論を導出するという手法を取っているので、理論の仮定のような話は出てきません。したがって輸送費の話も出てきて、輸送費用を賄える商品の価格付けが不可能ならば、輸送されないこと、特にこれは鉱山の場合は重要な論点として比較的詳細に論じています。労働に対しても詳細に分析されています。例えば、生産性向上の取り分が労賃にすべて回れば、資本家は生産しないため、それが可能なのは資本をもつ独立職人という限られた労働者であることや、法律は資本家に有利に出来ていること、労働争議に関われる時間的余裕も異なり、資産を持つ資本家が有利だと考察しています。また定住法を労働移動の妨害というより、労働者の生涯賃金の上昇を阻止するため、人権に反した社会正義に反するものとして批判していることも目を引きます。
現代では正しいと考えられていませんが、Adam Smith は、第一巻の様々な箇所で、基本的に「供給が需要を生む」セイ(1767-1832)の法則(1803「政治経済学概論」)と同様の立場を取っていることを表明しています。また、労働を行う理由は財を消費するために他ならないと考えています。道徳感情論には、古典派が引用した「見えない手」について言及がありますが、既に前の書評で述べた通り、それは富裕な人も乞食も、精神的平和など考慮すれば、神の恩寵は等しく受けているという意味で使われています。これは、Adam Smith の信仰もしくは、宗教観の表明とすれば、大量失業を自発的失業と理解する古典派の考えと非常に親和性が高い議論になります。ただし、この箇所は、Adam Smith が哲学書を嫌う教会向けに書いた内容かも知れず、どの程度、本気で乞食に対して救済の必要性がないと考えていたのか、よく分かりません。私も経済学説史を丹念に追っていないため、現在、この文言がどのように理解されているのか、最先端の研究は知りませんが、経済学説史家には明確にして欲しい内容のひとつです。
まだ二巻しか読み直せていないので、詳細は後日追記します。
<2009.9.10記>
第二巻目の内容にまだ触れていないので、追記に書いておきます。第二巻は大きく2つの点について書かれています。ひとつは、第2編の「貯えの性質と蓄積と用途について」と第3編の「さまざまな国民における富裕の進歩のちがいについて」であり、もう一方は、第4編の「政治経済学の諸体系について」です。第二編は現在で言うと金融ですが、特に優れた洞察は見当たりません。第3編には、ちょっとした暴力で商業により築かれた富は消失するが、農業の改良による富の蓄積は耐久力があることなど指摘されていますが、経済学というよりは、歴史からの教訓程度の内容です。考察もローマ時代からのヨーロッパを対象にしていますので、そうならざるえない側面もあります。第4編では、Adam Smith の時代に近代の学説と考えられていた重商主義と農本主義について説明を試みています。二巻目は、前者の記述しかありません。この編については優れた点も見つかります。例えば、労賃の一般的上昇が各々の製品に反映される度合いを(当時の統計事情から)知るすべはないだろうと判断している点や生活必需品に対する課税が、(農家に対する)やせた土壌、不良な天候と同等の結果をもたらすと判断しています。また、関税については、輸出入の禁止的な税は必ずといっていいほど報復を生みだすであろうから、節度が必要との立場を表明しています。そして、英国に貿易の自由が完全に回復すると考えるのは、理想郷ができると考えるのと同じくらい馬鹿げていると書いています。この事から分かる通り、Adam Smith は夜警国家論など主張しておりません。理屈の上での重商主義は間違っており、貿易差額論も誤りであるとの主張は見られます。ここだけ抽出すれば、理論上、関税ゼロが望ましいと言えても、その後の叙述を見る限り、Adam Smith は完全な貿易自由化を絵空事のように捉えているのは明らかです。
第三巻目には、第4編の続きが書かれています。豊作時の輸出振興に関する詳しい解説がありますが、これを見ると、まともに農家の経営を考えていない事が分かります。Adam Smith は、穀物価格の急速な下落によって、農家が生命を保てなくなる可能性や再生産のために債務奴隷の状態になることはあり得ないと根拠もなく断定しているようです。農家自体よりも、価格低下による消費者利益の方が重要と取れる記述も見られます。この箇所では、Adam Smith はマクロの話に集中して、ミクロの事象を一切無視して考えています。この考えは、後の古典派とも相性の良くない事柄に相当しますが、経済学説史家がどのように考えているのか、私は知りません。他の箇所では、マクロの貨幣量を扱う際に、ミクロのイングランド銀行の経営的な視点を入れて考察したりしているので、分析視点がご都合主義的に変更されています。この章では、きちんとした論拠もなく、貿易に関する政策で最も良い政策は戻し税であるとAdam Smith は答えています。また、様々な箇所で商人はよく嘘をついて、政策を通じて独占を試みると批判しています。Adam Smith は独占を悪と見なしています。
この巻の第4編の第5章の穀物に関する分析は感情的で、「国富論」の中で一番低質な内容のひとつです。Adam Smith の飢饉の分析は貧弱です。Adam Smith は当時の統計として飢饉の統計は豊富だと述べており、分析に自信を持っているようですが、結論は間違っています。例えば、51頁に「国内のすべての地方間で自由な商業と交通が行われている広大な穀物産出国では、もっとも不順な天候のために生じた不足でも、飢饉をおこすほど大きいことはけっしてありえない」と書いていますし、飢饉の原因は、たいてい政府の不適切な救済策によって起こると断定しています。現代では、Amatya Sen の飢饉の分析によって、市場に任せておくと、不足した穀物に対する投機が起こり、政府が何もしなければ、より飢饉は深刻になることが知られていますから、不足を補う地方間取引など、自由な商業と交通の下では起こりえないことが分かっています。
Adam Smith は不思議な人物です。多くの箇所で商人は嘘つきである旨を断っており、他の政治家や研究者が商人に騙されていると指摘する際には、とても商人に対して批判的かつ騙された政治家や研究者を批判しているのですが、自分が穀物商人を分析する段になると、何の統計的な根拠にも寄らずに、「凶作の時しか儲からない」という穀物商人の言葉を鵜呑みにしているようです。もしそれが事実なら、豊作の年が続けば、穀物商人の廃業が観察できるはずですが、何も言及されていません。Adam Smith の親類に穀物商人でもいるのでしょうか? また、この穀物の分析に限って、民衆に対して愚民思想が強く出ていて気持ちが悪いです。たしか別の巻で、職業自由の人権の際には、内乱の要因になるようなことを分析していたはずですが、ここでは穀物商人は倉庫を襲撃される危険を背負っているなど徹底して農民や穀物を買う民衆に対して批判的となっています。ほかの商品でも、常に襲撃の危険性はあるはずですが、穀物だけ特別扱いするAdam Smith の分析態度は不可解です。穀物の名目価格が最低限の生活維持水準以上に高騰すれば、当時の人権の生存権の考えから言っても、暴力に訴えてでも生きようとするのは当然で、Adam Smith はこの著書の別の箇所で、社会契約論にたって基本的人権を主張したJohn Locke(1632-1704)に言及しているので、彼はロックの書物を理解できなかったということでしょう。
それから穀物に対して政策介入するのは、すべての人間が穀物を消費しないと生きていけないからで、一過性の凶作の年の名目価格が高くなりすぎると、価格が高いことによって穀物を買えない人が餓死したりして社会の不安定を助長するからです。当時の社会契約論の立場などからも、暴動が起きないように介入する政策は極めて自然です。Adam Smith は奇妙なことに、農家の保護にしかならないと考えているようですが、低所得者対策にもなっています。この点気付いていないようなので、Adam Smith にとって、凶作の年に穀物を買えない人は死ぬべきだと解釈されるでしょう。非常に残酷な思想ながら、古典派と同じ考え方ですね。Adam Smith にとって、人権は国家からの自由権にとどまっているようです。それから、この5章では、生産と貿易の割合の統計を使って、国内の生産より圧倒的に少ない事実を指摘しています。奇妙なのはその統計を使用しながら、政治算術を信用していないと表明していることです。そして、農業分野でよく反論としてあがる一度、輸入によって価格が下がりすぎて生産から撤退すると、簡単には生産を再開できないという農家の実情の方は無視されています。これも商人の「不作の時しか儲からない」を鵜呑みにするのなら、農民の言い分もきちんと検証すべきでしょう。例えば一年に一回しか生産しない農産物は地力の回復などに2-3年かかる農作物もたくさんあります。
第4編第5章は上述したように低質ですが、章末に魚のにしんなどの統計データが載っています。第2版に編末に追加されたデータと注がついています。Adam Smith の著書にイングランド銀行の実態を知るのに役立つ情報が記載されていると誰かの本で読んだ気がしますが、その一部は第6章に載っています。第7章は植民地経営についてですが、これもギリシア・ローマ時代の歴史分析からはじまります。この中で取り上げる価値がありそうな記述は、鉱山開発が実際に成功する確率は極めて低いにも関わらず、開発を行おうとする人の自信は過大だから、資本が過大に投入されやすいという分析でしょうか? どの分野でも自信のない方は資本を投入しないと思いますが、なぜかAdam Smith は希金属を労働価値に次いで価値を図る基準として期待しているためか、特別視しているようです。
第4編第7章も低質なのですが、当時、原住民など人と見なされていないので、Adam Smith だけの責任ではありません。しかし、植民地に高度な技術が導入されるから、その植民地の独自発展より富強になる速度が速いと断定したり、今日では疑問な点も少なくありません。例えばアメリカの支配が強かったフィリピンより、台湾やマレーシアの方が発展したのはなぜでしょうと現在、Adam Smith が生きていたのなら聞いてみたい。虐殺の事実を知りながら、そういう犠牲があっても、最終的に人口増大したことや、混血人種が原住民より優秀ということを見て、豊かにしてやったから良いではないかといった支配者(人殺し)側の論理も出てきます。アメリカの南部黒人奴隷に対する記述も見られ、奴隷とされた黒人を家畜と同一視し、家畜の管理は専制的な方がうまくいくから、イギリスより専制的なフランスの方が黒人奴隷の管理がうまくいっているとAdam Smith は推論しています。そして、Adam Smith は「すべての時代、すべての国民の歴史でその証拠があると私は信じる」そうです(第三巻167頁)。ローマ時代のカエサルは奴隷出身のはずですが、カエサルをAdam Smith はどう解釈しているのでしょうか?
植民地の貿易に関するAdam Smith の記述は現在通用するでしょうか?Adam Smith はイギリスの植民地がイギリスとフランスにタバコを輸出する際を考察して次のような結論を導いています。フランスがタバコに関税をかけなければ、イギリスのタバコ産業の価格が下がり、利潤も下がるだろうと。さて、この件に関して比較静学に基づく需要供給分析を行うと、フランスの関税がなくなることで、フランス国内の需要が増大するから、フランス国内需要に対する分だけ、新規参入して供給を増やせるなら、そのようにしてフランスの市場では、フランス政府の取り分が減った以上に、フランス消費者の余剰とイギリス生産者の余剰の合計は増えます。したがって、その場合、フランスの国内価格の低下のみ言えます。新規参入が不能で、生産量不変なら、イギリスの価格は上がらないとフランスへの輸出余力を生み出せないから、比較静学に基づく需要供給分析では、Adam Smith の結論は得られません。このような状態になるためには、タバコは農作物にも関わらず、タバコ生産が拡大すれば、規模の経済、もしくは学習効果によって、供給曲線が変化することを想定するか、関税撤廃の効果を見誤って多くの業者が新規参入しない限り、Adam Smith の結論は得られないと分かるでしょう。というわけで、この7章には現在に通用する経済分析はありません。
その他の貿易分析で当たっているのは、ほとんど観察事実に関する事柄だけです。例えば、植民地が出来て、その植民地の製品が自国の資本で生産されることによって、それまで外国と貿易していた製品が、植民地との貿易に代替するという事柄です。多くはヨーロッパの隣国より遠い場所に植民地があるため、ヨーロッパの隣国との貿易を直接外国貿易、植民地との貿易を迂回貿易とAdam Smith は命名しています。植民地貿易は自由化されるべきという結論を持っているAdam Smith は合理的理由を示すことなく、植民地という領土拡大を人間の身体の膨張に例え、自然ではないと主張しています。現代から見れば、貿易利益を認めながら、重商主義的な見方から貿易利益を主張するのではないことを、かなり珍妙な仕方で証明しようとしているということになりましょうか?
この7章第3節後半のAdam Smith の主張をそのまま拡張すると、植民地は独立して自由貿易すれば、誰もが幸せになれるということです。ただし、この内容は必ずしも7章全体と整合的な話ではありません。Adam Smith の植民地経営の利点を現代風に言うと、市場自体が増大する点、植民地貿易が外国貿易と代替してしまうときでも、植民地が存在する前の外国貿易の関税前価格に、より迂回することになる植民地との輸送価格を上乗せしても、植民地が存在する前の外国貿易の関税後価格より低く、植民地貿易の利潤が高い場合の植民地貿易ということになりそうです。一方、植民地貿易の独占の害としては、上記よりも不当に植民地貿易に移行する場合や、自国資本が健全な水準を上回って植民地に投下される場合を考えているようです。その他の部分は、Adam Smith の叙述自体が曖昧かつトートロジー的なので、現代風に通用する理解の仕方はありません。
イギリスのアメリカ統治方法として、大英帝国を維持したいなら、アメリカにイギリスの参政権を与えるほかないだろうとAdam Smith は主張しています。この分析自体は貿易に関係なく、ローマ時代の歴史から導いていますが、貿易の分析の中に叙述するので、文章家としてのセンスはないものと考えられます。東インド会社の分析では、商人が持つ根本的な独占欲を抑えるように政府が活動すべきなのに、その商人が植民地での行政司法権をもつから、必然的に軍事的専制的になり、その結果、帝国の維持を決定的に破壊すると主張しています。たしか、すぐ前で専制的の方がうまくいくみたいな議論をしてましたが、・・・。
第8章は、しつこい重商主義の批判です。この章で生産者の利益を重視して、消費者の利益を犠牲にしているとの指摘があります。第9章は農本主義の批判です。Adam Smith によれば、農本主義とは、農業従事者は土地所有者も含めて生産的階級であり、商人、工匠、製造業者は不生産的階級で、後者は前者の全面的負担で維持され、就業させられているそうです。そして、Adam Smith は最初に重商主義の反対の極端な政策として、農本主義が誤りであるといい、その原因はこの不生産的階級の定義に求めています。今日に通用しそうな話はひとつもありません。Adam Smith は農本主義を否定しつつも、もっとも説得力のある体系的な説と評価していると書いてます。
第5編第1章は、国家の経費についてです。ここで「カエサルの常備軍は、ローマ共和国を滅亡させた」と書いています。別の箇所で「イタリアの住民の大部分にローマ市民の諸特権を与えたために、ローマ共和国は完全に滅亡した。」と書いているので、Adam Smith にとってどちらが本当の滅亡要因なのか、不明になります。たぶん、最後の結論から推理すると、Adam Smith は、カエサルは帝国が運営不能になるくらいに、領土を拡大した悪人ということになるのでしょう。しかし、左記のようにAdam Smith に好意的に論理一貫性を保てるようにカエサル評価を解釈しても、イギリスがアメリカ植民地の統治に参政権を与える他ないという結論と「イタリアの住民・・・」のローマ共和国の滅亡要因との矛盾が解けなくなります。
また、この章は夜警国家論の根拠とされる箇所に相当すると思いますが、第1節は軍事費、第2節は司法に関する費用、第3節は公共事業と公共施設の経費となっており、第3節の内訳は3つとなっています。1)商業を助長するもの(道路、橋、運河、港)、1-a)商業の特定分野を助長するもの(外務省関連施設)、2)青少年の教育に必要な施設(大学)、3)あらゆる教化に必要な施設です。1-a)では、Adam Smith の独断と偏見にもとづく私見が延々と続き、辟易します。運河は官僚が利害に関心がないから運用に向かず、民間に任せた方がいいような記述が見られる一方、道路は私人には管理を任せるのは適当ではないと何の根拠も示さず、裁判官のように善悪を定めていっております。また、この1-a)項で当時の会社形態別の歴史分析が挿入されています。
Adam Smith が同意した当時の非現実的な考えとして、道路の維持管理は軍人が行えば安上がりというのも出てきます。妙な考察ですね。市場放任を唱えたと言われていますが、第3節1-a)の外務省関連施設(大使館、公使館及びその人材)の維持のために目的税的な収入は合理的と考えており、関税を認めています。この正しい関税があるという主張は珍しく首尾一貫しており、他の箇所とも整合的です。第5編第1章第2節の結論には、裁判官の俸給の規則正しい支払が、・・・(略)・・・節約にさえ依存してはならないと断定しています。特に正当化事由は書かれていません。
第四巻は第三巻第1章第3節の続きとして、大学について書かれています。徒弟制度の分析では、歩合の要素がなければ製品はほぼ低質になると断定していますが、大学教授の賃金について、歩合などの要素がなければ、教育の質はその教授の勤勉性によるのだそうで、ここにも徒弟制度下の民衆と大学教授を階級的に差別するAdam Smith の考えが見えます。また輪読などの講義を専門知識のない似非教授にも行える講義として、低く見ています。さらに、Adam Smith が考える分業のもたらす社会状況が笑えます。分業により、作業は判断も必要としない簡単なものとなり、その結果、多くの単純労働者が生まれ、必然的に貧しい状態に国民の大半が陥ると考えてます。そういうレミゼラブルな状態から抜け出すために、商業に最低限必要な読み、書き、計算という基本的な教育を提供することには意義があるんだそうな。こんなややこしい言い方をしないと教育支出したくないほど、Adam Smith は国家からの自由しか望んでいないということなのでしょう。
第四巻は他に、第2章として税金の話、第3章として公債の話が出てきます。当時、一般的な物価水準を計測していなかったので、Adam Smith が実証分析できないのは仕方がありません。しかし、ある部門で労働賃金に課税すると、製品価格に100%転嫁され(この時点で間違っています)、さらに、この製品を買わないといけない部門の消費者の名目賃金は、必要なだけ上昇し(どういうメカニズムかは言及が見られません)、その結果、あらゆる消費者の労働賃金が必要なだけ上昇してくれると、Adam Smith は妄想しています。こういう妄想的な考えが正しいとした上で、税金の善悪を論じているので、見るべき箇所はありません。他にも今日から見れば、指摘するのも馬鹿らしい記述が多数あります。例えば、Adam Smith にとって、奢侈品に対する消費税は課税の四原則のうち、第四番目の原則を4通りの仕方で反するそうです。以下に内容を列挙すると、
1.徴収費用がかかる。特に塩。 2.特定の産業を阻害する。 3.密輸業者が生まれる。密輸が自然法的に非難されるべきか疑問。 4.課税商品の取り扱い業者が官吏からさまざまな負担を強いられる。
2を除けば、あらゆる税についても言えるのではと思える内容です。そもそも、Adam Smith は司法は節約の対象にすることなく、必要といってます。それが、最小限の行政を意味する夜警国家であったとしても、警察は含まれるわけで、警察による冤罪は、社会の費用ですから、自然法を持ち出すなら、この冤罪による被害者を無くす観点から、警察不要論すら言及しなければならないはずです。また、第2章の章末には、平和から程遠い考え方ですが、費用のかかる戦争に巻き込まれたら、不適切な生活必需品への課税すら、正しいとAdam Smith は考えていることが分かります。
第3章の公債は、行き過ぎた贅沢は借金の下であり、公債も同様との観点から推論するという非常に幼稚な論考です。Adam Smith によれば、平和時に政府は節約して蓄積(貯蓄)を行い、戦争(緊急)時に備えなければならないのだそうです。この章は、推論に次ぐ推論が繰り返される場合も多ければ、「私の信じるところでは」といった文言も多いため、今日顧みるべき箇所はありません。また、使用人や奴隷を家畜と同様に見る箇所はこの章にも出てきます(345頁)。「東インド会社が獲得した領土は、グレートブリテンの王位の、すなわち国家と国民の疑いもない権利であって」(356頁)といった記述も見られます。「国富論」の結論としては、重商主義者のいうような植民地経営の利益は存在しないため、(大英)帝国の属州に対する課税を植民地が武力行使を辞さずに拒めば、植民地政策をやめるべきだということになりそうです。
Adam Smith の原典を読んで分かる事は、古典派経済学の端緒として読むに値する分析はないという事です。現代的に見るべき文明論も歴史分析も皆無ですが、Adam Smith (1723-1790)の生誕前に亡くなっているJohn Locke(1632-1704)あたりと比較しても、かなり低質な人権意識しか持っていないことが分かります。特に重商主義批判に陥って以降の文章には、Adam Smith の怨嗟に基づくと思われる記述が延々と続き、この著作を愚かしいものにしています。「道徳感情論」の方はそれほどでもないですが、「国富論」の方は、階級意識が包み隠せず露わになっているし、二重の基準を用いたり、ご都合主義的な歴史事例を引用したりと、まぁ論理展開も支離滅裂の類が枚挙に暇ないほどです。ただ、これを読むと、古典派の人々が、失業した人は自発的に失業しているのだとして、その人がどうなろうとその結果を顧みない態度を取ったことは、Adam Smith の「国富論」の考えと同一の意見と読み取れます。そうであるならば、Adam Smith とマンデヴィルの違いなど無きに等しいのですが、なぜAdam Smith が「道徳感情論」でマンデヴィルを批判したのか、疑問に思います。経済学説史家の方には、もっとAdam Smith の解説をきちんとして欲しいなぁ。
最後に、Adam Smith の「国富論」に価値があるとすれば、今日でも革新的な内容を含む大英帝国の経済分析として、あるいは政治パンフレットして、植民地廃止を説いたということでしょう。
<2009.9.16記>