[悪書]天外伺朗・茂木健一郎(2000)「意識は科学で解き明かせるか」講談社BB
[普通]玄侑宗久(2006)「現代語訳 般若心経」ちくま新書
タイトルだけ見ると共通性を見出せないかも知れませんが、二冊とも人間の認識について書かれた本です。天外・茂木の著作は、物理学者の視点から、量子力学などさまざまな現在の到達点をもとにした世界の理解について対談で、玄侑の著作は、住職が般若心経の現代訳を物理学者的な視点から説明しようとしたものです。説明内容は、般若心経自体が仏陀の考えというより、大乗仏教の考えなので、それにそった内容ですが、人間の認識について、ちょうど天外・茂木の著作の補完になるので、同時に読むのも良いかもしません。
天外・茂木の著作は、専門的な知識は披露されていますが、自分が立っている地点の常識や知識とその客観性、科学の意味など結構いい加減に論じている印象が否めません。また、ゲーテルの不完全性定理の含意など説明している割には、DNAの転移などについては何の考察もなく、バランスが悪い気がします。それに、以前に批判した「言語学者のための言語」と同じ感覚、専門家の怪物性を比較的著名な学者が持っているのはやはり悲しいものがあります。また、ダーウィンの「種の起源」を一般書の良書と茂木は捉えているようですが、これほど差別を生み出し、さまざまな学問を不毛化した書物もないというのが私の印象です。所詮、ベストセラー。査読論文がすべてではありませんと茂木が主張する根拠に使うには不適切な書物ではないかと思われ、同時に、彼の倫理観とか、常識が疑われる箇所でもあります。茂木健一郎について、wikipediaに書いた論文が載っていますが、1.短い頁数の物が多い。2.レフリー付きか明示されていないなどあって、学術的にどの程度の人物かよく分かりませんでした。テレビで見る限り、インタビューアとしての資質はゼロに等しいので期待するだけ無駄かも知れません。後半の「心」の定義もよく分かりません。途中で道徳律みたいな意味に使っています。子どもが無表情で虫を殺したら、心がないということなのか、伝わってきません。ちゃんと「生命」の定義くらいからきちんと丁寧に書かないと対談の価値があまりない気がします。
玄侑の著作の方が言葉の定義など明確ですが、ソクラテスを過小評価しすぎているのが不自然です。大乗仏教の中論を是とすると、玄侑の指摘するように「完全な肯定も完全な否定も世尊は疑い、それによって概念から自由であろうとしたのでしょう」ということになりそうですが、これではソクラテスの立場と大差がないと思えます。玄侑は、著書の冒頭で、ソクラテスより仏陀の方が優れていると取れる叙述をしており、それは別の箇所でも繰り返し述べられているので、同等の点についてもコメントするのが親切だと感じます。私は、ソクラテスと仏陀の違いは次のようなものだと想像しています。ソクラテスは理想の追求にあたり、自分が神になったとか、近づいたなどと考えるのは傲慢で、絶えず自己批判を通じて、「汝自身を知」るように高めていかないと理想の地点には立てないという方法論をもって、人生に望んだのではないでしょうか。プラトンは理想があると考えていますから、大乗仏教が考えるような仏陀と似ています。仏陀は理想の状態に到達したとしたらどうなるかを考える事で、心の平安を得てよき人生を送れると考えたということではないかと思います。ただし、プラトンのように知によって到達するというアプローチは採っていません。そして、知識に対するアプローチとして、仏陀が耐えざる疑念を考えた点はソクラテス的で、理想状態「悟りの境地」に到達したと考えた点はプラトン的と言えるのだと思います。
玄侑の般若心経の本には、仁和寺に伝えられた空海筆といわれる般若心経の墨蹟や、良寛のそれ、全文、その読み方、絵心経(たぶん盛岡系)など載っていて面白いです。読み方には、抑揚や休止も書けばよいのに、表示がないのはちょっと残念でした。最近の本願寺出版社が発行している浄土真宗本願寺派の日常勤行聖典には、抑揚、音程、息継ぎなど書かれています。東京のどこかの寺を参拝した折に、志と交換方式で配布されていたので、志を入れて頂戴してきました。群馬県で国重要文化財の建造物が数多くある榛名神社は深山幽谷で素晴らしいところですが、この榛名神社の入口付近に榛名町歴史民俗資料館があり、そこに絵心経が飾られています(同資料館のweb頁に情報の記載はありません)。A3の複写物(たぶん盛岡系)を50円で販売していたのを購入したばかりだったので、印象に残りました。絵心経は東北で発達したものらしいですが、ユーモアがあります。
<2009.10.08記>