書評


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[普通] 米本昌平(2006)「バイオポリティクス」中公新書

 インフォームド・コンセプトなどがアメリカで生まれた歴史的な経緯などあまり知られていないことが丁寧に書かれている。そうした点は高く評価できる。また、既存の遺伝病に対して優生学のアレルギー反応で対策が遅れ、特に地方の疾病者(具体例は九州のアミロンドポリニューロパチーの患者・遺族)への国の補償や対応が不十分である点について、批判しているのも、タブーに挑戦しているという意味でも、実質的な救済をうながす意味でも評価に値する。

 しかし、遺伝病に関する著者の考えは不十分な点も見られる。現在、移植などを伴う治療措置が必要な場合、治療が難しい。これは現代の医療技術の問題である。そうした現在治療が難しい遺伝病の遺伝子配列を調べる事が妊娠中に可能で、出産前に確率的に分かるとしても、これを堕胎することが生命倫理的に許されるべきかは議論を要する。まず判定の精度の問題もあるし、どのくらいの発症率で、どの程度、重症の病気なら、許されるのか、明確な客観的基準など作りようがないからである。そもそも、簡単に治癒できるのなら、遺伝病であろうと差別にはつながらないし、社会問題にもならないはずという視点が著者には十分検討されていないようである。もし、その遺伝病の治癒方法が劇的に短時間で進歩するなら、現代の医療技術の水準を前提に、堕胎することが生命倫理的に許されるべきかはよく分からない。本質的なことは、医療技術を高め、移植などに寄らない方法で病気を克服することで、そちらが主要な解決法だが、医療技術の進歩を短期的に見込めないという条件の下で、回避措置として、特定の条件を下に、例外的に遺伝子検査を考慮に入れるというのならまだ話は分かるが、そういう木目の細かい議論はしていない点は良くない。

 また、特定の遺伝子配列が病気の要因と分かったとしても、それが毒薬のような悪と断定できるのかも科学的検証が不可欠である。単に現代医学の知識不足によって、メカニズム解明前に悪として、対処するのがよいと思えない。フロンのような人間に無害で化学的に安定で、当初はすばらしい「善」とされた物質も、オゾン層の破壊が知られるようになると正反対に公害物質になるなどの事例は、科学の世界でよくあることだ。その遺伝子配列が別の病気の克服につながっていないか検討しなければならないだろう。濃度が薄ければ安全という基準も、食物連鎖による蓄積で、公害病になった歴史もある。発症確率が低かったり、遺伝子以外の別要因による発症がある場合は、遺伝病とする事自体、間違っている可能性もある。

 遺伝病という名称自体に違和感があるのは、もし種の保存を人類があらかじめプログラムされているのなら、劣性遺伝子という考え自体、価値論として認識が間違っているために生まれた評価に過ぎないのではないかという疑念があるからだ。例えば、種の保存という考えが正しいのなら、特定のAという病気に弱い遺伝子セットを持つ人類は、同時にBという病気に非常に強くなければ生みだす意味がないだろう。また、環境の変化に敏感な人間を生み出す事で、警告を促す意味でそうなっているのかもしれない。それに、DNAの転移などトウモロコシですら頻繁におこるというのに、ヒトではおきない保障もないだろうから、問題となる遺伝子配列も、一定の条件で転移が起こるように(つまり発症しないように)別のプログラムが遺伝子に書かれている可能性もないとは言い切れないのではないだろうか。こうした既存の科学への謙虚さをかなぐり捨てている著者のような見地から、遺伝病と向き合うと被害が大きくなる気がしてならない。

<2009.10.10記>

Kazari