[普通] P.Van Paris[著]後藤玲子,齊藤拓[訳](2010)「ベーシック・インカムの哲学−すべての人にリアルな自由を−」勁草書房
理論家のための遊戯に終始した内容が多く、期待はずれな感じであった。この本を読むと、厚生経済学やリバタリアンの限界を痛切に感じる。悪質な意図は感じない叙述が大半ながら、この著者の思い込みにはがっかりする記述も散見される。
制度をデザインする場合や政策提言の際には、まず社会の事実認識が重要なのであり、具体的に社会現象を捉えなければならない。本書の前半には、理論家の反論という仮想的な事例で具体的に考察されるケースもあるのだが、本来は、具体的に現実に観察される事象に対応可能な基準とかを考える方が建設的である。本書でいえば、ベーシック・インカムが良い点は、原則すべての人に給付するために、官僚が所得などの調査で嫌がらせなど行えないという指摘が、こうした事柄に該当する。残念ながらベーシック・インカムに直裁的に関連する事項で該当するのは、このひとつだけである。
本書でたびたび扱われる無意味な理論モデルのひとつとして、人々はどんな情報も正直に申告するという仮定がある。現実の社会では、ほとんど観察できない。もちろん、オークションの理論モデルで、罰則や落札条件で正直に申告する戦略がその申告者の利得を最大にするような理論モデルは作れるが、現実の制度になっている事例はひとつもない。なぜなら、実行不可能だからだと思う。こうした理論モデルを下にして、自説や他説の優劣をうんぬんされても仮想空間上の話であり、現実に役立つ話にならない。
<2010.7.6記>
著者の思い込みで一番手痛いのは、自身の掲げている「非優越的多様性」の基準と厚生経済学の効用基準などの整合性があると暗黙に仮定した上での推論が多い点である。真面目に検討すれば明白なのだが、いわゆる価値の多様性基準を是とすると、経済学の基準との相性はひどく悪いため、たいていの場合、分析不能に陥る。例外はすべての人の基数的効用を計測可能と仮定することであるが、著者がこの仮定に基づく基準を廃しているので、理屈の上では、本書で提示している他の仮定を用いてもる社会間の比較が不可能という結論しか得られなくなるのだが、その点を明示していない。
しかし、いろんな理論を仮定を提示せずに推論するなど姑息な手段で、「多様性」の基準の優秀さを説得しようと悪あがきをしている。特定の嗜好をもつ価値判断を伴う規範論をさけるためと思われるが、そもそも、こうした規範抜きに社会間の比較ができると考えている時点で、認識論的に間違っているので、そうした推論から正しい基準を示せる可能性はない。
もしこうした事柄に気付いていながら、この書物を書いているなら悪書になるくらいのミスである。
細かいミスも多い。賃金獲得能力と賃金が正常に機能するためには、労働市場の完全性が必要になるが、実際の労働市場は完全でない。音楽家の才能と音楽で賃金を獲得する能力を同一視している記述が見られる。「口笛に対する嗜好の実現が、オーボエ奏者の嗜好の実現より簡単である」という著者の偏見も見られる。こんなものは嗜好の中身で如何様にも変わる。個人の得た所得に関わる機会費用の問題を扱うなら、余暇をどう扱うかが大切になってくる。本書では、労働を定義することでこの問題を扱っているが、本書の指摘の通り、労働の定義は難しい(158頁)。余暇の価値を測るための機会費用的な意味での労働ならびに労賃であるならば、その測定は不可能といっても過言ではない。また、労働市場は経済学の理論で言う完全市場とはまったく異なる不完全市場であるが、この問題点について考察もないに等しい。労働している時の時間あたり賃金が余暇の機会費用と考えてよい合理的理由はこの世に存在しない。また、この余暇を機会費用で評価することは、そもそも価値の多様性を認める基準とは矛盾する。つまり労働市場の労賃に基づくという特定の価値基準による余暇の価値評価に過ぎない。非現実的な理論モデルの中では一致する場合を扱えるが、政策論議に使えるような理論モデルではない。
本書では比較的複雑な労働市場の分析例:効率賃金モデルを取り上げることで煙に巻こうとしている感があるが、このモデルも現実の説明力はほとんどない。あくまで理論分析しかできないようなモデルである。
本書147頁には、脈絡も乏しく、ほぼ説明ゼロで、100%の資産課税も是と書いてあるが、こうした記述もいただけない。この程度の記述なら、ケインズの一般理論を読む方がはるかに有益である。
労働市場に関する分析では、本書に限らず、誤った考えが流布しがちである。例えば、65歳以上の無料ボランティア・ガイドの出現による市場効果を考えよう。中途半端なミクロ経済学の知識しかもたない経済学者や分析者は、この事例に対して1つの市場の部分均衡分析を用いて、社会余剰がまして好ましいなどと言いかねないのである。部分均衡分析の市場では参入する企業や個人事業主は等質と仮定している。したがって、一般の賃金を得ている労働者とボランティア・ガイドは同質な労働者ではないので、ひとつの市場の部分均衡分析で扱うことは理論的に間違っている。ボランティア・ガイドの出現は賃金を得たいけれど、やむを得ず参入しているのではない。そもそも合理的経済人なら、賃金ゼロの下で働くことはあり得ない。つまり、部分均衡のガイド市場にボランティア・ガイドが出現すれば、既存の生活可能な労働者を駆逐する悪貨の役割しか果たさないのである。
したがって、もし有料ガイドの仕事を少しでも奪う形で、無料ボランティア・ガイドが出現すれば、ミクロ的には有料ガイドの減少した賃金分だけ、無料ボランティア・ガイドが便益を受けていることになる。しかし、そのようなことが起これば、有料の市場規模が小さくなるため、少なくともGDPが減少することにしかならない。あくまで、有料ガイドならガイドを雇わない人が、無料ガイドに依頼する場合のみ、経済活動に悪影響がなく、GDPに計上されることもないが、理屈の上で、無料ガイドや無料ガイドを聞いた人の満足度が増すという効果に留まる。こうした行為を市場評価する意味は極めて乏しい。
この事例で無料ボランティア・ガイドの出現によって、生活を営めた有料ガイドの人が貧困に陥った場合を考えてみよう。このような事例は本書の搾取の基準とも合わないし、非優越的多様性とも相性が悪いことが分かるだろう。非優越的多様性を認めるというなら、こういうボランティア活動も認めなければならないが、経済の上では損失をもたらす可能性も多いのである。
この書物を読んでいて、著者はユークリッド幾何学(資本主義)と非ユークリッド幾何学(社会主義)をシステムとして比較する基準として、非優越的多様性で何か言えるとお考えのようだが、私にはそうは思えない。非優越的多様性から認められるべき行動と、その結果、社会が不幸になる上記のような反例はたくさん作れる。だから、どの価値観も認めるみたいな多様性基準は社会的に規範的に望ましくても、まったく社会的に役に立たないことも多い。そのため、他の人の利益を損なわないとか満足度を下げないみたいな規範が必要になってくる。
上記のような実際に社会で観察できる反例をいくつか、飛まつ感染する伝染病の感染者が自由に街中を散歩する権利など。つまり思想上の自由権は無制限でよくても、行動に移す段階では、他人の利害を著しく侵害しないことが必要になる。多様性基準を採用した上で、完全に他者の利害を侵害しない行為は理論的に不可能(他者の価値観次第で呼吸もできない)であるため、どの社会でも、この著しくの程度を規定する必要性が生じてしまう。要するに、リバタリアンの求める自由権に関する、行使の段階を真面目に考えれば、非優越的多様性の基準は理念が立派であっても、現状肯定以外の含意はあまりないのである。
<2010.8.18追記>