[普通]Ludwig Josef Johann Wittgenstein[著]山元一郎[訳](2001)「論理哲学論」中公クラシックス
[良書]Henri Bergson[著]中村文郎[訳](2001)「時間と自由」岩波文庫
ウィトゲンシュタイン
論理哲学論に関しては駄作なのではないかと感じた。そもそも誰でもその人の定義した世界の記述は論理的と考えると、人間の認識の誤りは起こりえないことになってしまう。定義で、認識の誤りがないとした上で、記述論理の完全性を言われても何だかなぁである。数学への比喩が多いが、正しく数学を理解していたとは思えない。点や線は可視に描くが、教育の便宜上していることであり、定義に忠実であれば、描写不能であるものを世界の記述の比喩に使うのはいかにも下手糞な印象がある。また「論理は先験的に決まっている」などの定義も見られるので、決定論的世界観になっている。そのため、世界の多様性をもたらすために、「表現可能性」みたいな概念で処理しようとしていて安易な感じが否めない。
このシステム下では分析されていないが、野矢秀樹(読書人の雑誌 jan 2009 「翻訳できないものは理解できないか」)の書評など見ると、一個人が学習などによって言語空間を広げれば、それにともないウィトゲンシュタインの定義した世界も増幅する。おそらく健忘症が起これば、世界も縮小する。してみると、なんともお粗末な形式論理という印象が否めない。いくつかウィトゲンシュタインの評価について読んでみると、認識の誤りがあっても、独我論の立場から「本人の輪郭がない=世界=生」みたいに捉えるらしい。だとすると、単に認識の誤りは本人の言語空間が歪んでいるためで、ある意味、論理性の意味が通常と違うのではないかと思う。どの道、面白い世界観とは思えないし、こうした視点から解決する問題があるとも思えない。
ベルクソン
認識論として非常に優れた書物である。今日でも通用する記述が多く、読み応えがあった。例えば、以下のような内容の文章である。
1. 人間は何でも(時間ですら)空間に置換して物事を把握する傾向を持つ。
2. メロディを把握する時は、ある固まりで認識しているが、考察する際は、一音毎分解して把握しているような感覚をもつ。
3. 痛点は一点であっても、痛みが継続する場合、痛みが拡がるという感覚をもつ。
「人々が到達する物理的決定論は自然科学に訴えて、自分自身を検証し、自分固有の輪郭を確定しようとする心理的決定論にほかならない」(179-80頁)
4. 189-90頁あたりの記述によれば、観念連合説というのは、衝動買いを後付けで正当化する時の経済学的理屈に似ている。人には精神の安寧のために、自分の行為の正当化事由を絶えず欲する傾向がある。
「思考は言語と通訳不能なままにとどまるのだ。」197頁
「要するに、私たちの行為が、・・・私たちは自由である」206頁
「スチュアート・ミルはこう述べている。『自由意志の意識をもつこと、選択してしまう前に、別様に選択することもできたという意識をもつことを意味する』実、自由の擁護者たちはまさにそのように自由を解している。」208頁
「意識が示すのは力という抽象的概念が未決定の努力という観念だという事である」256頁
「ばらの匂いを嗅ぐと、たちまち幼い頃の漠然とした思い出が私の記憶によみがえる」「これらの思い出は、ばらの香りによって喚起されたのではない。私は匂いそのものの中に、それらの匂いを嗅ぐのであって、私にとっては匂いがいま述べたことのすべてなのだ。他の人たちはその匂いを異なった風に感じるだろう」193頁
特に最後の引用は、何でも因果関係として捉えようとしたがる人間の傾向を云々した個所であり、最近の言論に対する痛烈な批判ともなっている。
<2010.8.18記>
補遺:因果関係として認識する傾向
経済学や科学に対する本質的な批判であり、耳が痛い。ベルクソンに関しては、科学者を志す人はみな読んだ方がいい本であることが分かった。科学の分野で因果的な思考を極力排斥するのは難しいが、他のベルクソンの本を読みながら対策を考えてみたい。現段階では、科学の本質は客観性にあり、その客観性の担保に使える手段が、実験、審査、追試可能性など非常に限定されていることと、そもそも認識的な誤りの是正が難しいことが深く関連していると考えている。科学者たちの偽の研究報告は後を絶たないが、講談社BBの「背信の科学者たち」の訳者あとがきによれば、こうした詐欺行為をミスコンダクトと呼び、主として3種類に大別されるそうだ。「1990年代からはじめから、アメリカ科学アカデミーなどで活発に議論され」、「捏造(Fabrication)、改ざん(偽造、Falsification)、盗用(剽窃、Plagiarism)の三つ(FFP)とすることは共通の合意事項になった」(同書、316頁)と解説されている。この書物は生物学や生化学のFFPに関して詳しい。これらを読んでみると、先に悪書と指摘した「本格研究」の低質さがよく分かる。科学に対する理解が浅いだけでなく、対策の考え方自体が間違っていると分かる。
最近、因果関係を悪質に想定し、情報操作をしたNHKの番組を見たので記録しておく。自殺に関する特集番組で、その中で、NPOの自殺に関する報告書を紹介し、その中で自殺の主要因を「うつ病」であると伝えていた。時間の流れの中で、自殺の可能性がある人物を精神科医が診断すれば、間違いなく、うつ状態にあると診断されるであろう。さて、これは因果性を意味するだろうか。時間の進行からみれば、診断は先にあり、その後、自殺の事例があるため、この種の認識の錯誤は見逃されやすい。しかし、冷静に考えれば、自殺を考える人を診断すれば、うつと診断されることは疑いの余地がない。まともな因果関係で言えば、自殺の可能性が原因で、診断結果がうつ病ということになる(注:Bergsonの立場では、将来の行動の可能性は認識の錯誤という考えなので、Bergson流に言えばこれも典型的な認識錯誤の因果性にすぎない)。
ここで簡単な思考実験をしてみよう。水泳競技の高飛び込みの選手が試合直前に、自分が選手である事や今後の予定をすべて秘匿した上で、精神科医にかかったとしよう。精神科医は、この選手を例えば、極度の緊張、興奮状態にあると診断したとしよう。そうでなくても、その時間経過から、先に診断された患者の状態が原因で、試合が結果と捉えることができないことは明瞭であろう。自殺の場合も同様である。このように冷静に考えれば、うつ病になる原因が、自殺の原因であり、うつが自殺の原因となることは論理的にほとんどあり得ない。うつ病が自殺の原因と言えるのは、うつ病になった原因がすべて取り除かれても、うつ状態から抜け出せずに自殺にいたる場合に限定されることが分かるだろう。
人口が大して変化しない中で、それまで2万人台だった自殺者が13年間連続して3万人台に高どまりしている。NHKの報道姿勢を見ると、政府の自殺対策の無策振りを回避するために、自殺の責任を個人に転嫁しようとしていたのであろう。民放や国会審議、石原都知事や自民党議員も、就業募集があるのに働かない我侭な失業者に責任転嫁を試みることがしばしばある。雇用を促されて断るケースがあるのは事実だろう。病気や怪我、そもそも借金返済が見込めない低賃金の職に強制的に取り合えず就業すべきだという彼らの主張は荒唐無稽の感がある。
このようなNHKの政権擁護的な情報操作報道に接すると、政権放送や国会審議のみのNHK放送を税金でまかない、NHKの他の番組は廃止、もしくは民間放送にした方がいいのではないかと思ってしまう。
<2010.8.25追記 9.18補記>