書評


書籍選択に戻る

[悪書]福田和也(2003)「悪の読書術」講談社現代新書 1684

 巷の評価が案外良いのに呆れた本。この本は他人に自分の読書がどう思われるか意識して本を読もうという本末転倒な事を言いのけた結滞な本である。読書の目的は他人の自己に対する評価のために行うべき性質のものではない。あくまで自分の目的にあった好きな本を読めばいい。読んでいる本を素直に表明するかどうかは、社交術の問題であり、読書の方法の問題ではない。最近、論理性がここまで崩壊していても気付かれずに、面白いと片付けるのは変である。この本の視点は面白いのではなくて、単に勘違いしているだけである。こういう非論理性をツマミに酒の席の話題にするのならともかく、こういう非論理性を面白いと感じる感性は、単に頭の悪さを自己宣伝するようなもので、やはり奇妙な現象と見なくてはならない。

 この著者の思い込みと自意識過剰には辟易する。絶賛している村上春樹は、現在でも評価の高い作家であるが、私は随筆以外は興味をもてない。村上春樹の小説に登場する人物があまりに軽薄であるためと思う。このような考え無しの軽薄人間が周りにいないので、小説全体に現実感がなく読み進めないことが多い。ただ、男の能無し振りはある意味、女性の読者には受けるかもしれないと思っている。他の作家で塩野七生を、現在の問題を長期の歴史的な視点から自分の言葉で意見を言える唯一の作家と絶賛しているが、この程度のことなら、多くの作家ができている。著者は他に司馬遼太郎しか挙げていないが、石母田正や角田房子も同様である。著者の自己紹介欄によれば、著者は月100冊読書されているそうである。これほど読んでも他人の作家の記憶はほとんど残らないらしい。文学部教授はやたらと読書量を誇る阿呆が多いが、多くは濫読というより乱読で、この人の他作家の人物評を見ると、読んですらいないのではないかと思われる。

 そもそも表題どおり、何を読んでいると思われたいかということなら、実際に読まずに耳学問による社交術のみでうまく世渡りする人が、イギリス小説に良く出てくる。こういう対応で十分なはずだ。そういう話術を文学者らしく、小説を題材に現実の社会で実現する話術を紹介するものなら、社交術として面白い本になったかもしれない。この本は支離滅裂な内容が他にも散見され、非常につまらない本である。それから現在売れっ子の作家=歴史に残る作家ではない点は、読書の目安として考えた方がいい。こういうのを割愛したいから自分の紹介本を社交のために限定して責任回避したものと思われる。実に学者らしい姑息な手段である。また他人の読書術の本は入門書で、自分のは応用編だという趣旨のおこがましい自己宣伝の箇所がある。はっきり言って何の説得力もないただの紙面つぶし以上の意味がないので、こういう駄文に一節割くだけでも悪書と判断されやすくなるだろう。

 経済学者の大家をからかった云々は、あの書き方だとほぼ「超整理・・・」の著者に限定される。普通に多くの経済学者から、財政学者とみなされず、「超整理」学者と揶揄されるほどの人物なので、福田の周りにはまともな友人がいないものと見える。「アルジャーノンに花束を」の何が問題なのか真面目に書かないのも、本末転倒である。この書物の趣旨にもっとも合う箇所かもしれないのに、理由は一切触れていない。これも単に紙面つぶしかと思う。この本の書評も疑問な内容が書かれていた。別にこの本は知的障害者に対する愛情によって読まれているのではない。そういう変てこな著者の穿った読み方がまともな読書を阻害しているのかもしれない。

 慶応の教授には、吉野直行のような紳士から、この著者のような出鱈目で品行お下劣な人間まで実に多彩だが、この著者の本を読む価値はなさそうだ。

[悪書]三木光範(2002)「理系発想の文章術」講談社現代新書 1616

 支離滅裂な文章が多くて呆れた。この程度の文章しか同志社大学教授は書けないらしい。それから表題と内容が異なる。ほとんどが論文の書き方を云々していてビジネス文書すらほとんど触れられていない。途中、ビジネス関連の手紙文が例示されているのが例外的であるが、この稚拙な手紙が著者によれば良い文例だそうだ。不要な文も多いし、幼稚な文章である。この程度なら、大学生で書けるようになる水準の文章だから、甘い評価にも敷居を低くする効果はあるかもしれない。論文の書き方には典型的な型があるので、専門知識と論理的な文章が書ける人なら、型に従うだけである水準の論文は書けるようになる。

 まず、問題があるのは、著者の脳みそが腐っているので、理系に哲学が含まれていることを最初に断っていないのが分かりにくい。明示していないがそう考えないと、論理性=理系みたいな箇所が多く辻褄が合わなくなる。論理学は哲学の一分野で、文系の分野と知らないのであろう。専門用語を正しく定義して相手に理解されるように工夫がぜんぜんされておらず、著者の勧める書き方を、著者自身が守れていない。

 著者によれば、自動車にロッケトエンジン積んで空を飛べたらという空想が、理系の発想らしい。SF小説に出てくるような非論理的な空想癖は、理系に分類されるべきものなのだろうか。SF小説に科学の要素があるから、理系と捉える認識は変である。

 またビジネスの現場に出たことのない学者らしく、ビジネスの現場では正解を教えない強化学習がほとんどと出鱈目を書いている。ビジネスの現場は非常に忙しいので、大抵の場合、まず正解を教えてしまう。学生のように考えさせて解いている時間はないのである。一度教えた内容に関しては強化学習にする場合も稀にあるが、それも時間にゆとりがある場合であり、安全に関わる場合や、その仕事の遅れが顧客サービスに関わる場合は常に正解優先になる。こういう現状認識ができないで、推論を根拠もなく自信を持って書く書き方は、論理性の欠如がはなはだしい。説得力がない典型的な悪文の例になっている。

 書かれている内容がそれ以前の論文の書き方に書かれている内容だし、それを脳科学などに結び付けて小難しく書いて、評価だけ甘くするのは、まともに教える能力のない人物の取るべき姑息な手段であり、感心しない。

<2010.8.27記>

Kazari