[悪書] 中島隆信(2005)「お寺の経済学」東洋経済
はじめに結論ありきの本で低質である。値段の価値もない。コラムなどいい加減な内容のものが多い。「寺の経済学」というよりはお寺の随筆を書く時に経済用語を無理やり使ってみました程度の内容。使い方も正しくない場合が多い。
まず、寺社制度の変遷の歴史の叙述が浅い。国分寺の運営形態など少し調べればわかる内容のはずだが、参考文献にすらあがっておらず、かなり手抜きの調査で書いた書物と分かる。江戸期以降に大幅な改革があり、役人としての収入安定化がなされ、廃仏毀釈では多くの文化財が失われたことなど触れられているが、この程度なら山川出版などの日本史資料(高校水準)で補足できる内容なので原稿料を稼ぐための紙面つぶしのような印象しか受けない。
特にその時代の寺の経営内容の実態には触れておかないと本書の表題から期待される情報を得られない。著者は商学部の出身で、仏教にはずぶの素人であるらしく、その割に寺社運営に関わる歴史も真面目に調査せずに書いているのは、とても怠慢だと思う。参考文献にかなり低質な文献を入れるのもどうかと思う。調査を節約しすぎである。最初から新書レベルの本ならまだしも単行本にする水準の調査はなきに等しい。
経営統治について議論する際には、どのような統治の問題が起きたのか、具体的な事例を多く知っている必要があるのだが、ここも調査不足がはげしくミクロ経済理論を誤用して推論で判断しすぎている。著者はそうした予想から「こういう事例はない」といった書き方をしている箇所があるが、個別事例で反例をあげることのできるものが多い。
今後の経営についても的外れ。出版前の2004年時点でもペット葬はすでに行われているし、2010年時点で調査してみても80年前から取り組んでいると宣伝している寺もある。宗派を問わない墓地運営も当たり前になっているし、固定した墓石のない永代供養などのサービス競争も起こっている。そもそも現在の家族や就業形態だと、子孫にわたるまで同じ土地で暮らすことが難しい地域では、檀家制度は成立しにくい。例えば、出生率が高く大家族を形成しやすい沖縄と他の地域ではかなり異なる対応となるだろう。沖縄では若い時に出稼ぎしても最終的に沖縄に戻る人が多いし、墓も大きな区画の先祖代代の墓をもつ家系が多いため、こういった地域と寺の経営方針は異なるのが自然である。参考文献に沖縄関係のものがあるが、8章でしか触れていない。
本当に複数の書物で仏教の歴史を調査しなかったんだなぁ。私度僧というのは行基に限らない。遣隋使や遣唐使に紛れ込んで中国で修行するためには、得度無しでは中国の寺で修行できる見込みがない。そのため、空海や最澄も私度僧として唐に渡って修行している。この程度の内容はみな高校水準の日本史の知識である。空海は単に密教をもたらしただけではない。当時の科学や医療にも詳しかったと伝えられている。こちらが貴族たちの信頼を得た大きな要因である。実質的な薬草による治療と神秘的な儀式による呪詛などへの打破の期待があれば、当時の貴族がどんなに頼みにしたか分からない。
現在の僧侶は官僚ではない。官僚組織と同等の仕組みをもつ仏教組織の一員である。こういう言い方なら、民間企業も同じで、上意下達の部分は軍隊組織に例えることもできる。全般的に仏教に対する敵対的な叙述が多いが、こういう書き方をするのは言葉の使い方を知らないゆえか。
「海外出張などの遠出を可能にしているケースもあるそうだ」って誰に聞いたんだよといいたくなるような底の浅い文章である。1980年から曹洞宗東南アジア難民救済会議が発足しているし、曹洞宗では随分前から海外で僧侶が活動している。現在は社団法人シャンティとして活動を継続している。調べれば簡単に分かることだ。後に社会奉仕活動のところで、曹洞宗ボランティア会(SVA)にだけ言及しているが、SVAは1999年に社団法人化しているので、かなり古い情報の下に書かれた内容を、2005年に単行本として出版したことになる。
それに高野山に行けば、修行僧や学僧が年中無休でないことも簡単に分かるだろう。個人営業の住職が温泉で寛いでいても、連絡をして、本日は法事が立てこんでいて、私自身は葬儀が取り仕切れないが別の僧を派遣するのではだめかといって、同じ宗派もしくは主張専門の坊さんに頼めば、休みなどいくらでも取れる。
ヒアリングした坊主が年中無休と答えたとしても、本当である保証などない。耳学問に頼るとこういう愚かな叙述をすることになる。あとで公共性のゆえに免税特権があるのだから、24時間対応しろという主張するために情報を捻じ曲げたのかもしれない。いずれにしても低質の謗りを免れない。
鎌倉仏教の興りに関しては無学のあてずっぽうといった感がある。そもそも比叡山で教える仏教の目的が護国にあることをお忘れのようだ。その奈良平安期の護国思想に具体的な貧民救済思想がないからこそ、鎌倉仏教の登場となる。あまりにも日本史を知らな過ぎる。
江戸時代、徳川が寺社の掌握に乗り出すのは当たり前である。鎌倉から戦国時代まで、寺社は僧兵や武士の隠蓑になってきたし、戦国時代に一向(浄土真)宗本願寺派は鉄砲部隊をもっていた。これを現在の宗教法人のように取り扱える道理はない。幕府組織に再編するというのは大変有効だったろうと想像できる。
本山は末寺に高い上納金を搾り取ったとあるが、「宗門人別改帳」だけでその不満を抑えたと著者はいう。確かに寺請証文を起こさずに移動すれば、非人扱いになったろうが、戸籍から抜けると税を払う必要性もなくなるから、檀家が「宗門人別改帳」から抜けることを嫌うから上納金を取れたという解釈は変である。単純に上納金を払わないと、幕府からの寺社奉行がらみの手当てがなくなる。また寺社奉行の管轄に入らない寺社は違法になるから、そもそも現在の地方政府と同じ扱いと考えればいいだろう。著者の解釈はかなり変である。
実際には、徳川の治世の下になっても本末論争は起き、裁判の結果、別の末寺と主張しても裁判に負けやすかったように思う。必要に食い下がっても成果に乏しい様子が埼玉県鷲宮町のサイトなどに書かれている。
110頁の「明治になり、檀家制度や本末制度は制度としては消滅したが、」というのは日本語として正しくない。「明治になり、檀家制度や本末制度は法律で定めた制度としては消滅したが」もしくは「明治になり、檀家制度や本末制度は法律としては消滅したが」の誤りであろう。制度には法規の意味もあるが、辞書で調べれば分かる通り、「社会的に定められている、しくみやきまり。」(広辞苑)という意味もあり、例としては世襲制度などがある。したがって、上記のように正確に書かないと日本語として意味をなさない。別の箇所で広辞苑での引用で寺の無税を揶揄した箇所があるので、著者にその資格がないことをここで指摘しておいた。そもそも語義から租税論議されても疑問である。
経済学的に現在の宗派の仕組みを解説するなら、著者が僧侶からヒアリングした通り、コンビニエンス・ストアなどのフランチャイズ契約に例えるのがもっとも普通である。しかし、著者はコンビニのようなPOSを用いた最新経営の上意下達の伝播機能が、フランチャイズ契約の唯一の意義という勝手な定義をした上で、しかもこの一点のみでフランチャイズ契約に例えるのは適切でないと断定している。この理屈付けの仕方から見ても、著者の官僚組織説は偏見にすぎず、何の根拠もないことが読み取れる。
実際に現在の経営の事例として、ペット葬やマンション経営などについて第6章で触れている。もし、こうした経営によって末寺が成功すれば、系列間の寺同士なら情報交換が容易である。このような経営情報が上意下達方式で伝わらなくても、普通の経済学者なら、フランチャイズの利益と考えるもんだ。
まず、コンビニはフランチャイズ契約の際に、親会社にライセンス料を支払う。それと引き換えに、系列店を名乗ることを許され、同じ経営様式を強要される代わりに、POSシステムなどの経営システムを導入できる。しかし、コンビニ会社間の戦略の違いにより、経営様式の強要の度合いはかなり異なる。セブンイレブンは弁当の買取の強要、店長が値引きを行う事の禁止など課していたため、公正競争に違反していると店長に訴えられる羽目に陥った。別のコンビニ系列はもう少し店長の権限が強い。また景気が良かった頃は、収益が安定した店舗や、顧客が増えた店で、フランチャイズ契約の離脱は普通に観察された。
さて寺に置き換えてみよう。末寺は宗派に入る際に、本山に負担金を支払う約束をする。それと引き換えに宗派を名乗ることが許される。同じ宗派の教えを守る事を強要される代わりに、本人が病気などの際に代理を立てるなどの便宜を図ってもらえる。これは著者が言う檀家制度が強いが、寺に住職一人などの場合、檀家にとって一種の保険機構の役割を果たしている。どんなに長期契約だ、公共性があると主張しても、住職が重病の際に、病院から引きずりだしてでもお経を唱えろと言う権利が、人間に(檀家であっても)あるはずがない。これは宗教以前の人権の問題でもある。もちろん、わが国の憲法でも基本的人権は保障されていて、政教分離といっても宗教がこれを勝手に破ることは許されていない。
寺は公共性があるから、檀家や信徒が寺の24時間対応を求めようという著者の主張は悪質な嫌がらせの類である。公共性は一般の企業や法人にもあるのだから、こうした極端な主張をする意味がわからない。宗教法人だけを逆差別して、雇用条件を労働基準法に違反させて働かせるべきだという極端な主張は、人権を無視しており言語道断である。経済学者全般の能力が疑われるので、こうした書物を出版してほしくない。また、こうしたふざけた内容を変更させない東洋経済の編集者も相当能力が低い。住職一人の寺に24時間体制を引くべきだという強要を行ってよい理由もない。仮にそうした法令を作れば、政教分離の原則に反するから憲法違反になってしまう。
このような主張をするからには、著者は法治国家の民としての義務を果たす意思がないと判断してよいだろう。是非国籍を変えていただきたい。
それから観光寺は国宝の維持管理を任されているので、24時間寺を開放する義務はない。放火対策などが難しくなりすぎる。禅宗では修行に重きを置いて勝手な観光客の闖入は修行の邪魔になるという理由で入場を断っているところがあるが、そうした寺院が問題となったこともない。信徒や檀家が座禅を組んでいる時に、観光客がぎゃーぎゃー騒いで良い理由など、どこにも存在しない。もしこうした招かれざる客を断ることが許されないなら、私企業の飲食店が禁煙措置を取ることも法がないとできないし、店内で騒ぐなどの行為の注意すらできなくなる。論理的な人には自明な内容も著者には分からないらしい。
第5章の今どきのお寺は本末転倒という内容が抱腹絶倒である。まぁ普通の宗教では、布教活動と社会奉仕活動は一体化しているので、分けて書く時点で論理的でない。シンボルも笑える。普通の宗派の最大のシンボルは本山の建物ではなく開祖だ。そりゃぁ宗派の一番偉い人になることに憧れるというのもあろうが、それはその時代もっとも開祖に近い存在といえるからである。また、著者にとってのシンボル(本山およびその住職である管長)になる適正として、年齢、修行経験、血筋と書かれている。多くの宗派で血筋は関係ない。神社と勘違いしているのかね。
123頁の「公共サービスの難しさ」では、寺を官僚組織に例えたから無理やり書いた章である。別に本山から末寺へのサービスは公共のものに限らない。例えば経営ノウハウは公共サービスと普通言わない。
単立寺院の問題は、すでに触れたが、この著者が言うような地元の檀信徒をしっかり抱えたゆえの単立化ならほとんど脅威にならない。実際の単立化の事例を調査しないから、こういう経済学的にも正しくない叙述をする。いいかげんにしてほしい。単立化した寺院の例は、鎌倉の長谷寺などである。多くの観光収入がある寺の独立が多い。浅草寺なども同様だ。神社でも同様に初詣の賽銭が多い神社がよく系列から離脱する。
125-6頁の「負担金の問題」も末寺が本山に支払う税金に例えているが、保険金のようなものだ。なぜなら、貧しい寺であれば、負担するより便益の方が多かったりする。そうしたことがあるから、逆の立場の寺が離脱する。この辺はフランチャイズとまったく同じである。地方交付税交付金にも同様の問題があるが、地方政府に例えると原則として日本政府から離脱ができない。独立問題になる可能性は低い。海外では地方独立運動がおこることがあるが、税金の問題というよりは、住民の気質の違いの問題であるから、やはり例えとしては、フランチャイズの方が適切と分かるだろう。
著者によれば、末寺が単立化をちらつかせ、収入の申告漏れを意図的に行い、負担金の軽減を図っているそうだ。一部の末寺と本山の関係だけを見て、本末転倒というのは、なんの冗談のつもりだろう。こういう所は経済学者なら推計しなさい。末寺の総数のうちどの程度か、負担金全体でどの程度が過少申告と考えられるのか。こういうことをきちんとしないからくだらんSF小説のような本になっている。
著者は変人だから、寺へのお布施をお礼を言って渡せるかどうかが、寺の提供するサービスの公共性を判断する要点なんだそうだ。別の事例で同じ理屈が通りそうか考えれば、この主張は完全な間違いである事がわかる。医者に礼を言って謝礼を渡せるかどうかが、医師のサービスの公共性を判断する要点ではない。弁護士に礼を言って謝礼を渡せるかどうかが、弁護士のサービスの公共性を判断する要点ではない。つまり謝礼と公共性は関係がない。次の説で料金を提示するのは収益事業で、寺のお布施は料金の提示はしていないとウソを書いているが、たいていの暮らしの手引きや葬儀社の葬式の手引きの類に現在の標準的なお布施の相場が書かれている。著者に従うと、時価のすし屋は収益事業と呼べず、家電品のオープン価格も収益事業と呼べなくなってしまう。また、住民票の取得は料金提示されているから、収益事業にしないといけなくなる。つまり、料金の提示と営利性は何も関係がない。
現在のペット供養が新しい需要だからこうしたことをすれば現行のまま免税でいいというのも変な考え方である。一般に救済事業を国が肩代わりするようになってから、宗教の役割が変わってしまった。本質的に言えば、本当に厳密に政教分離なら、宗教の活動分野に政府が入ることはどうだったのかということがある。一方的に政府が宗教の救済活動の領域で活動するように国家の役割が変化しているから、宗教の経営はもちろん難しくなっている。それと政教分離の原則があるため、基本的に政府は特定宗教にお金を支出できない。つまり、炊き出しなどの救済事業を宗教法人が行っても、その宗教法人に国が補助金を出すことはできない。現在では、こうした活動もだいたいキリスト教しか行っていない。
そのため、仏教宗派の国際援助が社団法人化されたのだろう。社団法人なら、国からの補助金の受け皿になれる。
葬式仏教のからくりでも、低質なひろさちやの文献から解説している。仏教と葬式が関係ないのは常識の類と思ったが著者はこんな低質な本に頼らなければ、最低限度の仏教知識も持てなかったらしい。岩波文庫の教養書を読み漁っていれば常識の類なんだが。ブッタの言葉のような初期の段階では、ブッタは葬儀そのものを否定しているので、大乗系のものになると退化して「葬儀は自分の関係者で執り行う」になるのかと呆れる。
ロックイン効果という経済用語を使いたいから「墓質」のことを書くというのはなんともはやである。本来、本家が引っ越さないから、そこに先祖代々の墓を買うのであって、たいていの墓は移転費用など考えずに購入されている。それを「墓質をとられた檀家は住職のいいなり」って。それから、特定の遺骨の一部を都会に移動する分骨という手段もある。墓の引越しともなれば、350万円くらいかかるかもしれないが、分骨程度なら大してお金はかからない。
第7章の最後は喜劇である。「寺檀関係の希薄化」だって。これまでさんざん、檀家との関係が強い寺の独立がどうのこうの言ってきたのに支離滅裂。
第8章にようやく沖縄。かなり参考文献からの歴史の簡略化による紙面つぶし。後半部分に影響しないため、必要性がないのにだらだらと書いている。沖縄は寺と独立した先祖代々の墓を門中が管理している。そのため、後発の仏教寺院が苦戦している。はじめに書いとくことだろう。
最後の9章はお寺の将来についてだが、くだらない。例えば、「別の住職はお寺を専業とするには檀家は1000軒以上なければいきのこれないともいっていた」という記述。こういう寺の規模に依存する数字は正確だったとしても情報量ゼロである。著者によれば生き残りの基本策は3つで、1.葬式ビジネスへの特化、2.現世利益サービスへの特化、3.仏教布教活動への道となっている。3の内容は自分探しらしい。著者によれば、「ストレスに苦しむ若者の中で、四国の八十八箇所巡りをしたり、禅寺で座禅を組んだりする人たちが増えていると聞く。こうした人たちがストレスの元を除去するという現世利益のためにお寺に訪れているとは考えにくい」そうだ。学者なら社会調査してから書きなさない。手抜きだなぁ。
現在の国家はとても強大で、宗教の活動スペースは小さいのだと改めて感じた。それを分からない人が書くと、こんな混迷な感じになるんだろう。あとがきを読んで吃驚した。これで仏教の勉強をして書いたんだって冗談でしょう。どれだけ手抜きをしたんでしょうね。私でも、仏教の信仰に関わることを2-3頁書こうと思えば、中村元全集くらいは目を通すのに。著者の理解だと「仏教は満足度を高めるために、欲をほどほどにしなさい」という教えなんだそうだ。出鱈目な。仏教は、不平不満を抱いている人に対しては、今の状態は食事ひとつとってみても様々な殺生の上に成り立っていることから、感謝の気持ちを持つことなどは説いている。更なる欲望を否定しろとは言っていない。教団財源を確保するために、喜捨の重要性を説いた場合もあったろうが、それが煩悩を捨てることとのからみで後世に過大評価されているものと思われる。初期仏教でも、現状が不満で更なる欲望を持つことに対しては間違っているというが、現状満足で更に豊かになろうとしている時に、特にこれ以上豊かになる欲を抑えろということは言っていないのである。これは上座部だろうが、大乗だろうが変わりない。それに著者によれば、「経済学は最大多数の最大幸福の実現を目標とする」とあるが、これは厚生経済学の立場に依存する話だ(それに最大多数の最大幸福はベンサムの思想で、これひとつで経済学を代表させるにはあまりにも狭い考え方にすぎない)。「そのために限られた資源をどのように配分すれば人々の満足度が高まるかを考察する」のも新古典派のミクロ経済学しか関係しない話。経済学の定義は難しいが、資源の効率的利用くらいだろう。
最後に本文以外のコラムも全般的に良くないので以下に書いておく。単純化が激しいし、内容が低質である。
Aについて
普通に考えれば、科学はすべて信仰の要素を持っている。
サミュエルソンの新古典派統合のテキストで経済学全部を代表させるのには無理がある。
Bについて
シューマッハの考えは、経済開発との絡みで出てきているため、その事を踏まえた叙述をするべきである。参考文献の環境の本一冊からコラムを作るから基本情報が偏向する。
仏教と経済学の関係の説明も下手である。2001年の「仏教・開発・NGO」新評論くらいは目を通してから、こういうコラムを書いてほしいものだ。
Cについて
宗教の経済学でもM.Weberの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」くらいは一言触れておくべきだろう。それから、イアナコーンの分析は間違っている。教会の国家保護が厚いから、日曜参拝が少ないと考えているようだが、典型的な見せかけの相関である。スウェーデンなどでは国家による社会福祉が手厚いから、宗教による救いの必要性が少ない。そのため、国が教会を保護しないと文化財などを保存できないというのが真実に近いであろう。この件に関しては普通に考えれば、調査無しに判断のつく事柄である。
Dについて
日本の寺は観光寺、信者寺、檀家寺の3種類に分けられるという。しかし、実際には、四国八十八箇所などは、この分類では信者寺かつ観光寺となるだろう。また観光寺は信仰心とは関係無しに観光客が物見遊山で訪れるという定義がよくない。そう定義すると、信仰心のある人は観光寺とここで分類された金閣寺などに訪れないと考えているのだろうか。実態としては、観光寺は国宝指定などの文化財がある場合がほとんどで、その維持管理のために、入山料、拝観料などを設定している寺と定義しておく方が経済学にふさわしい定義ではなかろうか。それにこの著書の後の方で、京都の拝観料課税問題では、拝観料を文化財の維持管理費と見るべきだと書いている。そうであるならば、なおさらこのコラムの定義もそのように改めるべきである。ここにまともな定義を書くと、後の紙面潰しの拝観料課税問題を書きずらくなるから、こんな変な定義のまま載せたのかもしれない。
善光寺が信者寺といわれても疑問である。実際に行けば分かることだが、観光客も数多く集まる寺である。昔のように宿坊に泊まる参拝者と普通の参拝者のみなら、この定義でも信者寺といえるかもしれない。定義だけ救うなら、語弊はあるが、総門などを通じて境内に入るだけなら入山料を取らない寺を信者寺と呼ぶくらいか。
檀家寺とは墓の維持管理を通じて遺族との長期の関係をもつ寺であるが、これらの定義で、きれいに分けられる訳ではない。先の善光寺にしても、仏教の二派が交互に法要する特殊な寺であるし、一派の方は納骨堂による収入があるから、檀家寺といえなくもない。こうしたいい加減な分類を見ると、分類定義はまじめに考えないとほとんど意味がないと分かるだろう。また分類をするためには、個別の寺の現状に精通していないとできない。そもそも著者のような仏教に素人を自認する人が書くべきコラムではないのである。
Fについて
著者によれば、「他力本願」とは「他人にたよってばかりいる」イメージなんだそうだ。そのイメージを頼りに、五木寛之の説に便乗して、変わったことを述べている。そもそも他力というのは自力修行による救済ではなく、僧侶の修行による読経などで救済を図ることを指しており、上座部仏教の在家信者も他力本願である。したがってこのコラム全体がナンセンス。そもそも五木寛之の仏教理解も素人水準なので、素人と素人の馬鹿比べになっている。
さらに著者は市場原理を「他力」といっているが、通常の仏教の考えと違うので、こういうのは止めていただきたい。普通の仏教では、どんな菜食の食事でも、植物に生命があると考えるなら何らかの殺生した上での食事となる。そういう食物などの「他力」によって生かされているのであって、自分ひとりで生きているなどと傲慢になることなかれと説くものなのである。こういう基本理解を何の説明もせず、無視して出鱈目書かれると不愉快になってくる。
Hについて
タイの仏教はほとんどが上座部仏教。この著者は基本情報を書かない事が良くある。それから徳を積む行為には、在家信者が僧侶に施しをする行為が含まれる。大乗とはシステムが違うのだから、もしコラムに書くのなら簡単に説明すべきだろう
<2010.9.14記>