[普通] 谷岡一郎(2007)「データはウソをつく」ちくまプリマー新書
統計的に主張できることとできないことの説明に関しては、うまく書かれています。また、メディアなどの情報偏向についても詳しく書かれています。ただし、事実の報道といっても、それが難しいということはきちんと解説されていません。やや批判に終始しすぎの印象があります。報道内容の選択という問題をあげてしまうと、では、偏向のないとはどういう状態なのかということを示す必要があるでしょうが、誰もが納得する偏向のない報道を測定する基準はこの世に存在しません。
それから、この人の言うほど、社会科学と自然科学には極端な差異がありません。著者が極端な差をおいた理由は、認識の錯誤に関する分析がかなり古い常識に基づいていたり、自然科学の実験を神聖化しすぎているからだと思います。この著者の本は良い本としてよく紹介されているように思うので、これらの点については注意が必要です。
この著者が扱う認識の錯誤の問題は狭く、社会科学における事実の認識に関してトートロジー(循環論法)に陥りやすいこと、後付けの理論を「ポストホック」な理論化として問題視すべきこと、帰納法と演繹法において注意すべき点がすこし触れらているに過ぎません。自然科学の分野でも特定の測定変数を選択した時点で価値判断しているので、この時点で錯誤を犯すことがあります。認識の錯誤に関しては社会科学だから避けられない問題なのではなく、自然科学の実験の方が問題を回避するための手段がすこしだけ多いというぐらいの差です。例えば、自然科学の実験室で行う実験データは、いくつかの条件を変えて測定することができるなどですが、「他にもあげろ」と言われても簡単に思いつきません。
パラダイム・シフトに関しては、帰納と演繹の過程が27頁の図のように単純化すると、弊害が多いと思います。また、自然科学と社会科学の違いも、図1-5のように書かれると現代では間違いと言えます。
社会科学の方がデータに制約が多いのは事実ですが、自然科学の実験において、追試による再現が確実に行える分野は、物理学や化学のごく一部に限られます。測定変数の選択だけで錯誤が起こる自然科学の分野として、人間の身体に関わる科学の全部(医療、生態有機化学など)、生物学のほとんど、気象学、気体などの確率的な所在しか分からない分野の物理学(量子力学、流体力学など)、シミュレーションを行うすべての自然科学などがあります。過去の偉人の考えや文献や常識を無視して、実際に真面目に考えると、自然科学のほとんどは社会科学と同じ性質を持つ分野が少なくありません。昔の科学観というか常識では、自然科学は単純系と考えられていました。自然科学は単純系の世界、言い換えると、単一方程式で因果関係を設定できるような世界として捉えてきましたが、現実の自然科学が扱う対象は、ほとんどが複雑系です。したがってこういう問題を考える場合にも、上記のような科学観の変化を考慮して、認識のパラダイム・シフトが必要になっています。この書物にはそういう視点が抜け落ちていて、教養を目的とする書物としては見劣りがします。
現実が複雑系なのに、理論で単純系にして計量分析している場合、どの程度確かなことが言えるか、実はよく分かりません。なぜなら、計量分析の前提が現実の世界とこの時点で整合性がないからです。しかし、そういってしまうと、錬金術と科学の区別もできなくなり不都合なので、これまでの科学が採用している方法に関しては正しいと仮定して物事を進めるより、ほかに手段が存在しません。しかし、もし新たな手段が提供されれば、そこでパラダイム・シフトのようなことが起きます。
例えば、経済学では、微分積分という数学的手法が生まれたことから限界革命と呼ばれる理論の発展が生じました。こうした事例は他の科学(自然科学を含む)でも観察できます。そして、その方法論は、常識を疑うくらいのことしかありません。なんせ、Bergson流に見れば、人間は時間を等均質と錯誤しなければ、科学的思考を行うことができません。したがって科学的方法は、人間の認識の錯誤の上に構築されている砂上の楼閣と見なすこともできます。
<2010.9.22記>