書評


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[良書] Henri Bergson[著]河野与一[訳](1998)「思想と動くもの」岩波文庫
Henri Bergson[著]森口美都男[訳](2003)「道徳と宗教の二つの源泉II」中公クラシックス
Henri Bergson[著]森口美都男[訳](2003)「道徳と宗教の二つの源泉I」中公クラシックス
Henri Bergson[著]合田正人・松本力[訳](2007)「物質と記憶」ちくま学芸文庫
Henri Bergson[著]真方敬道[訳](1979)「創造的進化」岩波文庫

総評

 Henri Bergsonの解説書にあたる篠原資明(2006)「ベルクソン」岩波新書 赤1040によれば、主要4著作は、「時間と自由」(1889)、「物質と記憶」(1896)、「創造的進化」(1907)、「道徳と宗教の二源泉」(1932)となっており、その他に日本語で簡単に読めるものとして「思想と動くもの」にある「哲学入門」(1903)や、「笑い」(1907)がある。成立年などは、英語wikipediaや各種テキストの解説を参照した。

 「時間と自由」の分析のほとんどは今日でも修正なく通用する部分が多い。19世紀の書物とは思えない新鮮さがある。これに比べれば、当時の科学状況に左右される「創造的進化」や「物質と記憶」の分析の方がやや見劣りがする。その原因はいくつか考えられるが、現代から見た場合に当時の科学の解釈に古さ、例えば広範な確率的な事象として視点の欠如などがあげられよう。遺伝子論争(遺伝子はDNAかたんぱく質か)は1944年なので、遺伝子的な視点から進化説を見ることはBergsonには不可能であるはずだが、哲学的な直観の視点から、精神作用を重視して生命の躍動力によって進化すると捉えているのは面白い。たぶん、Bergsonの考えは知性の重視だから物理的な遺伝子の変異などを想定していないと思うが、人間の進化はダーウィンのいうような環境適応がメインではなく、生命の躍動力にあるというBergsonの予想の方向は、先進性を発揮していると思う。Bergsonを読んでいて禁欲的に感じるのは、Bergsonが対立概念を出して止揚するという型に嵌め込むことが科学的方法と認識した上で、その手法を頑なに守って執筆するためだと思う。特に「道徳と宗教の二源泉」でこの弊害を感じる。

訳文について

 「時間と自由」と「思想と動くもの」は訳文がとても良い。特に後者は、当時語学の達人として著名な河野与一の訳を現代語風に木田元が改めている。これほどの最強コンビとあらば、名著となるのも必然かと思う豪華な顔ぶれである。それに比べれば、真方敬道の「創造的進化」の訳は古い日本語というだけでなく、誤字、訳出ミスと思われる「・・・、相対的ではない」(247頁)という記述などもあり、読みにくい。それから、接続詞の使い方が下手である。この本は是非、新訳を出してほしい。この中では「道徳と宗教の二源泉」の訳は現代風になっており、まぁまぁの読み易さである。「物質と記憶」の訳語は読みやすいが、翻訳不能なイマージュなどの概念が出てくるため、内容は難解である。

各著書について

「道徳と宗教の二源泉」について

 内容はほかの書物に比べて見劣りがする。テーマの大きさの割にやや薄めの感があり、分析・説明が大雑把な気がする。特に呪術と科学の捉え方はあまりに対立的概念として捉えすぎであろう。全般にもう少し、相対化した見方にした方が良いように思う。それに現代では、近親婚も、その族の規模がかなり小さくならないと奇形などの問題が起きないと知られている。当時はそれよりも近親婚の危険に関しては道徳的な視点から過大評価されており、その影響のためか、同書のBergsonの考えにも同じ偏りが見られる。退化に関する推論は、この人間の同族の近親婚に限られており、Bergsonの主張した分岐的進化を配慮しても、人間に至る比較的単純な進化過程を信じていたと考えられる。昆虫などの(身体的)機関的道具を、人間が外部に本当の装置として作ろうとすると工場規模になったりするし、人間が身体機能を退化させた部位もあるが、Bergsonはそれらを人間の退化とは考えていないようである。また、保留事項を数多くつけたにしても、知性に重き価値を置きすぎているように見える。

 すでに述べたが、宗教など特定の型に嵌めた因果律を含めた推論によって一番失敗している作品と思える。特に宗教を「心の安寧を得るためのもの」といった通常の定義にして体系化すると、Bergsonとは別のよりもっともらしい体系が築けそうであり、そうした点について説明がないのもやや不満が残る。

「物質と記憶」について

 「イマージュ」をひとつの鍵となる概念として使っているが、普通に読んでも新鮮さがまだ残されている。例えば、杉本隆久[など著](2010)「メルロ=ポンティ」河出書房新社にある前田秀樹の「メルロ=ポンティか、ベルクソンか」などにも強調して書かれているが、ベルクソンは人間の感覚器官は現実を縮減して見ていると捉えている。これは、Erwin Schrodinger[著]岡小天・鎮目恭夫[訳](2008)「生命とは何か」岩波文庫 青946-1の35頁に9 第三の例(測定の精度の限界)でも確認されている。この原書は1944年の出版であるが、シュレーディンガーも同一の立場を取っている。両者とも、人間の感覚器官が情報すべてを伝えるほどの精度を備えていたら、発狂するか死ぬくらいに考えている。

 話を前田秀樹の論文に戻そう。彼によれば、ベルクソンは「説明」をすることにこだわり、メルロ=ポンティはそれを批判して「記述」にこだわったそうだ。そして、加賀野井秀一が小林秀雄に「メルロ=ポンテイのことをどう思われますか」と質問して、「まぁ、僕もポンティを読んだが、あの人はね、まだごまかしていることがあるね」と言ったらしいということを紹介し、郡司勝義から小林秀雄が所有していたメルロ=ポンティの原書と訳書を見て、相当深く読み込んだ上での発言であったと叙述している。

 この本に関連して「二元論」などのキーワードでweb検索してみて、ベルクソンと小林秀雄関連の情報は、豊富ということを知った。しかし、玉石混交。中には両者ともに必ずしも精読してないで書いているようで、誤読も多数見受けた。

 この本は、「心身問題」とか二元論に関する書物として紹介されることが多いようだが、人間の科学的認識とその限界に関する本として読んだ方が生産的だと思う。

「思想と動くもの」について

 まず、巻末の木田元の解説から読んでおいた方が読みやすい。最初に配置されている緒論は内容的に難しい。後半に講演などがあるので、そちらの方がやはり読みやすい。いろいろな事柄について書かれているので、他の書物で疑問に感じた点など、ある程度、この書物を読むことで解決する。Bergson自身は直観による統合ができると確信しているが、本人がそのような神秘経験をした様子は文章からは微塵も感じられない。

その他のことについて

 「笑い」に関しては、林達夫訳で以前読んだ際に退屈な印象があり、木田元も笑いの解釈として狭すぎる旨を(2008)「なにもかも小林秀雄に教わった」文春新書 658に書いている。笑いに関しては、木田元の言うように、他者への優越という笑いは面白くもなんともない。本質的には、自己を笑い飛ばすことにあると思う。滑稽なピエロの演技を見てそういう他人がいるから笑うのではなく、自分もよくやってしまうんだよなというのを大げさに風刺されるのを見て笑うというのが、より心から笑える。そうした笑いに関してベルクソンはまったく触れていないため、退屈な印象しか残らなかった。

 訳文で原書を読んだ後に、久米博・中田光雄・安孫子信[編](2006)「ベルクソン読本」法政大学出版を読んでみた。この本で、Bergsonの自伝的なことも分かる。身体に障害をもつ一人娘がいたこと、自身が病と闘っていたことなどを知った。安孫子信の「『ベルクソンと現代』小考」や石井敏夫の「記憶と知覚の二元論」が参考になる。

 上記の書物はBergsonの原書を読んだ後、頭を整理するのに大変役立った。他にも、主要4書のほかに、Bergson自体が死後、7書のみの刊行を許可する旨の遺書を残していることなどを知った。上述の他に良かった小論は、安孫子信「ベルクソンと十七世紀の哲学」、箱石匡行「ベルクソンとサルトル」、松葉祥一「メルロ=ポンティのベルクソン読解」、越門勝彦「ベルクソンとデリダ」、根田隆平「ベルクソンと小林秀雄」である。巻末の方にある、ベルクソン哲学研究会「ベルクソン著作解題・研究紹介」もまとめとして役立つので、これだけ一読するのも良いかもしれない。

<2010.9.26記 9.27追記、10.15追記、11/7追記>

Kazari