[低質] 人不二基義(2007)「哲学の誤読」ちくま新書
表題に期待して読んでみたが、あまり面白くなかった。「哲学の誤読」という主題、「入試現代文で哲学する」という副題からもう少しまともな文章を選んでいるかと期待していたが残念だ。300頁で、たった4人の文章しか扱われていないのも物足りない。
扱われているのは、野矢茂樹、永井均、中島義道、大森荘蔵である。中島は、カント関連の文章は安定している。随想は「ウィーン愛憎」以外は読むに耐えないものが多い作家であるが、ここで取り上げられているのは、カントに関連した哲学に関する文章なので、誤読の余地は少ない。解説でも特に予備校の解答解説に対する誤読の指摘がない。したがって、中島の文章を取り上げた三章は本書の主題・副題にふさわしいものではない。
大森の文章ははじめて読んだが、平易に書かれている。入不二による解答解説に関する誤読の指摘も少ない。この後者二人の出題に関しては良い入試問題といえる。
さて、問題は誤読の指摘が多い前半の二人である。まず、野矢茂樹、彼の書く文章は、論理的でないことが多い。例えば、この本で取り上げられた文章で言うと、「1.他人の痛みを感じ取れると仮定する→2.他人の痛みが自分の感覚器で捉える。→この瞬間に自分の痛みになっているから他人の痛みを感じ取れない。」という論理展開をしている。これは明らかに言葉遊びにしかなっていない。自分の感覚器で入った段階で、自分の痛みと定義しなければならないのなら、他人の痛みを自分の感覚器で捉えるということ自体、はじめからできない。つまり、はなから仮定を満たすことは言葉の定義上できない。こういう文章は書く野矢という人物は能力が低いと思う。試験問題の設問の悪さよりも、まず第一に野矢の文章の悪さと、その文章を選択した試験問題作成者の能力を疑うのが正しいだろう。詰まらない文章を哲学している良い文章などと紹介されると後味が悪い。
永井均の日本語は難解で、下手糞である。簡単に書こうと思えば書ける内容をわざわざ指示語を多用して難解にしているのなら、文章書きとしては失格である。これを非常に練れた日本語のように言うのは正しくないし、そもそも哲学は、誰にでも分かるように平易に書くことを行わなくていい特殊分野ではないはずだ。例えば、対極にある木田元らの文章を読めば、その事は明白である。
こんなくだらない本を読む時間があるなら、生松敬三・木田元(1996)「現代哲学の岐路」講談社学術文庫を精読した方がためになる。
<2010.12.7記>