書評


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[トンデモ本]牧厚志(1998)「日本人の消費行動」ちくま新書140

 経済セミナーに一番初めに連載した内容は普通だったが、その後劣化に劣化を重ね、ここまで出鱈目を書くようになるとは。

 消費者主権の言葉自体をゆがめる定義を書くことに何の思惑があるのか知らないが、アメリカや世界各国の消費者運動すら説明できなくなる定義や背景理念を書くのは問題が多い。14頁に『消費者主権という言葉の背後には、消費者が株式を通じて企業という法人をコントロールし、また政府に対しては、個人の税金を提出して個人の生活を守る国防、警察、その他「市場の失敗」といわれる部分についてのみ整備を委任するという理念がある』(引用部分)という嘘出鱈目が書かれている。

 消費者主権関係の他の書物でこんな出鱈目を書いているのを私は見たことがない。まず、「株式を通じて企業という法人をコントロール」という部分は、1932年にアメリカの法学者と経営学者Adolphe A. Barle, Jr. and Gardiner C. Meansが主張した株式会社論「所有と経営の分離」のことである。1960年くらいからおこる消費者運動以前の理論であり、製品に関する安全性を問う運動の背景になりえないまったく関係がない企業金融に関する理論である。消費者を主語にするのも筋違いだ。消費者が一口株主になって株主総会で発言しても、企業行動を変えられた事例はひとつも存在していない。そもそも企業の土地買収反対運動や基地移転反対運動で展開された手法と混同する意味が分からない。

 後段の所謂夜警国家論もAdam Smithが主張したと言われるが、どちらかと言えば同時代の「蜂の寓話」を書いた17世紀の医者Bernard de Mandeville(1670.11.20〜1733.1.21)による市場万能主義思想で、こちらも消費者運動や消費者主権とはまるで関係ない。ちなみに精読すれば明らかだが、Adam Smithの主著「国富論」にも「感情道徳論」にもいわゆる夜警国家論は書かれていない。だから牧は基本書を読まずに、孫引き引用なのを隠して嘘出鱈目を書いていることになる。

 消費者主権は言葉通り、権利として考えらえているのだから、その思想背景は、基本的人権の拡充以外にはあり得ない。常識でも判断できる事柄である。wikipediaにもその程度の事は書いてある。(検索語は、消費者、消費者運動、消費者主権などで大筋は分かるはずだ)

 消費者主権の運動は主として、企業の作る製品による事故で亡くなったり、病気になったりすることから生じて、アメリカでは、1960年代にJohn Fitzgerald "Jack" Kennedy大統領が、消費者主権として消費者4つの権利を消費者保護特別教書で認めたことなどより、法整備が進められている。日本で言えば、消費者保護基本法(1968年)、訪問販売法(1976年)、製造物責任法(1995年)などが該当する。

 著者は馬鹿なので、基本的な法概念がないらしい。「個人の自由及び権利と責任が国家に抑圧される」(16頁)という趣旨の日本語として意味の通らないたわごとを書いている。責任が抑圧って。また、著者は「経済学的世界観」という言葉に拘っているが、その内容は、経済市場万能主義の厚生経済学的な世界観らしい。いくらミクロ経済理論の阿呆な研究者でも、その年(出版1998年に50歳)になって、実際の消費行動をしている消費者を観察せずに理論だけ振り回すための方便を考えるとなると、人間としても問題が多い。

 経済学者としても嘘を書いている。25頁に『経済理論と経済政策の場でつねに対立する「効率か平等か」という概念』とあるが、常に対立するわけでもないのにこう書くからには政治的な思惑があるのだろう。

 歴史を文献調査することも、数字で検証することもなく、第一章は個人的思いつきを羅列されるとさすがに真面目に読むだけ無駄である。第二章は本書とあまり関連性に乏しい日本の歴史で紙面つぶし。三章からようやく内容に入るかと思いきや昔の必需品の定義で紙面つぶし。四章は高度成長期の耐久消費財に関する叙述での紙面つぶし。ここまで思いつきで書かれた本は破って捨てるべしの類。

 五章はサービス産業でようやく公共料金が出てきて、サブタイトル「官僚主導から消費者主権へ」の内容が少し出てくる。表5.1に1995年の内外価格差が示されているが、本文に1995年と書いてあるだけで、102頁の表からは年号を読み取れない。基本的な表の作り方さえ知らないらしい。研究者なのだから代替案を提示すべき個所で、素人が行う政策に対する素朴な疑問を書くのはやめて欲しい。一応、最後に抽象的な「独占的競争市場」にまで市場構造を変える提言をしている。

 六章の「バブル期の消費者行動」では、日本では消費者行動は統計(家計調査)上、バブル以前と変化なしとの結論。アメリカより株投資が少ないなど詰まらない情報が盛られている。政策提言は責任の不明化につながる住専への公金投入は間違いという位で代替案はなし。住専問題の責任の明確化が必要というのは代替案とは認められない。

 七章の「内外価格差の問題」では購買力平価を中心に日本の物価が高いというつまんない話。政策提言は規制緩和。八章の「ニュージーランドの規制緩和と消費者行動の変化」ということで、この人は財政破綻から来た規制緩和と消費者運動からくる消費者主権の違いすら認識していないことが判明。馬鹿につける薬なし。

 この人は根本的に勘違いしているが、消費者主権からくる消費行動で言えば、安全志向なのだから、企業のように環境規制ギリギリ、生命に影響の出るギリギリの汚染物質なら市場で売るのとは、正反対の考えを持っている。そして、価格だけでそれが調整できないなら、商品表示の規制などを強化するほかない。もし商品表示義務の規制緩和が行われれば、消費者の生活水準が悪化する。この著者は馬鹿だから、参入規制を緩めることが規制緩和と考えて、多くの事を見落としているようだが、商品表示義務が撤廃されれば、消費者利益は損なわれるけれど、参入企業は増えるよ。それが社会的に望ましくないことも自明なことだ。

 内外価格差があるのも、規制のやり方がおかしいからで、規制自体が悪いわけではない。電力料金に関しても、諸経費積み上げ方式には問題がある。だいたい電力会社の経費(労働賃金)は、技術が三流なのに高すぎる。だから、「規制緩和=参入増加」性善説は、消費者の役には立たない。規制の仕方や行政の運用の仕方に問題がある。それを詳細に指摘する能力が経済学者にないからと言って、撤廃は乱暴すぎる。よく消費者関係の法律の歴史を見れば明らかなことが、このミクロ理論おたくには分からないらしい。日本の経済学者がこんな馬鹿ばっかなのには、困ったもんだ。

<2011.9.30>

Kazari