[普通] 橘木俊詔(2002)「安心の経済学」岩波書店
George A.Akerlof, Robert J.Shiller[著]山形浩生[訳](2009)「アニマルスピリット」東洋経済新報社
橘木俊詔(2002)「安心の経済学」岩波書店
橘木俊詔の行う研究はましなのだが、いつも政策提言が少しずれている。それは、いわゆるニートへの聞き取り調査を失敗してしまうような点に原因があると思われる。大学生と共同で聞き取りしたのか詳細は知らないが、社会の底辺の人がアルバイト料金くらいで、学者に胸襟を開いて自分の考えを正直に話すなど、およそ常識ではあり得ない。橘木の社会調査の能力が高いとは到底思えない。そして、社会の底辺への取材に対する社会感覚が欠如した上で、「学生や教授が喜びそう」と勝手にニートが思い込んで答えた内容を見て、分析するのは愚かですらある。その学者としての傲慢さは各所に垣間見える。そうはいっても、これでも他の経済学者の研究が、社会問題を直視せずに覆い隠すことに専念するのに比べれば、はるかにましな部類に入る。それが経済学の悲しい現状である。
日本語のニート((Not in Education, Employment or Training, NEET)を説明する際に、もともと中立的な概念だったという中途半端な説明を使う学者も、低能だと思う。英国では、16〜18歳にあたる若年で、本来なら、学業、職業訓練、就業いずれの状態にもないものを社会参加がうまくいっていないと捉え、救済の対象として考えられた概念である。だから、否定の言葉が先頭に来ているし、救済の対象だから、そもそも中立な概念ではない。これを中立と捉える言語感覚が常軌を逸している。政治的に非難されたときに、侮蔑の意味はないとイギリス議会での討論があったとしてもである。
日本の定義は、「現在、日本におけるニートの算出方法は、総務省が毎月実施している労働力調査の『特定調査票集計』の中の「詳細集計」に基づいており、そのうち、15〜34歳の年齢層の非労働力人口の中から学生と専業主婦を除き、求職活動に至っていない者を厚生労働省においては日本における若年無業者(ニート)と定義している。なお、いわゆる家事手伝いの扱いについては、自営業者の家族従業員が含まれているのを理由として、現在はニートに含めていない」(wikipedia)。この定義自身の問題点もある。例えば求職希望ながら、自習で資格試験合格をめざし、合格後就職を目指す人などをどう扱うのかすら明瞭でないためである。また、まともに社会に発言することすら諦念しているニートには、橘木の誤った観念や研究を是正する余地は乏しいと思われる。
それにニートなどを分析するより、本来なら、ワーキングプアの現状を分析した方がいい。就業しても喘いでいるなら、失業者に強い就労意欲などおこるはずもないからである。wikipediaでは、後藤道夫「貧困急増の実態とその背景」貧困研究会編『貧困研究vol.1』P120潤E121の文献から、総務省の就業構造基本調査に基づいた試算例を紹介しており、それによれば、ワーキングプアの規模は、1997年 458万世帯 12.8%、2002年 657万世帯 18.7%、2007年 675万世帯 19.0%である。また、国税庁『民間給与実態統計調査』に基づき、「2009年現在は1100万人、労働者全体の24.5%を占めている」ことを示している。こちらの対策が進まない限り、ニートの撲滅だけ進めても意味がないことが分かるだろう。ワーキングプアが増すだけだからである。
だから失業問題の解決だけではだめで、生活保護世帯以上のましな生活を営める賃金労働者の増加への具体的な提言がなければ、労働経済学者として失格である。こういう現状であるから、企業側に雇用調整を行いやすい環境など現在必要ないことが分からなければならないし、それは2002年時点のワーキングプアの規模からいっても当然のことと判断できねば、やはり労働経済学者失格と思われる。
転職のため、勝手に辞める権利が労働者にあるのに、雇用者に勝手に辞めさせる権利がないのはおかしいという奇天烈なカウンター権利を主張しているが、労働サービスを物か何かと勘違いしない限り、あり得ない感覚と思う。一般に働き甲斐のある職場環境を提供できる企業は離職率が極めて低い。だから、職場環境が悪いところは引き止めたくても、離職率が高い。どちらの企業も自由にレイオフすることが、自社の生産性を高めることにつながるとは到底思えない。無能な経営者が、有能な社員集団に退陣を迫られそうな時くらいしか、意図的解雇が必要な事態などあまり想定できない。実際に、雇用調整できないから倒産した事例など皆無に近いはずである。無節操な解雇をされて、裁判で復帰し再雇用されている事例なら、多々あるが、その反対事例がないなら、解雇する権利は社会的に経営者に必要と認められない。
しかし橘木によれば、何の分析もなしに、論理展開だけで、経営者に解雇権も思いとどまらせるために、労働者に長期に留まることを勧めている。阿保過ぎる。
George A.Akerlof, Robert J.Shiller[著]山形浩生[訳](2009)「アニマルスピリット」東洋経済新報社
山形の訳は訳出ミスがほとんどないので安心して使える。主婦の友社のKrugmanの訳は、正しいとしても、嫌いな文体であるが、それ以外は概ねまともで読みやすい。雑誌にKrugmanの論文が訳されたとき、別の訳者のも読んだが、山形の訳の方が正しかった。Krugmanに関しては、英日で論文を数本、テキストを数冊読んでいるので、訳に関してはこの評価で大丈夫だと思う。
訳者あとがきに、ケインズは、アニマル・スピリッツを一般理論で2回しか使っていないが、それは「血気」が名訳と言えるような獰猛な猛獣の猛進のイメージで使っていると書かれている。そして本書では付和雷同の追従者もアニマル・スピリッツに含まれていると書いているが、もしそれが事実なら、Akerlofらの命名センスを疑う。そもそもケインズは、アニマル・スピリッツを発揮する人が正しければ、美人投票をするような追従者全員が幸せになれる社会を想定していたと思われるからである。
原著者や訳者のいうように、確かにケインズ経済学におけるヒックスの貢献も大きいし、ケインズ派の大雑把なところは現在でも成り立っている。しかし、山形のいうように、日本では、普通の金融政策が行われていないと1999年時点で言うのは間違っている。もっと経済センスのある人と思っていたが、この本の後書きを読んでがっかりである。量的緩和はそもそもケインズのいう普通の金融政策ですらないし。量的緩和してもマネーサプライは増えなかったという日本の実績もある。そして、KrugmanやStiglitzが日本に推奨した金融政策を、2008年のサブプライム問題がアメリカで生じた時に、アメリカでその金融政策を実施しなかったというのなら、歴史事実として正しいが、そのように書かれているわけでもない。バブル後の日本については、財政・金融政策として、きちんとポリシーミックスしなければならなかった。これが現在の(2009時点でも)ケインズ派からの教訓となっている(日銀政策委員の植田和男も2009年あたりの経済セミナーでそのような内容を書いていた)。植田は日本の大半のサラリーマンの実質賃金所得が減っているのに、「1999年時点でのデフレの負の効果は、想定していたより軽微だった」と述べているが、これはケインズ派からすれば大間違いである。
Akerlofらの言うように、それをアニマル・スピリッツと呼ぶかは別にして、本書にはケインズの考えが現在でも重要性を持っている点のひとつを教えてくれる良さがある。それは、訳者が文句をつけるほどのものではない。すでに述べたように、原著者が追従者を含む概念をアニマル・スピリッツと呼んでいるなら、それは、ケインズが使ったアニマル・スピリッツという言葉だけが含意ではない。その他に、美人投票と確率論が含意になっている。だから、ケインズがアニマル・スピリッツという単語を一般理論で2回しか使っていないから、後のケインズ派が重視してこなかったのは、原著者らのいちゃんもんに近いと山形は文句を言っているが、これこそ山形によるいちゃんもんに過ぎない。山形には、訳出の日本語がなっていないポスト・ケインジアン叢書の読破や訳出をお勧めしたい。特にJ.Robinsonは教養のために読んでおかないと、今後も経済センスを疑われる発言をする羽目になるだろう。
<2012.2.8>