書評


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[低質]福田誠治(2006)「競争をやめたら学力世界一」朝日新聞社

 朝日新聞なので、日教組を支援する意向があるんだろう。つまらない観点から、統計を捻じ曲げて解釈し、日本の教員の質が高かったから、日本の数学の教育水準がOECDで高かったと結論している箇所がある。著者の意見はたいていナンセンスながら、フィンランドの教育現状を書いた箇所は普通にかけている。

 OECDの「生徒の学習到達度調査」(PISA 2003)の統計と、「国際数学・理科教育動向調査」(TIMSS 2003)の統計から、日本の教員の質の高さを読み取ることは不可能だ。そもそも、国際間の比較をする際に、数学に充てられている授業時間の比較も、本書は取り扱っていない。差があるなら、授業時間数の差かもしれない。授業以外の学習時間が他国よりも少ないにも関わらず、得点が高いから効率がいいというのも、正しいかは分からない。数学の授業時間が長いだけかもしれないからだ。この章には統計がないが、104頁に国立公学校の7〜14歳の標準授業時間数(2002年)という統計が表示されている。数学だけではないが、それによれば日本はフィンランドや韓国に比べ、授業時間が多い。

 本書に掲載された統計から確認することは不可能ながら、私は別の要因が一番であると確信している。1970年代に作成された日本の数学の教科書(初等、中等、高等)は、当時の日本の数学界の最高水準の人たちが作成した。この頃の数学の教科書を国際比較すると、日本の教科書は世界でも最高水準にあった。また、日本の場合、良くも悪くも教科書検定制度があったため、その最高水準の数学の教科書が全国で採用された。たぶん、これが一番、日本人の数学の得点が高い理由である。しかし、現在では度重なる改定の結果、従来より数学の教科書の質は落ちてきている。教員の質はもともと低く、教科書が良かったから、OECDで上位だったに過ぎない。

 また、本書のタイトルは誤解を助長するものである。競争をやめると学力が世界一になるのではなく、フィンランドでは、子供が自らの意志で知識を身につけたいと思うようになるまで環境を整えたから、学力が世界一の水準になったのである。人間は誰しも、他人からの押し付けでなければ、知識に対する欲望を余すところなく持つものであるし、競争に対してですら、自らの意志で参加するものなのだ。私のいう競争は、この著者の試験や受験の学力の競争に限らない。自らのいつまでに知りたいという欲求も自らの競争であるし、点数がつかなくても、兄弟より親から褒められたくて勉強するのも競争の一種である。競争とはそういう包括的な概念のはずだ。別にフィンランドの教育システム下で、何らかの学力試験制度を入れても問題はおきないだろう。理念としてやっていないだけの話だ。

 いくつか面白い指摘もある。学力別クラスを設けると社会格差がそのまま反映されていて、反社会、反教育的になるから、廃止したなどである。これは犯罪地域に大学を作ると、犯罪率が下がるというアメリカの経験と同類の社会現象と私には思える。黒人学級に補助金を出すより、白人や黒人をごちゃまぜにして教育した方が教育効果が高いということだ。これもアメリカで報告されている。また、時事批評に書いたと思うが、学力低下への対抗は補講が原則であると書いた。フィンランドでも同じらしい。そして、留年制度があるが、留年で、手厚い補習授業を受けた者は、後に単位取得数に応じて飛び級できるように制度化されている。当たり前の事が当たり前に行われている感じである。

 教員は授業が最大の仕事で、有給はもちろんのこと、時間外に教員のための学習が手厚く行えるように制度が完備している。福祉国家なので、就業に必要な職業訓練はすべての分野で提供されるから、本人の意志で就業選択できるようになっているわけだ。つまり、日本などと違ってフィンランドをはじめとする北欧諸国では、社会的な権利としての就業の自由が、きちんと制度上確保されていることを意味している。

 それと、教員は苦情が殺到して退任する羽目にならない限り、同じ学校で教え続けるという。自分の教え子が、同じ地域で働く限り、その成長を見続けることになる。問題教師をたらい回しにする制度にして、すべての公務員の責任を無責任化した日本のやり方と正反対であることは述べるまでもない。こういう社会制度を背景に教員に対する子供の信頼も厚いと書かれている。犯罪を多発させている現在の日本の教育現場とはこれも対極にある。そもそも親が教育者を尊敬するように育てないと、子供が教師に対して尊敬するはずもない。もし日本でフィンランド流の教育を根付かせるとしたならば、親の教育からやり直さなければならない。この辺りの事情は年金不祥事とまったく同じで、いい加減な教育を親世代にしたから、余計なつけがたまってしまった。

 この本によれば文部科学省は、フィンランドの教育を賛美しているらしいが、今の文科省の官僚にこのシステムを採用して、運用する能力はない。つまり、フィンランドの教育を取り入れようとするならば、文部科学省の官僚の再教育から始めねばなるまい。日本における本当の社会的な借金は、こういう所に溜まっている。

[低質]高木勝一(2007)「日本所得税発達史」ぎょうせい

 思ったほど真面目に書かれていない。所得税にまつわる改変の点は、すべての時点について、全部記載して、まとめられているのかと思ったが、そうした基本書としての性格はまるでなかった。大雑把に大きな改正時点の考えが、その当時の理由とともに書かれているだけで、今日の観点から、きちんと評価し直しもなされていない。そういう役に立たない書物であった。「ぎょうせい」は実用に重きを置いていると思っていたので、実用にも役立たないこの書物は、失敗作だと思う。

<2012.3.7>

Kazari