書評


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[普通]池上知子,遠藤由美(1998)「グラフィック 社会心理学」サイエンス社

 門外漢なので、評価は普通にした。テキストとしてこの分野で、よくまとまっているかなどの判断が私にはまったくつかないからだ。

 ただ紹介されている幾つかの学説に疑問があるので、感想がてら書いておこうと思った次第である。

 例えば、対人認知の章で、ケリーの実験(25頁)というのが紹介されている。教員の性質に関して、「あたたかい」「つめたい」を含む文章の2種類の紹介文を別々の生徒に渡した上で、教員の印象評価を生徒にしてもらう実験だそうだ。この実験はおかしくないだろうか。もともと紹介文なしの評価がないのは、実験としてどうなのか疑問が残る。この印象形成というのは、個人が独力でするべきものみたいな暗黙の仮定があり、その上で、他人の評価に引きずられたという解釈をしているが、それも疑問である。他人の評価を信頼するかどうか、信頼するとしたら、否定的評価と肯定的評価とどちらに信頼をおくかの調査にしかなっていないように思うのは私だけだろうか。それが印象形成という言葉の定義にひきずられて、先入観とか期待ということにこじつけられているように見える。

 私はある年齢になってから、他己評価は全く無視する方針を採っているので、この実験に参加した場合、まったく紹介文を無視して教員を評価することになるが、たまたま2種類の紹介文を受け取った学生のグループ間に特定の平均的な評価バイアスがあったら、どうやって避けたのか全く書かれていなかった。数人の先生について、紹介文なしには五分の評価を受ける先生たちの授業を、先生ごとに授業前に「無作為に」2種類の紹介文を生徒に渡して、繰り返しテストしたとかなら、兎も角もという感じがする。まぁここまで書いても、興味がないから、論文自体を読む気もないが、心理学系の社会調査には、教科書に載る水準の有名な論文と思しきものの中にも、極めていい加減な実験だなと感じるものが多い。

<2012.3.23>

 第二章の社会的推論の各節では、科学において客観評価が善で正しく、個人的な主観的評価は、できる限り客観評価に等しくなるべきだという暗黙裡の仮定が随所に使われている。後半で検討される文化的な多様な価値観などとは相反する仮定なだけに何らかの検討が必要なはずだが、ここら辺の社会心理学の説は、哲学などと比較して大幅に見劣りがする。心理学は、哲学者ウィットゲンシュタインの平板な世界観からアプローチした方が実り多いだろう。個人の形而上学の世界では、主観評価はどこまでも世界と無矛盾で合理的という考えである。

 第二部の自己では、第五章の自己認知からはじまっているが、少し変わった人間観からアプローチしている。例えば、「人は自分のことを知りたがる存在である」などである。社会心理学という学問自体がそうなのか、この本だけの問題か分からないが、よく目的と手段を混合している印象を与える文章に出くわす。例えば、自分が自己認識が必要となるのは、あくまで「理想形の自分像」があって、それを目指す上で、適当な手段を取りたいと願うからである。理想像を追及するための手段の第一段階が、自己認識というのに過ぎないから、理想形との比較が問題になる。第五章では属性アプローチをとっているが実りがあると思えない。第六章の自己評価の各論においては、上述した理想形を問題にしている。しかし、この理想的自己を願望の理想形と規範的な理想と分けても意義は乏しい。この辺の学説も哲学より見劣りがする。

 他己評価を理想形に合わせようとするのを、わざわざ大業に、自己評価維持モデルなどと言う必要があるのかも分からない。社会心理学の学説の多くは、間違った分類などに基づく認識の錯誤を利用して、学問分野を過大に見せようとする傾向があり、この本を読んで、社会心理学の学問としての浅さを感じる結果になった。

 社会心理学という名称から、多文化理解、教育、企業の精神病対策としての実学の部分に期待していたが、あまり心象に残るような議論はなかった。一応、第11章の「健康と幸福」、第12章の「文化と人間」などで多少扱われている程度である。

<2012.4.6>

Kazari