[良書]筑紫哲也(2006)「スローライフ」岩波新書
昔、調べて忘れていたことなどを読んで思い出した。一村一品運動などについて詳細に書かれている。現在のファストフードなどの効率性一辺倒のライフ・スタイルに疑問を呈した書物で、スローライフに関連するスローフードなどを要領よくまとめた良書である。
全般的に面白いのだが、給食の論調だけはいまいちだ。たぶん、筑紫哲也が給食に関して述べている負の部分は、制度的工夫でどれも克服できてしまいそうなものばかりというのが一番の理由だろう。例えば、箸の使用、和食の復活、地産池消などなど。全部、どうにでもなる。それから、筑紫哲也の給食廃止論は、「学校教育は個を尊重する教育であるべきだ」という大前提と「一億総中流化」が満たされないと成り立たない気がする。日本文化で言えば、「同じ釜の飯を食う」ことにより集団生活への協調性を養うのも、私は個の教育と矛盾しないと考えるから、給食のはじまりが物資不足であったとしても、その後の給食が「同じ釜の飯を食う」という文化の上に成り立っているなら問題は少ないはずだ。また、私の世代でも、給食を弁当化すると、個々の家庭事情(所得状況)が極めて明確に弁当に反映され、既存の教育システムの下で給食を廃止するといじめの温床になりかねないという事情もある。これは現在の事を言っているのではなくて、バブル期でもそれ以前でも、その程度の明確な所得格差が存在したということだ。
筑紫哲也が給食を問題にした当時は、給食の洋食化は極端であり、スプーンの使用なども極端化した。それは現在でも一部で続いており、そうした視点からは改善させるべき点が多い。そもそも、筑紫哲也が問題視する給食問題は、当時のアメリカ余剰小麦の輸入問題があり、日本の製パン業者の利権などを学校教育の給食にしわ寄せさせる形で、子供の健康をある程度犠牲にして解決するのは理不尽だという視点がある。この点は本書に書かれているが、日本政府がだらしないので政治的解決が困難だから、とまでは明言していない。そう筑紫哲也が判断したのなら、そうかもしれない。しかし、私は最上の政策は子供の健康の視点から給食制度全般を見直すことだと思うし、現在の文部科学省が本気でスウェーデン型の教育制度が良いと言うなら、教育制度全部を変える覚悟を持って見直すべきだろう。根幹の制度として、教員のたらい回し制度は廃止しなければならない。現在、問題教師は母校引取り制みたいな習慣があって、暴力をふるうような頭のおかしい教員でも簡単に解雇できずに、巡り巡って母校に定着することが多い。その一方で、他の教員が2年程度で転々と教職場を変えて、子供たちに責任のある教育など出来ようはずがない。最近の公務員の公務における責任回避癖は異常なほど潔癖で、無責任極まりないが、強制転勤制度は無責任を保証する制度になっているので、即時廃止が望ましい。
現在の国家公務員には省庁間転勤制度を定着させて、更なる無責任体制を築こうとする勢力があり、国民は断固として阻止した方がいい。
この本は読んで損はない。以下には個人的な覚書を記しておく。ファーストフードが不健康だという証明の映画「スーパーサイズ・ミー」が本書では取り上げられている(p32-34)。モーガン・スパーロック監督自身が一日に3食、30日間、マクドナルドのファストフードだけを食べ続けたらどうなるかを記録した映画だ。大分県大山町が日本の「地産池消」や「一村一品」運動の起点である(p50-52)。文人の室生犀星と石川啄木の故郷への対し方の両極(p109-110)。大分県日田市が筑紫の出身地(p111)で、そこで「自由の森大学」という生涯学習の活動を行ったことなど書かれている。2002年静岡県掛川市の「スローライフ月間in掛川」で「スローライフのまち連合」を結成しようというシンポジウムに山形県立川町、福島県昭和村、長野県飯山市、岐阜県多治見市、静岡県湖西市、本川根町、山口県柳井市の市町村長が加わった(p186)。
[普通]菅正広(2009)「マイクロファイナンス」中公新書
先進国でもマイクロファイナンスが実施され、一定の効果があがっている。しかし、日本の役人にとってマイクロファイナンスは途上国の制度という意識が強く、先進国での実施例をよく知らないし、貸金法規制法によって事実上、日本でマイクロファイナンスを実施することが困難なのは問題であると指摘した書物である。もう少し、先進国におけるマイクロファイナンスの統計や実績の数字を具体的に取り上げてほしかった。
[低質]下川浩一(2006)「「失われた十年」は乗り越えられたか」中公新書
自動車産業について書いた本は普通の評価をできる人物であるが、マクロ経済の政策評価となると、見当違いなことが結構書かれていた。安易に専門外の書物を書くものではないという典型。
<2012.6.18>