[低質]高島俊男(2001)「漢字と日本人」文藝春秋
この著者の他の中国関係の本に比べ、質がかなり低い。発音と表記に関して、根本的に勘違いをしている。英語の26文字に確かに子音はあるし、子音終わりの単語もある。しかし、だから発音がこの文字で忠実に表現できるわけではない。国際音声記号まで使わなくても、英語の場合は発音表記できるが、それでも26文字では不足している。だから表音文字という名がついていても、発音と表記は別物である。それは中国語にしても声調(四声)があるから同じである。口語(話し言葉)と文章(書き言葉)の相違を無視した議論も論外だが、他にも国家主義的な観点から言語を見過ぎているため、つまらない議論をしている箇所もある。「歴史と進歩」に至っては言葉遊びにしかなっていない。明治の近代化は、西洋文明を取り入れるために行った行為で、文化の優劣の問題ではなく、技術(文明)の質の優劣の問題だからである。日本の古代でも技術の質が高いものを貴ぶ精神はある。文芸春秋は、国家主義的な文章だと、論考が雑でも本にする傾向があるが、もっと編集者の能力を上げるべきだ。最近は、老人になると、専門(高島の場合は中国文学)周辺だが専門外(日本語)の分野について、デマに近い内容を書く専門家が増えて迷惑千万だ。
この本では、最初に日本語の同音異義語の多さから入り、略字の正規化による日本語の乱れなどを指摘していて、そうした点は面白い。例えば、「仮」というのは、本来「假」だったのに、「仮」と略記する人が多いと言うだけで変更を決めた戦後の「国語改革」の愚挙と書かれている。反という漢字の読みは「はん」で、「板、版、坂、飯」などのグループであり、一方、假の読みは「か」で「暇、霞、瑕、葭」のグループの文字である。それなのに、「はん」のグループと同じ字面を「か」と発音する漢字として使うと、本来の読みと意味の共通性が失われてしまうと指摘している。
漢語は二音節で安定することが多いため、それが直輸入されると、同じ意味の重なる複合語に関して、日本語なら文字数が増えても一語で言えるのに、漢字を覚える手間が増え、不便であるという趣旨の内容が書かれている。簡潔な言語こそが正しいと言うならその通りなのだが、表現力の幅は減るから、私は「簡潔な言語こそが正しい」という考え自体が間違いだと考える。
著者は、過去の日本人は口が不器用で、外国語をうまく発音できなかったという。撥音、促音、拗音を例にしているが、私は方言を含めるとそんな事実すらないのではないかと思う。現在の日本の標準語が間延びしているだけだ。実際には標準語ですら、現在の国際音声記号をもとにすれば、昔、日本の言語学者が考えていたより、はるかに複雑な発音を行っていたと考えられるようになっているはずだ。それと撥音、促音、拗音などの発音表記方法がなかった事実と発音できなかったであろうとの推論は別物として考えるべきだと思う。この辺りの論考は時代遅れかつ幼稚な気がする。
著者のもうひとつの偏見は、漢字を多用するのは、知識のない人間と決めつけを行っている点である。形容詞に漢字の当て字を多用した三島由紀夫を、私は知識のない人間などと思わない。私が漢字を使うのは短く表記でき、読みやすいからだ。短くならないなら、ひらがなで構わない。しかし、かなが多いと読みにくいし、カタカナを使っても、著者の言うように「読者がカタカナを著者が区切りの意だけのために使っていると受けとめる」かも定かでない。本書でも、読みをカタカナ表記している箇所もあり、書き方に統一性がない。また、かなを多用するのが、真の知識人かのような発言をした章だけ、かなが多いのでは、いかにも不細工だ。そのため、第2章の1「訓よみとかな」は際立って不出来な節になっている。
第2章の3「漢字崇拝の愚」も不出来な節である。本居宣長を引き合いに、やまと言葉の復活を主張しているが、本居宣長は医師の片手間で、古事記の解読に人生を注いだ人物であるが、本居宣長の日本語論に関わる部分については私はまったく評価に値しないと考える。それとこの本のように引用すると歪曲引用かと思う。彼の功績は漢籍に通じなくても広く古事記を読める状態にしたことに尽きる。そして、本居宣長自身もそうだと思うが、無文字文化当時のやまと言葉を文字文化に高めるべきだと言う主張こそ、愚の骨頂である。無文字文化が文字文化に劣るという暗黙の前提に立っているし、無文字文化の良さを勘違いした発言でもあるからだ。今知られている純粋やまと言葉だけで楽しめるものなどは、和歌などに限定されるだろうから、それで日常生活することすら不便なら、不便の強要を通じて、文化が花開くなどあり得ないことだ。それに漢語の輸入に際して、日本の文化が遅生まれと主張していたから、この節はそれと矛盾する内容を含んでいる。
そのため、この節では最終的に頼山陽などの揚げ足取りでお茶を濁している。下手な外国語は説明可能なはずだが、説明の手抜きをしているのも滑稽だ。文法的に間違いがあるなら、そう書けばいい。文法的に完璧でも、通常慣用句として組み合わさらない単語の陳列を使っているなども説明可能だ。「その言語を三年勉強してから質問しろ」と著者は書いているが、専門家なら無学の人にも説明できるように研鑽しろと私は言いたい。なぜなら、本居宣長は漢籍を振り回して、素人の日本人に分からない議論することを批判したのだから、「三年勉強してから」云々は、まさに本居宣長の批判した事柄だからだ。高島俊男は本居宣長の批判を自分にだけは適用しない方針らしい。
明治の近代化に翻訳が大量に作成されたのは、(法律などを含めた)技術の獲得のためである。要するに著者はこの節で、意図的に文明と文化を混同して議論をしているのが稚拙だ。福沢諭吉が作ったと福沢自身が述べている単語も、ほとんどがデマであることが知られている。それは、福沢が作ったと言われる以前の新聞記事などに使用例があるからで、この辺も知っていて本人が言っているんだから本当だろうみたいな無責任な書き方をしている。非常に学者としてあるまじき不見識だ。「同音異義語が多いのに瞬時に日本人は判断している」との主張も馬鹿げたものだ。例えば、この本に挙げられている book という英単語には、帳簿という意味と、本という意味があるが、これを文脈から瞬時に判別できない母国語(英語)話者はまずいない。これが例え、book、boukと綴りが違うが発音が同じだったとしても同じことである。こういう詭弁とかが多いので低質の誹りは免れない。
万国史という一書物から西洋人の性質を断定しているが、なんでここだけ歴史や宗教を題材にしているのかね。英語の歴史にでも焦点をあてれば、違った西洋への印象ができることは確かだ。英語はシェークスピアの時代にできるわけだが、まさに混成言語だ。英語は、当時のヨーロッパの各言語のいい所どりしようとしたから、文法規則は極めて煩雑になっている。ラテン語などと大違いなのだから、現在の一部のアメリカ人などにしか当てはまらない見方を西洋として捉えること自体に問題が多い。著者が、西洋を「一本道の単純な見方をする民族」とする見方自体が、一本道の単純な見方である。
第4章の2「国語改革とは何だったのか」と3「当用漢字の字体について」だけは例外的に比較的まともだ。
著者の見解はほとんど役に立たないが、事実関係に関して問題なさそうなことろだけ参考までに抜き書きしておく。
日本語は親類のいない孤立した言語で、同じような言語は、バスク語、ブルシャスキー語、アンダマ語などがあり、無文字言語を含めて、現在、地球上に約四千語あるそうだ。漢語が日本に入ってきた当時の中国の言語は、現在では中古漢語(Middle Chinese)といい、六朝から隋・唐あたりの時代の漢語を指す。そして、中国の六朝時代に「呉音(ごおん)」、中国の唐の時代(日本の平安時代)に「漢音(かんおん)」が入ってくる。著者によれば、「呉音は音が耳にやさしくこころよい。漢音は音がかたく、ゴツゴツしている」(p61)と書いている。
書評とはあまり関係がないが、覚書をいくつか記す。西洋人名の当て字として、モーツァルト「莫札特」、ベートーヴェン「貝多芬」があげらている(p19)。呉音が日本語に残ったのは仏教、医療分野に多い。例として、如来(漢音ならジョライ)、供養(漢音ならキョウ)、諸行無常(漢音ならショカウブジャウ)、六根清浄、精進料理、外科(漢音ならグヮイクヮ)、小児科(漢音ならセウジクヮ)。私には医療用語の漢音が沖縄の言葉みたいに聞こえる。呉音と漢音が同一の漢字は、漢、学、東など。呉音以前の音は、「相(サガ)」、「馬(ウマ)」、「梅(ウメ)」、「銭(ゼニ)」、「竹(タケ)」など。漢音以後の音は、「鈴(リン)」、「燈(ドン)」、「請(シン)」、「子(ス)」など。戦後新字体と[正字]については(表記できない環境依存文字などは飛ばすが)、漢、体[體]、教、雑[雜]、戦[戰]、国[國]、会[會]、当[當]、来[來]、気[氣]、都、涙、徳、徴、急、掃、習、消、毎、憎など。略字と[正字]については、医[醫]、声、変[變]、余[餘]、予[豫]、台[臺]、弁[瓣,辨,辮,辯]、郷など。
<2012.6.21>