書評


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[ゴミ]岩田規久男(2009)「世界同時不況」ちくま新書

 はじめにを見れば、愚書であることは明瞭だが、この手の本は共通の論理構造を持つので、このゴミ本を使って、その詭弁とか論理破綻ぶりを指摘しておく。

 著者は、「はじめに」で次のように述べている。

 「市場原理主義者」批判者は、新古典派経済学や「新自由主義者」は、ルールや規制のない「自由放任経済」がもっとも望ましいと主張しているという。しかし、新古典派主義者も「新自由主義者」も、その意味での「市場原理主義」を主張したことなど一度もない。

 まず、経済学史や経済学のテキストには、Adam Smithを使って、夜警国家という最低限の政府介入を除き、新古典派経済学は、市場に信頼を置いていると、たいてい書いている。そして、論争の際は、規制緩和こそすばらしく、できるだけ簡素な法さえあれば、自由放任が望ましいという学者もたくさんいる。まず、そうした事実はあるが、百歩譲っても、私の知る限り、著者の言うような『新古典派経済学や「新自由主義者」は、ルールや規制のない「自由放任経済」がもっとも望ましいと主張しているという「市場原理主義者」批判者』がこの世に存在しない。

 似て非なるが、新古典派経済学や「新自由主義者」は、ルールや規制のできる限り少ない「自由放任経済」がもっとも望ましいと主張しているという事なら分かるし、そのような市場原理主義批判者なら山ほど知っている。私も市場原理主義者はそのような主張をしていると認識している。

 この「できる限り少ない」などの限定条件をはずして、極論を主張しているとレッテルを張り、その極論にだけ反論するという論理構造は、馬鹿が良く使う。

 次に「はじめに」の最後の部分を引用する。

 こうした本書が採用したアプローチによって、「資本主義は自壊した」といった言説は短絡的な反応であり、「苦い経験に学びながら、絶えず、資本主義の望ましいあり方を求め続けること」こそが、私たちのとるべきアプローチであることを、読者に理解していただければ、著者としてこれ以上の喜びはない。

 典型的な二重基準というか、信仰の表明をした箇所である。この手の論理を使うのがダメな理由はいろいろある。例えば、同じ論理構造で、著者と反対の立場を正当化できる。例えば、中国共産党が、市場原理を否定する立場を取り続ける際に、資本主義の部分を共産党一党支配にでも置き換えればいい。『こうした本書が採用したアプローチによって、「共産党一党支配は自壊した」といった言説は短絡的な反応であり、「苦い経験に学びながら、絶えず、共産党一党支配の望ましいあり方を求め続けること」こそが、私たちのとるべきアプローチであることを、読者に理解していただければ、著者としてこれ以上の喜びはない。』と全く正反対の事が言える。

 なぜ、こうなるのかといえば、この箇所には、「資本主義は前提として正しい」という論理が背後にあるからである。だから、資本主義を何に変えても、信仰の表明として、同じ論理構造で正当化できてしまう。だから、これも馬鹿が良く使う詭弁である。

 この本が悪書だなと思うのは、日本のバブル崩壊後、世界がBIS規制を入れろとか、アメリカが公認会計制度をアメリカ型にしろとか、さんざん圧力をかけてきたが、厳しい外交交渉のなか、銀行のBIS規制に関しては日本だけ特例を何個も作った。そのお蔭で日本の銀行は経営破たんを免れた側面が強い。そして、アメリカがサブプライム=ローン問題でこけたら、早速、日本に要求した金融の国際ルール自体を、アメリカが否定してしまったということが、まったく分からないように書いている。幼稚だ。

 著者は世界同時不況というが、アジアは成長率が下がっただけで、実質でも4-5%くらいの中成長をしていることを自ら認めている。それでも成長率が鈍化したのだからと言って、世界同時不況と言ってしまうくらい、岩田の論考は雑なわけだ。成長率の鈍化は加速度の減少と同等だが、経済規模が拡大していることに変化はない。普通の経済学者は、経済規模が拡大している地域を不況とは言わない。延々とこの調子なので、後の批判は、間違い探しに興味がある読者に任せる。枚挙に暇がないので、私はこれ以上書く気はない。

 アメリカに頼まれて情報操作している以外の理由が見いだせない本である。

<2012.7.3>

Kazari