書評


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[低質]林俊郎(2008)「環境ファディズムの恐怖」一藝社

 事実関係がかなり間違っている批判本でびっくりした。まず、この内容で「環境ファディズム」でくくれるという考え方自体が5章を読んでも分からない。日本が諸外国に遅れて、ダイオキシン対策法ができたわけだが、この本によるとその諸外国の対策を一切無視して、ある科学者のでっちあげを契機に、毒性の少ないダイオキシンを無駄に対策したという主張になっている。

 日本がダイオキシン対策を諸外国に遅れて法制化したことや、平成10(1998)年に法案が成立する以前は環境省が法規制の妨害すらしていた事実には触れられていない。諸外国では、フィルターなどの装置によるダイオキシン処理が基本(例.ドイツ)なのだが、日本では大型焼却設備による高温処理で対応した。この辺も不誠実にしか書かれていない。この大型焼却装置メーカーに対する公共事業費が、カルテルにより高止まりしたことも事実だが、これらの行為は、「環境・・・」云々というより官民癒着による普通の不正行為だ。インフルエンザは厚労省だし、BSEは農林水産省、一辺倒のスギ植林も林野庁(農林水産省)と扱っているテーマも環境とはいい難いテキトーなものだ。水資源への途上国への介入は、先進国の飲料メーカの利権がからんでいるから、環境省というより、どちらかといえば経済産業省の不祥事に該当する。これを環境云々と言われてもねぇ。

 インフルエンザに対して、パンデミックを煽る報道を、NHKなどを中心に批判している。インフルエンザ以降は、米国の資料調査をしていて、厚生省が人より業界を優先して、血液製剤由来のC型肝炎発症を長らく放置してきたことや、タミフル利権にからんだインフルエンザ・パンデミック報道の批判を行っている。水に絡めて、畜産業のこともいい加減な意見を書いているが、水循環に関して言えば、畜産業は水の栄養価値を大幅に高め排水する産業で、沖縄などではサンゴ礁の壊滅の原因ともなっている。それを宗教観とかで括られてもねぇという感じである。

 2章はマーケティングからみたあるべき企業の姿みたいな感じだが、本書の主題とかけ離れている。3章は耐震偽装で、やはりあまり関連性がない。4章は、歴史・社会・個人 お婉さまの糸脈で、主題との関連性が不明である。

 このファディズムという言葉自体、Food Faddismあたりから流用されているようだが、健康食品などの方が当てはまりがよさそうだ。それを5章に書くこと自体、センスがない。「はじめに」で断り書きすべきことである。

[低質]Jose Antonio Ullate Fabo[著]目時能理子[訳](2006)「反ダ・ヴィンチ・コード」早川書房

 「ダ・ヴィンチ・コード」の類が、「ユダヤ人と日本人」や「少年H」と同じトンデモ本であることは疑いの余地がないが、それを批判する本としては、あまり出来が良くない。ダン・ブラウンが「ダ・ヴィンチ・コード」に書いたことは真実と主張しているらしく、その事を批判する立場で本書は書かれている。

 浅見定雄『にせユダヤ人と日本人』や山中恒「間違いだらけの少年H」の方がはるかに上等である。

 こういう書物には感情的な文章は必要なく、事実関係を淡々と批判してほしい。例えば、中世の教会は、異教を題材にした芸術作品に寛容であるなどの事実の指摘は、具体的な事例を写真にでもしておけば、更にわかりやすい。サン・シュルピス教会に異教といえる構造物や芸術品がないなら、それも写真を載せてほしい気がする。指時計は天文道具だから、宗教性がないなら、それも写真を載せてしまえば済む話の気がする。

 その一方で、「ダ・ヴィンチ・コード」の著者に対する楽観的な叙述もある。シュルピス会が敬虔なカソリックで、異端を厳しき排除した事で、教皇聖ピウス10世が「フランスの救いであった」と称えて言ったことなどを記して、「ダ・ヴィンチ・コード」の著者はこうした事実を知らないのだろうと書いている。たいていトンデモない主張をする人は、悪意があって、一般的に敬虔と思われている会派などを意図的に貶める必要を感じて、事実と異なることを書いている事が多い。証明は難しいから穏便に書いたのだろうけれど。

 後はダン・ブラウンが間違っているとファボが主張している点を参考までに列挙しておこう。最初に著書の叙述内容、その反論の趣旨を書いていく。

 1.「ミツバチの雌雄比率に黄金率がある」p54-56, 「ダ・ヴィンチ・コード」20章129-130頁

実際には存在しない。一年を通じて大幅に変化するし、その変化幅を考慮しても黄金律に近づくことはない。

 2.「レオナルド・ダ・ヴィンチ」は女神信仰者。p56-62, 「ダ・ヴィンチ・コード」20章134頁

そのような証拠(作品や伝記)が一切ない。

 3.「同性愛者ダ・ヴィンチ」がモナリザを命名した理由。p63-66, 「ダ・ヴィンチ・コード」26章167-170頁

ダ・ヴィンチは男色を行ったと二度匿名で告発されたことがあるが、いずれも証拠不十分で不起訴になっている。歴史上は政治的報復が疑われている。モナリザという絵画の題は、ダ・ヴィンチが命名したものではない。一つの絵画にも命名することなく、1519年にダ・ヴィンチは他界し、この「モナリザ」として知られる絵画も当初の題(死後6年後)は、「あるフィレンツェの貴婦人の肖像」である。その貴婦人とは、フランチェスコ・デル・ジョコンドという商人の妻リザ夫人だと言われ、モナは既婚女性に対する尊称マドンナの省略形である。そもそも、アナグラムに必要なアモンAmonは、エジプトでの名前がアメンAmenであるから成り立たない。

 4.「魔女狩り300年の間に500万人の女性が処刑。p69-71, 「ダ・ヴィンチ・コード」28章175頁

「マレウス・マレフィカルム」が教会の公式文書でない。公式の歴史書から累計した魔女裁判死刑者は、1998年ヴァチカンの「異端審問」の本で明らかにされた。その書物によれば、異端審問で死刑されたのは、スペイン59人、ポルトガル4人、ローマ36人。教会側の提示した記録が正しいとは限らないが、ダン・ブラウンが少なくとも別の資料による論拠を示す必要がある内容だ。

 上記以外は面倒なので、後は誤謬該当箇所の頁の提示だけおこなう。「ダ・ヴィンチ・コード」28章174頁、28章175頁、28章175-6頁、30章184-87頁、32章193頁、32章194頁、33章203-4頁、40章236頁、36章218頁、37章221-22頁、36章218頁、39章234頁、55章329頁、55章330頁、58章13頁、58章16-7頁、58章17-8頁、60章28頁、60章31頁、60章32-3頁、60章33頁、62章48頁、74章105-6頁、74章106-7頁、28章176頁、58章13頁。

 大雑把にいえば、歴史事実の歪曲、作中登場人物の場面における年齢の不一致、グーノシス派とカットリックの混同、ニケーア公会議におけるアリウス派とカソリックの混同(エホバの証人とモルモン教徒と同じ)などになる。映画自体はテレビで見たが、カソリック嫌いの人の手によるフィクションくらいの印象しかない。こんな下らない小説や映画で、一個人の宗教観が変わるなんてことがあるとは信じがたいが、自分で調べない馬鹿が増えたのなら、大変な世の中になったものだ。

<2012.7.12>

 ダビンチコードの批判本自体の検証もしておいた方がいいのだが、なかなか時間がなくてできない。エジプトの神については、次の本が参考になりそうだ。

Srephane Rossini, Ruth Schumann-Antelme[著]矢島文夫,吉田春美[訳](1997)「図説 エジプトの神々事典」河出書房新社

 この本の序文(11頁)によれば、アモンはローマ字に翻訳した文字表記すれば、imn(この場合のiは子音)で、コプト語やギリシア語の読みとしては、アモンであると書かれている。同時に、このアモンの読みはたぶん実際の発音に近いものだが、エジプトのiに相当する文字は一種の「子音文字なので、次にくる母音がイであったのか、アであったのかはそう簡単に分からない」という解説もなされている。そしてイメンという読みもつけている。12頁の発音表によれば、mの後にくる母音の可能性は、「メ」、「ム」のみが示されていて注にも「モ」がくる可能性の言及はない。

<2012.9.18>

 Jose Antonio Ullate Faboが書いたダビンチコードの批判本に「アナグラムに必要なアモンAmonは、エジプトでの名前がアメンAmenであるから成り立たない。」とあるが、この批判は成立しないようだ。

 上記本に詳細は、下記の本を読めとあったので、読んでみたが、やはり古代エジプトの発音は正確には分からないということのようである。wikipediaのエジプト語の解説にも、「そのため、アメン神がアモン神と呼ばれることがある。」と書かれている。世界大百科事典のエジプト文字の項目にも、「テーベの市神の名をAmon,Amen,Amunなどと綴って,一致を見ない。」と記載されているようだ。

Srephane Rossini[著]矢島文夫[訳](1988)「古代エジプト文字入門」河出書房新社

<2012.9.20>

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