[良書] 青空文庫の太宰治
太宰の小説はうまい。それに知識がないと読みこなせないものが多い。例えば、「貧乏学生」は数学者ガロアやアベルが出てくる。仏文関係のヴィヨン (Fran醇Mois Villon,1431年? - 1463年以降)の言葉も出てくる。知らなくても楽しめるようには書かれているが、知っているとなるほどと飲み込みやすい。「ダスゲマイネ」なども同じである。
[普通] 鈴木晶(1999)「フロイトからユングへ 無意識の世界」NHK出版
精神病を患ったことはないが、もし自分が患いそうになったら、私は、哲学や精神分析関係の本を読んで解決することに決めている。精神科医や誰かに頼ることによって、精神的な安寧など得られるとは思っていない。もし体育会系の人で、精神科医や誰かに頼って精神的な安寧を得られる人は、医者にかかればいいだろう。きっと病名を与えられると安心するはずだ。
フロイトの「夢診断」、「精神分析入門」を新潮文庫ではじめて読んだ時は、そんなものかという印象しかない。開発経済を勉強するようになってから、フロイトを読み返した時は、フロイトはひどい偏執狂すぎるという印象が残った。例えば、夢診断において、本書の指摘する通り、患者のもたらした情報が重要で、話させると勝手に患者自身が治していくという事が指摘される一方で、解釈には独特の手腕が必要で、フロイトにはできるが、簡単ではないといった事が書かれている。
この二律背反な態度がとても気持ち悪かった。フロイトは自身の行う夢診断は間違いないが、他の医者は間違うという自分の才能に対する極度の自惚れと、患者は自分自身で治療するという、まるで精神科医の能力に依存しない2つの基準を都合よく使い分けている。こういう理論を作る人は、私の人生経験上、性格が悪い。そして、執拗な攻撃性を持つ人物が多いため、表面的な社交性はともかく、実際は家庭内に閉じこもって攻撃的な性格の人と思われ、多くの犠牲者がいたのではと思っていた。
この書物によれば、フロイトはユダヤ人で、弟子との間で意見が合わなくなると断絶し、その後、執拗に攻めたてたと見える。ユングは絶交後、極度の鬱に陥っていることや、よりひどい場合はかつての弟子が自殺に追い込まれていることが紹介されていて、さもありなんと思った。
フロイトの生きた時代が、性に関して禁欲的だったとしても、その性を広くとらえるにしても、精神病の要因となる抑圧が、すべてその性的な問題に帰着するというのは迷惑な考え方である。しかし、フロイトの顧客はユダヤ人の富裕層に限られていることから、性的な解放とかが病気治癒として一財をなした事実を今日から見れば、胡散臭いセックス教の類を推奨していた可能性もある。フロイトの精神分析を使った文芸批評の手法を使うと、フロイト自身がセックス教祖になるはずだ。
本書にフロイトの再評価として、ラカン(Jacques Lacan)の「精神分析の四基本概念」についても、リビドーやオイディプス・コンプレックスが紹介されているが、これはフロイトの抑圧をリビドーと呼び、すべての抑圧を親殺しに帰結しようとする特殊な考え方なんで、やはり実際の治療にはまったく役立たないと感じる。「精神分析の四基本概念」を読後感として、フランス人の言葉遊びが過ぎるかなという印象が残っている。
フロイトのもたらした精神分析を利用した文芸批評は不毛の極みなのだが、今日の日本の文芸批評にも多大の悪影響を与えている。後の私小説は私生活を描いたものという言葉尻りから、作者の生活実態を作風と結びつける不毛の文芸時評が続いている。最たる不毛の典型が猪瀬直樹の三島由紀夫論である。三島由紀夫論なら澁澤龍彦以上のものは読んだことがない。本書の文芸批評の箇所も結構長いのだが、まるで見当違いなので文芸批評絡みの記述は読むだけ時間の無駄である。
フロイトと同時代のアードラーについても簡単な解説がある。アードラーは共産主義的な思想をもっていたそうで、フロイトへ対抗した心理学をうちたてている。ユングはフロイトと決別した後に、より豊富な精神病の目録作りと分類に励んだ人の印象がある。私はユングの著書を直接読んだ記憶はなく、河合隼雄の本程度しか読んでいないが、いずれにしても、もし治療が必要な事態になったら、森田療法とかの方が私には合いそうだ。
私は夢や無意識は、意識下での情報を整理して消化するための時間で、そのプログラムの秘密が分かるほど現在の医学も心理学も科学も進んでいるとは思わない。抑圧があれば、その抑圧を和らげる措置が行われているはずであるが、意識下でも対処はいろいろできる。進んで快楽を追求することも気晴らしになる間は有効である。快楽は性的なものに限らない、開高健のいう快食快便主義でも、衣服でも、音楽を聴く、演奏する、芸術鑑賞、スポーツ何でもいい。
246-7頁はあまりうまく書いていない。ユングはある患者の語った印象が、その患者の入院後に、ギリシア語で書かれ、出版されたミトラ神話と類似していた事例を取り上げている。ここから、2つの説明可能性しかないとして、1.同じものが独立して生まれた、2.伝播した、を挙げている。そして、ユングは、1の立場、人が考えると、共通の本能によって同じような話を作り出すと考えたらしい。本書では1,2のどちらの立場にたったか明示的に書いていないし、その説明箇所の論理的な流れもよくない。
ユングは、意識、個人的無意識、集合的無意識の3つに分け、個人的無意識に自我、集合的無意識に自己があると考えた。自我を守るために、ペルソナ、社会に対して演技する自分を形成してクッションを置く。そうすると、理想形の自己との間にかい離が生じた際に、ペルソナと理想形の間の溝が深まり、分裂症的になる恐れがある。ユングの投影と元型の考えはやや道徳的すぎる。ユングは自己に自我を導く役割を当てている。筆者はこの自己を神と考えていいとして説明している。しかし、後の説明を読むと、自我の理想形程度でもいいように書いているが、そうだとすれば、集合的の無意識の自己と意識下の理想形の自分像との差があまりうまく説明できていない印象が残る。
集合的無意識の方には、社会からの無形の影響みたいなものを想定しているのかと思ったが、そうでもなさそうだ。あくまで無意識下という想定だが、人間の成長過程において、自我の成長が必要で、その成長のために、無意識の意識化が必要みたいに書かれている。結局、ユングにとっては、集合的の無意識の自己と意識下の理想形の自分像に明確な差を設けていないかもしれない。たぶん、フロイトが性的な偏執狂で、道徳的に正しくない方向で治療していたから、ユングはフロイトの治療方針への反発から「人間の生きる意味は道徳的な正しい人間像を追求すること」といった価値観を軸に、心理学的治療が行える理論的枠組みを作る必要を感じたのだと予想する。
ユングは道徳的すぎる。ユングは、年齢とか人間の生きる目的を(進歩史観に沿った)人間の成長過程として考えたらしいが、それが私のユング評価が下がる要因になっている。ユングは、人間の生きる意味を「神のようないい人間を目指す」といった単純な道徳目的に置いているように思える。中学生ならともかく、大人がそんなきれい事で生きているとは到底思えないし、精神病にかかる人なら猶更、そうした単純な人間像から外れているように思う。
<2012.10.29>