[低質] Richard K. Lester[著]田辺孝二[ら訳](2000)「競争力」生産性出版
経営学系の本を読んで、最近痛感するのは、分析の前提や暗黙裡の仮定が間違っていることである。本書も、以前批判した本と同様に、企業は歴史的に進化しているとの暗黙裡の前提を置いて分析している。
もうひとつ、経済学者や経営学者が企業分析する際に、共通してみられる分析手法についての誤謬がある。経営者の発言を真に受けて、背景の調査をさぼることである。例えば、企業の財務指標と経営者の投資ビジョンなどをインタビューしただけの内容から強引に分析して、奇妙な結論を導く研究が後を絶たない。経済学者で典型的に馬鹿げたのは伊藤元重あたりが書いている。経営者の発言が本当か、確証を得るために工場労働者にも(経営者には告げずに)調査しないのは手抜きとしか言いようがない。調査の初歩を知らない人間のやり方である。自分に嘘はつかないという学者の自惚れがもたらす喜劇である。
この本も同様に、経営者らが世界的な大競争時代だと言えば、詳細な歴史的検証もせずにこの発言を真に受けた立場で分析している。非常に愚かな態度である。そのため、10章で長期的視野にたって、従業員と家族的な関係を築いて成功している企業事例を挙げておきながら、例外として切り捨ててしまう。いつの時代にも企業間の競争はあった。いつの時代のどの産業がもっとも競争的か、明確に科学的に判断できる指標は、現在の経済学でも経営学でも提供されていない。されているというなら、本書は前提として世界規模の競争にさらされていると言う前提で分析するのだから、その事は示しておくべきだと思う。
競争の過酷さは、製品の品質が同等な割に、参入企業が多いほど過酷というような状況について説明はできても、それ(特に前者)を指標化することは不可能なため、客観的な判断を行うことはできない。一企業が一品質の一製品を作っているわけでもないし、業界で同品質製品だけの経営指標を比較検討できる企業統計を提供しているわけでもない。そのため、どの時代のどの産業が最も競争にされされていたかを定量的に科学的に把握する方法は現在、存在しない。存在しない以上、こうした発言を正しいという前提で分析を行うことは非科学的であると断定して構わないと思っている。
本書はTQC活動の意義をまともに把握できていない。TQCが生きるのは、工作機器などの投資された設備が、現場で製品説明書に書かれたような性能を発揮しない場合に、それを短期的に効率的に、当初計画の採算ラインに引き上げるような短期的な効果と、もうひとつの効果があるからである。後者の方が大事なのだが、もし継続的にその工作機器メーカーと付き合う気があるなら、TQCによって得られた情報を共有することで、その納入した設備の改良版を有償もしくは無償で提供してもらう事、こうした一連の工場生産部門から購買部門などの企業内の連携や協力企業との共同作業によって、労働者の意欲を引き出せることにある。もしこうした事が現実におきれば、工場勤務者は、自分のTQC活動が、企業に貢献した事を実感でき、それが働く意欲につながっていく。それを本書は本質が理解できていないので、奇妙な曖昧語でお茶を濁した作文をだらだらと書き連ねている。こうした駄文によって、精力的な分量の割に中身が薄いという結果に陥っている。
また、本書は企業組織と労働者の関係をメインにする割に、経営者の欲望である価値観、「労働者=生産道具」観が随所に顔を出す。これが本書を余計に低質にしている。
<2012.11.16>
もうひとつ悪意に満ちた歪曲があったのを書き損じた。この本は、日本の官民の半導体開発の政策の成功を官民癒着の談合の成功例であると事実を捻じ曲げて曲解している箇所がある。それを理由に自国のカルテルを正当化しようとした箇所もある。現実には、民間の開発チーム間の著作権の放棄がもたらした功績なのだが、著作権の放棄の成功例というのは、アメリカの「独占によって競争の勝者となることを善」とする最近の経営学としては受け入れられなかったのだろう。こんなところにもアメリカの帝国運営が破綻しかかっているのだなぁと感じる。
現在、アメリカでは、著作権訴訟による非効率な競争の真っただ中にある。SamsungとApple、Appleとmotrola、AppleとHTCなど枚挙に暇がない。昔は著作権がほとんどなかった時代もある。その間に投資が停滞したという歴史的な証拠はまったくない。一番初めの著作権は、無料で利用して開発した物を今後は有料でしか使用できなくする仕組みでもあるから、世代間不公正を生む温床にもなる。現行のような著作権の行き過ぎた保護は、世代が下るほど開発費用を増すことになり、成長の余地をなくす。
<2012.11.19追記>