書評


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[超低質]赤西準子(2004)「環境リスク学」日本評論社

 経済学でもリスクに関する考えはいろいろあり、参考にならないか読んでみましたが、まったく役に立たない考えで残念です。

 環境リスク学の考え自体にも問題が多く、その割に著者がそのことすらあまり意識できていない事に唖然としました。統計を使うリスク、費用対効果などの経済的視点を入れるリスクが著者にはまったく理解できていないものと思われます。本書を読むと、著者自体は助手時代に下水道に関する公害問題に取り組んだりしているので、最初は悪い人ではなかったようです。しかし、途中から体制側に寝返って、水俣病関係の記述を見る限り、事実を捻じ曲げた記述があるし、被害者の救済を苦しめる提案すら行っているので、リスク学に転じた時点で、公害被害者つぶし側にたったとみて良いことが分かります。また、このリスク学の考えを利用すると、官僚が公害病患者の切り捨てを行うことも可能なので、弊害の方が大きいです。

 まず「対策費用を効果で考えることが、人間の生命に関わる内容に対して行っていいか」という疑問すら、著者は持っていないようです。

 こうした考えは開発経済学でも重要でして、例えば、本書でもベトナムの枯葉剤に言及しているので、次のような事を考えてみましょう。

 本書の言うように、確かに予算に限りはあります。ベトナム政府は、限られた予算で次の二択を迫られているとします。枯葉剤の犠牲者と地雷の犠牲者の救済です。話を単純化するために、どちらか一方しか救済できない。枯葉剤の犠牲者はベトちゃんドクちゃんのみと仮定します。彼らを救うには、少なくと数億円以上の費用が掛かります。仮に3億円とします。地雷の犠牲者は、地雷で片足を失った人たちとします。義足を作るには、一人100万円程度で済みます。仮に100万円とします。ベトちゃんドクちゃんを切り離しに成功しても、2人の労働者しか生みませんが、義足で歩行できるようになる労働者は300人増やせます。この時、費用対効果で見ることは、何らかの正しさを保証することになるでしょうか。

 生命保険の正しさというのは、こうした倫理的問題を無視しているから、できることなのであって、裁判の賠償保障も同じです。何ら科学的根拠になる正しさを担保にしていない政治的な解決手段に過ぎません。著者がこの歴然たる事実を無視しているのには、疑問しか感じません。

 この手のリスクに問題があるのは、時間軸を無視している点にも表れます。イチローが高校生の時に、交通事故によって身体障碍者になれば、どの国の優秀な裁判制度でも3億円程度の賠償が関の山ですが、イチローが9年連続200本安打を達成した時に、交通事故によって身体障碍者になれば、気の遠くなるような巨額の賠償請求を起こせることは現行の制度でもほぼ確実です。イチローが高校生の時に、イチローの高校生の時の交通事故にあうリスクは、今となっては完璧に超過小評価だったと断定できます。

 環境の場合、アスベストなど潜伏期間が長い公害病に当てはまります。当初少なくとも1950年代は、アスベストの害は知られていません。環境リスク学の視点にたてば、リスクゼロで、がんがんアスベスト対策なしに、生産して構わないことになります。

 1970年代になってアスベストの有害性が認識され、先進的な国では、規制対象になっていきますが、この時点で、環境リスク学の視点にたっても、アスベスト被害は過小評価になります。

 つまり、このような被害が出てから、リスクの費用対効果で処理というのは、その被害が出てから対策することに他なりません。ある意味、被害が出るまで無視という犠牲者泣かせの制度化につながりかねない考え方です。

 科学者というのはいろいろ謙虚でなければならないのですが、中西準子には十分な謙虚さが備わっているように思えません。

 水俣病に関しては、162頁に歴史事実を捻じ曲げる虚偽記載があります。裁判記録を見れば明らかですが、当初公害を排水したチッソは、裁判に関する排水に関する科学データの提出を拒みました。また、水俣市の税収はチッソに頼る所が大きく、雇用もあったため、熊本県自体が、公害の隠ぺいを行う側に加担してきました。その代表が、熊本大学研究班と東大の教授陣です。その熊本大学研究は、チッソの排水データを無視して、伝染病説、マンガン主因説、セレン説、タリウム説と、謬説まき散らしたことで、裁判を遅らせることに貢献しました。wikipediaにも不誠実な記述しか見られないのは残念です。水俣病が一般に膾炙したのは、確かに石牟礼道子(1969)「苦海浄土 わが水俣病」ですが、地元の医師や宇井純の貢献を意図的に無視しています。wikipediaによれば、当初、メチル水銀の毒性をうんぬんというチッソ側の言い分を前面に載せている割に、反論の部分はほとんど取り上げてない偏ったものになっています。また、チッソは意図的に浄水装置をつけた後の排水データを裁判で開示したり、それ以前の排水データも持っていたのに無いと虚偽証言して公開しなかったために、裁判が長引きました。

 中西準子は、水俣病に関しては、熊本大学研究班の説だけ取り上げ、因果関係が分かるまで対策しようがないと嘯いており、性質が悪い主張を行っています。別の頁には賠償金を諦めて、医療補助だけ受けられる原告団に働きかけて、顰蹙を買っています。その後の裁判で、原告側は、賠償金と医療費の全面負担ともに勝ち取りましたが、こういう馬鹿が公害を助長するかと思うと腹が立ちます。

 中西準子は、思考力の麻痺で科学的指標による重要性を主張しますが、本来の意味でリスクを避けるには、因果関係がはっきりしない段階で手を打たないと、被害が甚大になることは、水俣病の事例を見ても明らかです。たった2例(ダイオキシンの経口摂取とBSE)の規制を持って失敗と断じる(電磁波は規制というより乗車マナーにしかなっていない。法的規制ではないし算入していない)なら、四大公害病やアスベストは規制が遅すぎて被害が甚大になった事例なので、よりリスクを過大評価することの方が、歴史的には正しいとすら、言えそうです。

 公害物質はすでにあらゆる物質にあるから、リスクと便益を比較して、魚類も食べていこうというのは何の解決にもなりません。その数値を下げるとか、回収して封じ込めることを考える方が健全です。どうも中西準子は、確率論を静学的に捉え、被害者に苦痛や我慢を強いる方向で、統計を使うことに悦楽を覚えているようですらあり、気持ち悪いことこの上ありません。こういう御用学者がいなくなることを心より望みます。

<2012.12.23>

Kazari