書評


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[低質] 古賀茂明(2011)「官僚を国民のために働かせる方法」光文社新書

 古賀の言動は官僚の時は穏健で、飛び出した後は少し過激になった印象があるが、先に大学に飛び出した人などに比べると、中途半端感が否めなかった。大して期待していなかったが、どんなことを考えている人かを確認するために読んだ。帯に「霞が関を離れても、訴えたかったことを、ここに語りつくしました」とある。古賀を含め最近の東大法学卒は浅知恵の人が増えた。

 私が彼と同意見なのは、公務員の給与が現行で高すぎる(3割カットすべきだ)ということと、公務員に「公僕精神」を取り戻させることの二点くらいである。

 まず、公務員全体の一括人事院構想は、他の人でも自衛官などでも支持している人を知っているが、実施しても古賀の言うように国益重視にはならない。より公務員利権が国家単位で強化されるだけである。省益が公務員益に変わるだけで、国益にはならない。古賀氏の嫌う現在の公務員の活動のほとんどは、公務員益>省益>国益、もしくは、省益>公務員益>国益の順に行動している。ここから、省益を取り除いても、公務員益>国益になるのは自明である。この著書に散りばめられている公務員の言動や行動からも、そのように推察できる箇所は多々あるが、古賀だけは分からないらしい。

 また、小泉の郵政改革が公務員改革につながるかのような印象を与える文章があるが、馬鹿げた見解である。これは単に小泉がアメリカ利権のための行動を取ったともいえるし、郵政を民営化し、財務省の天下りポストを用意するために行ったともいえるし(この事は本著の別の個所に書かれている)、国の予算規模を小さくして、日本の経済発展戦略の取り得る政策範囲を狭めた(亀井静香説)ともいえる。

 古賀の話には、暗黙の前提が多い。例えば、民間は官僚より優秀とか。私も日銀の職員の方が財務省の官僚より優秀だとは思うが、民間の方が全般的に公務員より上だとは思わない。優秀な人材に関しては、どっちもどっちである。地方公務員の二種クラスは、民間の事務員より質が低い割に給与が高いなら同意するけれども。

 給与体系を民間化すればうまくいくとも思わない。扱う事業が同じなら、民間に任せればいい。古賀自体が廃止した財団などは現実にそうしたようだ。不要な事業はそもそも公務で行なければいい事である。

 公務員には、責任主体として責任を取る仕組みを設けるなら、それは公務員という労働者にすべて責任がいくようにすべきかも疑問である。まず政策決定メカニズムが明瞭にされ、失敗が繰り返されないように国民の審判を仰ぎつつ改善されることの方が大切なはずだ。そうした仕組みが民主主義のあるべき姿のはずだからである。古賀の提案には、民主主義をないがしろにした市場万能論かなと思える提案が多い。

 現在の密室で決まり、責任も蓋というシステムではよくないのは確かだが、その責任のすべてが役人だというシステムも理不尽に過ぎない。構造的にすべて政治家の責任にしても極端すぎる。法学出身者として異端ぶりがよく表れているが、国が率先して労働基準を守るなら、それはそれでいい事である。民間に強要せずに自分たちだけなら問題だし、厚生労働省では実施されるが、他の官庁の国会対策関係部署でサービス残業も論外ではある。「官僚組合が都合のいい時だけ、特別の労働基準を主張すること」に異議を唱えるのは古賀と同じだが、国民や政治家やマスコミがしっかりしていれば、これらの慣行を正すことは直ちにできることのはずだ。現在は、政治家やマスコミの腐敗が激しくできなくなっているにすぎないと思う。

 政治家が人事権を把握するなら、政策責任は政治家にある。古賀の提案を丸呑みすると、現状の官僚の無責任システムを政治家に責任転嫁するだけの構造になっていることには違和感しか感じない。古賀の提案には、結果として公務員のための改革になっている部分も多々ある。

 私が古賀とは異なり、公務員の給与体系を民間の(正社員以外を含めた)平均給与に連動させるべきだと考える理由は、公務員の給与を国益に直結させるためである。民間組織と同じ給与方式にしても、民間との癒着から生まれる予算の無駄が消える道理は存在しない。そんなことしても接待すらなくせないだろう。公務員の税金による予算の消化という特権が消えるわけではない。また、古賀は、公務員も民間の人事評価制度を導入して、管理職で評価の低い下層3割を降格すればいい(民間は1割だが公務員は質が低いから)と提案しているが、これにも暗黙の前提「公務の人事評価を行える客観的指標が作れる」が使われている。古賀の提案したシステムが円滑に機能するには、客観指標が作れるか否かが争点になるはずだが、本著で検討すら行われていない。結論を言えば、先進諸外国でこれらの実験は概ね失敗している。予算内での実施も空しい基準だ。最初の予算案自体をクリアが簡単なものだらけにすればいいだけの話だからである。この古賀の人事評価システムでも、馬鹿でも出来る管理職だらけになることは疑いの余地がない。

 もう少し、全般的にまともな立案をして欲しい。国家公務員にスト権を与えて、劇場的に対峙しても良い効果が得られるとは思わない。

 古賀とは違い公務員改革には公務ならではの難しさがある。公共事業は、市場で競争しているわけではないので、売り上げなどの客観的指標がないし、特定公共サービスの適正水準も、一概に決められるとは限らない。それらを加味しても、破綻しないシステムは、古賀の提案には含まれていない。例えば、古賀の言うように政治家が、政策の優先順位を毎年決める予算方式にしたと仮定しよう。二大政党制の下で大幅変更が政権交代ごとに行われれば、それは政権交代後の予算編成後、早ければ2年後に、省庁の事業再編を大幅に行う事を前提にしなければならないが、それはまともなシステムといえるのだろうか?民間ほど公務も激しく変動させるべき公共サービスを提供していると言えるのだろうか?どうせ政治家は変えるガッツがないから、このシステムを導入すると、官僚は政治家の責任の下で、無責任の裁量権が与えられる結果につながるという(古賀の)悪意すら感じる。古賀の提案を読んでいると、ジブリ映画の「紅の豚」に出てきたカーチスに言ったジーナの言葉「ここではあなたのお国より、人生がもうちょっと複雑なの。」を思い出す。私は古賀のように単純お気楽に考えることはできない。総合的な公務員の労働関連法案の改革についてはいずれ私案を政策立案の方に書くことにしたい。

 古賀の提言の過半数以上は公務員の利益を強化する政策である。彼は「改革派」と口先で語るだけの利権屋にすぎないのではなかろうか。

<2013.3.16>

Kazari