[超低質] 間々田孝夫(2000)「消費社会論」有斐閣
有斐閣のシリーズには、特定の切り口が斬新な面白い書物が多いが、これはいろいろと中途半端である。この言葉の言われ始めが冒頭にあるが、もし本書が1950年代以降に重きを置いて書くなら、全般的に消費にまつわる問題を社会学的にアプローチするにしても、「論」程度の主張ならば、「消費問題論」でも「大衆消費社会論」でも何でもいい気がする。
構成要素は19頁にまとめられている。第一部の各章では、経済学者や経営学者からの説の引用が多い。人的被害をもたらした商品などの消費問題に目を向けるなら、いろいろなアプローチが可能だが、取り上げ方も経済学に引きずられ過ぎだし、どこまでも中途半端感が否めない。もう少し、社会問題を扱う際には、人権的な要素の検討も、法的な視点の検討も必要なはずだが、学際領域の割に、そうした視点は驚くほど欠落している。著者の力量不足にしても偏り過ぎだ。第二部では、歴史学者からの引用が出てくる。消費志向的人間がテーマになっているが、とても平板な理解でつまらない。この視点を導入することで何らかの議論が深まるとは信じがたい。第二部中間の奢侈品の消費問題もどちらかといえば経済学や経済史のテーマで殊更に他分野でとりあげるような事かなという気がする。第二部後半は完全なる学者の遊興モデルで消費記号論というものが紹介されている。くだらない。第三部は消費と環境だから、この本で唯一、実際の社会との関わりが深いテーマになっている。しかし、ここでも「甘やかされた消費者」という不穏当な表現が見られる。
本書の全般に学者の語彙遊び的な要素が強すぎるし、企業本位過ぎて、この「論」を学ぶことが、社会の何の実用に役立つのか、さっぱり伝わってこない。企業本位が正しいのだという意識を消費者に洗脳する効果くらいしかないのではないか。
社会問題に焦点を当てるなら、広告のあり方とか、消費者に伝えるべき商品知識とは何かとか、(広告などの煽りを伴う)果てのない刺激の追及の不毛性とか、そうした事を一般的に扱える理論道具とかを社会実験を通じて提供するとかなら、まだ学問の一分野としての存在意義が分かるのだがなぁ。ところどころに悪事を犯した企業も問題があるが、消費者にも責任の一端があると理不尽な責任転嫁を忍び込ませた文章さえあり、読んでいて不快になる本である。
この本の決定的な欠陥は、経済学的な視点を随所で引用しながら、環境問題という、市場も政府も失敗する可能性のある財・サービスについて、消費者にも企業にも責任があるみたいな不毛な論理構成を取っている点にある。制度の欠陥を特定層に押し付けても意味がない。例えば、消費社会の問題で、完全にこの本で欠落している問題群も、存在する。典型的には、フードロスなんかがある。昔から飲食店に出る残飯の量は市場経済ほど多いと言われ、実証研究の裏付けもある。もちろん社会主義にして、長蛇の列を待って食品を買い求めればいいとは思わないが、市場というのは多くの欠陥を伴っている制度なのだから、それを補うのに、教育も、法整備も必要という根本的な理解がなければ、社会をよくしていく視点など出てきそうにない。本書は色々な意味で不毛な書物である。
<2013.3.17>