[悪書]B.McPake, L.Kumaranayake, C.Normand[著]大日康史/近藤正英[訳](2004)「国際的視点から学ぶ医療経済入門」東京大学出版会
全般的に凡庸で事例が悪い。説明の仕方に著しい偏りが見られる。近代経済学のシカゴ学派的な極端な立場からの説明が目立つ。たとえば、経済モデルを説明する良し悪しは、予測の精度というフリードマンの解釈はかなり極端な考えである。もちろん理論は単純なほど簡明なため、現実を説明できる範囲での単純化は好ましいということは言える。しかし、本書のように、モデルが写実的である必要性はなく、仮定が現実的でなくてもよい、というと別の話になってしまう。本来、現実を写実的に描写して数学的に解ければそうするに越したことはないのだが、解ける数学モデルという要請から、単純化が必要になっている。どちらかというと、仮定の非現実性や単純化は現在の数学や科学の未発達がもたらしているのである。そう言ってしまうと、かっこ悪いから詭弁を弄しているに過ぎない。その辺の謙虚さを欠くと、本書のような愚劣な説明に終始する羽目になる。
特に経済的なことを抜きに説明できる事象を、無理やり経済的にとらえようとしている箇所などもあり、これも愚かしい。例えば、その日の食事に困る貧困層にとって、医療は受けたくても手の届かないサービスであることは自明である。それをわざわざミクロ経済学の奢侈財の概念や弾力性の話から説明するのは不適切だし、経済的にいう場合も、予算的に無理だと解釈すればいいだけの話である。こうした事例には経済学の必要すらないと思われる。こういう説明事例を見ると、教科書だけに腹が立ってくる。
本書で有用な箇所は、既存の研究について調査した内容の叙述に限定される。例えば35-37頁の中で「タバコ増税は(実証研究によるとタバコの需要は非弾力的なので)常に税収を増やす」などである。本来なら複数のどの論文によるか明示的に書く方が好ましいが、本書はそうした配慮もできていない。いろんな意味で質の低い書物である。
75頁に「完全競争市場にもよく似た市場も存在しているし、」とあるが具体例がない。ないものをあると嘯くのはよくないですね。これも本書の悪い点です。6章では次善の理論が重要とか寝ぼけたことを主張しているが、経済学的に鑑みると、医療サービスは典型的に市場が失敗する要素満載の産業であるから、市場の失敗を前提にした理論モデルで考えないといけないのは自明で、完全競争市場に必要な要件を詳細に解説することの方が重要なのに、そうなっていない。テキストとしてどうかと思う。前に医療系の計量分析で「因果関係が分析できる」と統計学の学者から怒られるような主張を行っている比較的売れている本があったが、医者が片手間で経済を学ぶとこのように杜撰なことになるのですかね。
第7章がまた劣悪ですね。本来なら「供給が自ら云々」はすでに近代経済学で否定された考え方ですし、シカゴ学派に引きずられすぎです。さらに言うなら、医療サービスを受けるかどうかの行動原理の要因を求めるのに、経済学のこの方法を使うのも間違いでしょう。普通に社会行動の要因分析を行えばいい話です。必要な検診を意識の低い市民に受診させるために、有益な役割を担うとされるのは社会実験で、かかりつけ医か、地域の保健師だったと思いますが、経済分析の必要がないです。単純に自分の行動を変えるのに、信頼おける情報源は何かという話なので。支払制度変更に伴う患者数の変化も、病院経営の問題で、やはり経済学と関係ないです。
第8章は説明が劣悪ですね。公共財の性質とその性質により市場における失敗が引き起こされ、望ましい供給量より過少供給になることはしっかりと理解できるように書かなければテキストとしては不合格です。
第9章はシカゴ学派らしく、費用便益分析。役に立たない学者の遊興モデルです。厚生経済学の中途半端な叙述、まともな説明になっていないなぁ。説明が難しいから逃げ出してはならないとか、自分の説明の下手さを学問の難しさのせいにしている。姑息ですね。
第10章は雑な費用便益分析の説明。どちらかと言うと病院経営コンサルタントの一事例ですね。経済学との関係性は薄いです。また機会費用の考えは問題が多いので、医療経済に応用してほしくないですね。「老人を事故死させたら年金支給せずに済むから機会費用が下がったとして加害者に礼金を払うのか」という趣旨の宇沢弘文の批判が明快でしょう。
第11章はようやく医療問題に役立ちそうな議論が出てきます。ここまで長いな。便益の貨幣評価は困難だから、貨幣評価しない効用で何とかしよう。効用の指標としては、質調整生存年(QALY:Quality Adjusted Life Years)を挙げている。QALYの定義の説明が本書にないので、他の手段で調べると、生活の質(QOL)を表す効用値で重み付けした生存年らしいです。これに平均余命をかけて、効用と考えるそうです。余命予測は当たらないことも多く現在は、患者への告知を廃止する傾向が強いので、あまり役に立つ印象は起きないですね。QOLに影響を及ぼす障害をさらに考慮すると、障害調整生存率(DALY:Disability Adjusted Life Years)と呼ぶそうな。生活の質(QOL)の指標化、病後の平均余命いずれも科学的根拠が脆弱な数字だから、不毛な議論で学者が遊興できそうですね。
第12章に全般的に脆弱な数値化を伴う作業なので、注意点が書かれている。経済学者として読んだ印象は、役に立たない感じしかないです。第13章は経済手法使うと二重勘定を避けやすいとか説得力に乏しい議論が書かれている。第14章は契約のタイトルなので、タイトルから書かれている内容を想像すると、情報の非対称性、取引に関わるゲーム論の話、産業組織論的な内容などが経済関連として思い出されるが、扱われているのは産業組織論。Williamson止まりじゃ、役に立たない初心者コースですね。限定合理性を非常にあいまいに用いているけど、これはきちんとゲーム論の初歩とその含意を説明しないといけない経済学的に特殊な専門概念です。一般用語的にさらっと流されてもねぇ。
第15章は市場の構造で、今更、不完全競争市場、こういうのはすぐに説明しないと、医療サービスがまさにそうなんだから。独占的競争とゲーム論の一部に触れているが知っている内容にも関わらず、読むと分かりにくいこと、この上なし。。。
第16章は「病院など保健医療供給者の行動と動機」急に長いタイトルだね。経済モデルが利潤最大化を前提とすることが多いのに対して、経営モデルは売上最大化モデルで考えるなど、企業行動の理論の説明など。説明した後で、病院行動モデルの説明。有用そうな話が出てこない。
第17章は規制の経済学。産業組織論の話かな。介入という訳語がところどころに使われているが、含意からすると政策くらいに訳した方が適当な気がする。訳者は経済学理解してないんじゃないかな。同時に日本語としての論理性を担保できていないので、時々意味不明な箇所がある。第18章はインセンティブと代理関係。プリンシパル=エージェント理論ね。情報の非対称性で一章設けて説明すればいい内容な気がします。インセンティブ設計は別の話だから混合されると分かりにくいだけですね。
第19章から第四部。保険医療システム。ようやく医療経済学と思える話が出てくるかなぁ。市場の失敗とほぼ同じことを違うまとめ方をしただけって、それはないでしょう。第20章は世界の保健医療システム。世銀とOECDのデータ、とりわけ平均余命などを使って概観しただけ。第21章は国家への依存。第22章は民間保険システム。第23章は社会保険システム。第24章は複合システム。第25章は保健医療セクター改革の動向。開発経済学で濫読してきたこともあり、特に目新しい事象が出ずに終了。
読んでみて時間の無駄でした。訳語、訳文が変というのもありますが、もともとの章立てが変、たぶん、もともとの説明がなっていない。なんで訳したんでしょう?
こんな愚劣な本で経済を勉強しても医者の医療経済への理解が深まるとはまったく思えないですね。素直にAtkinson, Stiglitzの公共経済学を読んで勉強した方がいいですよ。
<2018.9.5>