書評


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[トンデモ本]橋元淳一郎(2006)「時間はどこで生まれるのか」集英社新書0373G

 巻末の哲学の解説も、本書の哲学の捉え方も的外れで、断定が多いのも間違いだらけなので、トンデモ本の類です。実際には一般用語と同じ意味で使っているのに、「」付にして、カモフラージュしているようにしか見えないし、そのようにしか解釈できない。こういう思わせぶりなのも稚拙ですね。はじめにや巻末に謙虚ぶって見せてもダメです。

 本書の内容は、物理学の立場から、哲学の基本的設定を無視して推論すると、どのような時間論になるかという愚書です。

 マスタガートの議論は知らないですが、ベルクソンやハイデガーならよく分かっているので、著者の誤りの多さに唖然とします。

 そのマスタガートの時間論にしても、巻末を見る限り、入不二基義「時間は実在するか」講談社現代新書の孫引き引用にしか見えません。

 愚書たる由縁は多々ありますが、カント以降の哲学は用語の使用法に厳しく、個々の著者がそれぞれ特定の意味で厳格に用語を定義して用いることがほとんどですが、この著者はそうした事柄を悉く無視しております。特にひどいのが、哲学者が使う「時間」の定義、「世界」の定義などです。わざわざ著者が「」つきで用語を使う以上、どの定義を用いたのか明示しないと不明瞭だし不適切です。

 この本を読む限り、哲学者がこうした用語を同じ意味で使っていると著者が勘違いしているとしか思えない。

 マスタガートの哲学は知りませんが、著者によれば、A系列、B系列、C系列の3種があり、A系列が主観的時間、B系列がデカルトやニュートンの客観的時間、C家列が配列であり、マスタガートは、C系列のみ実在すると結論していて、著者も物理学の立場から同じ結論だそうです。哲学的には意味のない議論です。

 さて哲学では、書かれてようがいまいが、認識を問題にしていることが多いです。特に認識論ですと断らなくてもそういうことが多い。また、哲学は人間の悩みや精神病、自殺について解決策を志向しているので、明示的に書かれていなくてもそういう目的意識が背景にあります。なので、著者がマスタガートの引用という「時間」の定義にしたがえば、哲学で、問題にしているのは、A系列とB系列のギャップです。C系列は認識に影響していないか、していたとしても量子論など一部物理理論に限られるなら、人間社会としての世界と関係ないので、意識的に無視していると考えてよいです。

 著者は物理学の知見として、相対性理論や量子論の時間がこのC系列だから、C系列を無視した哲学はけしからんというスタンスで書いていますが、哲学に対してお門違いの八つ当たりをしているようにしか見えません。問題意識がそもそも違うので、著者が愚昧としか言いようがないです。

 エントルピーとかで煙に巻こうとしてますが、確率的事象にしても実在自体は否定できません。確率的に実在するのだから。

 この人は時空を限定した存在以外、実在ではないという特殊な実在の定義で、実在を云々していますが、それは著者の「実在」の定義にすぎないので、著者は体系外から価値判断していることになります。その定義にしたがえば、粒子も素子も実在しないことになり、著者の主張する量子物理学などの否定にしかならないので、この点についても矛盾が見られます。哲学者が「時間」を体系外から価値判断でB系列として定めていると批判しておきながら、著者は「世界」「実在」「進化」などを、著者特有の「体系外の価値判断」から(哲学と無関係の意味で)定義していて、何が言いたいのかさっぱり分かりません。

 著者はベルクソンの「創造的進化」を批判してますが、ベルクソンの進化観同様、著者の進化観もまた同列の誤りをしています。更に言えば、ベルクソンが時間について詳しく書いたのは「創造的進化」ではありません。「時間と自由」です。橋元は調査力もないのですね。最低限、この種の書物を書くのに、哲学の教授に参考文献を示唆してもらう程度の事前の調査すらしなかったということなのでしょう。橋元には文系の友達すらいないのかな。友人がいなくても、本を書くために調べたり、哲学の専門家に教えを乞うのが最低限のマナーです。本を書く資格がないのではと思えるほどの手抜きですよ。著者が引用した入不二は哲学者で、ベルクソンの「時間と自由」も読んでいます。入不二がベルクソンの解説か何かを書いていて、私はそれを読んでまともな哲学者という印象があるので、参考文献にある入不二の著作を読んでみます。橋元淳一郎の書物を読むのは時間の無駄です。

 前にノーベル物理学者の誰かが生命の起源を明らかにできるアイデアがあると豪語してましたが、その後アイデアが論文になった形跡はありません。年寄りの門外漢の蛮勇には呆れるものがあります。

<2019.3.10>

Kazari