無宗教の戦没者慰霊碑(国立追悼施設)の建設は、これまでの最高裁判決(自衛官合祀事件)から違憲ではないかとの誤った推論がある。これまでの最高裁の立場は、追悼行為は世俗的な慣習に基づいたもので、宗教行動ではなく習俗的行為という立場である。つまり、国が追悼施設を建設しても違憲とはならない。もし違憲であるならば、既に存在する千鳥ヶ淵戦没者墓苑が違憲となってしまう。
自衛官合祀事件の最高判決は、キリスト教徒の妻に対して、靖国の追悼行為に寛容を求める判決であった。「無宗教」の追悼施設に対して適用はできないだろうが、もし国立追悼施設に対してこの判例が適用されたと仮定して判決を鑑みれば、国の追悼行為(無宗教の習俗行為)に対して靖国は寛容であれという判決になるだけである。
本気で靖国が天皇の参拝を望むなら、分祀に応ずればいいではないか。現に横井正一らが生還した際に合祀を取り消している。分祀が出来ない合理的・宗教的理由など存在していない。神道が他の宗教に宗教的寛容性を持っており、他宗教徒の信教の自由を遵守する事で、より堅牢に神道の信仰の自由は保障される。「神道以外の宗教⇒神道」の宗教の寛容性だけ求めて、「神道⇒神道以外の宗教」の宗教の寛容性は断固認めないでは、個人の信仰の自由の保持が危ぶまれるので、こうした非対称な関係(神道にのみ特別に有利な立場)を望んでいる靖国の態度は問題である。靖国のご都合主義な対応は、周囲の不信感にしかならない。
神道信者の折口信夫ですら、「祝詞の意味も分からず唱えているようでは、伝統を守れない」と批判していた。神道はこうした事柄にも誠実に対応していると言えるだろうか。神職も宮司などは世襲である事が多く、神社によっては掃除すらまともに出来ていない(司馬遼太郎の「街道を行く」で取り上げられた品川神社クラスでも実に汚いものだ)。四手井綱英によれば、鎮守の森を守れる森林管理能力があるのは2社程度であり、神道の「森を守ってきた」との主張も眉唾物である。原稿を見ないと祝詞を言えない宮司も多いし、かつて近所には若い頃、賭け事、女遊びと放蕩を繰り返し、老齢となっても若い女性にのみ話し掛けるような宮司もいた。この宮司は神社にホームレスが迷い込んだ時に国に帰るよう言って追い返したと自慢し、ホームレスは神社をけがすと言っていた。不適切な宮司が解任され、自浄する仕組みは存在しないと言っていい。この点は他の宗教と比較して断然見劣りがする。また、山中恒は「戦後の神官はやくざみたいな人ばかりだった」と証言している。靖国の追悼施設を無宗教の国立追悼施設に移管して、神道はもっとまともな宗教法人になった方がいいのではないか。
<2006.8.17記>