日本は法治国家から人治主義へと劣化中
ここ数十年、日本はまず官僚が法律を守らなくなった。民間企業の不法行為もすさまじい(特に労働関係)が、模範たるべき国の官僚が率先して法を犯すようでは世も末である。刑事的な凶悪事件は減少傾向にあるから、マスコミも繰り返しひとつの殺人事件ばかり追わず、真面目に社会問題に取り組むべきだろう。そして、官僚はもういちど公務員の基本は市民サービスだということを思い出した方がいいし、国民もそうした理想像を求めていく必要がある。マスコミ任せでうまくいく道理がないのは、ここ数十年の歴史が証明している。
単年度予算の問題で、必要な設備投資ができないことを理由に、文具代などでパソコンが買われたり、タクシー券など私的流用したりというのは、厚生労働省に限らず、財務省、外務省などの連中も同罪である。もし単年度予算がうまく消化できないなら、複数年度に渡り無駄が出ない予算の仕組みを役人がきちんと制度設計すればいいだけの話であるが、現役の官僚に法制度の作成能力がないため、いまだに作られていない。職務怠慢で法的解釈を出鱈目に拡張して、不法行為を合法と言い張るようでは、経済犯罪犯とたいして変わりはない。これでは税金泥棒に堕していると言われても仕方がないだろう。
警察官の犯罪が相次いでいる。警部補クラスになって、他人の敷地に入って女風呂を覗くような奴が、定期的に出現し逮捕されている。二重に免許所の更新の知らせを送る警察OBが天下る交通安全団体はいまだに組織が解散されていないが、なぜ事業仕分けで廃止されないのだろう。以前からこの警察の天下り団体は、現役の免許更新を担当する警察窓口の人に「たいていの人が入るのになぜ入らないのか」と言わせたりしている。特に地方に多い。一部マスコミで報道されたが、最近は問われなくなった。具体的に神奈川県などでこのような強迫を実行している婦警などを私は目撃したことがある。免許書更新をする市民を脅迫するなどもって他である。それに欲求不満のはけ口に市民に食って掛る警官にあちこちで出会う。マスメヂィアの報道でも見られる。秋葉原の歩行者天国で、広告配りにえばり散らすのも、勘違いはなはだしい。そもそも、歩行者天国を運営する組織に協力を求められていても、ああいう物言いは職権乱用に相当する。もちろん例外的にいい警官もいる。まともな警官なら職務質問に答えたら、「捜査協力ありがとう」くらいのことは言うし礼儀正しいが、比率が低すぎるのが問題である。
最近は、相撲の八百長疑惑で、警察が捜査資料をマスコミに公開しているが、これも職権乱用にあたる不法行為だ。この件に関しては、相撲協会は警察を告訴した方がいい。検察OB天下りだけでは満足できず、警察OBの天下りポストを用意しろと脅迫しているようにしか見えない。そもそも、力士の携帯電話の捜査目的は、暴力団との関係を明かすことであり、それ以外の出来事に関しては別件であるし、そもそも今回の力士間の取り組みの売買も刑法に抵触しないため、警察が捜査する事柄ではない。その捜査資料を実名で社会に公表する権利があるのかも疑問である。
この件に関する文部大臣のコメントが失笑ものである。そもそも今回の十両力士の星のやり取りは、公共性とまったく関係がない。「公益団体の認可取り消しもあり得る」とかぬかしていたが、頭が悪いにもほどがある。マスコミでも、そもそもスポーツは真剣勝負がどうたらとか、ノタマッテいる阿呆を散見したが、それはプロスポーツとて例外ではないから、公益法人として云々とは別次元の話である。プロの営利スポーツであれ、アマチュアの非営利団体であれ、好ましくない行為ならやめればいいが、どちらにも好ましくないのだから、この件をもって非営利団体の資格云々という議論は生れる土壌などないのだ。文部大臣には、非営利団体の資格と今回の十両力士の星のやり取りにどういう判定基準があれば、非営利と認められるというのか説明してみればいい。営利なら、スポーツの八百長は問題ないと結論できるような判定基準がこの世に存在するのかということだ。少し考えれば分かることも、大臣を含め、最近のお役人は考えないらしい。今回の星のやり取りは事件性もないし、非営利性とも関係がない。だから、文部大臣として言えることは、子供たちに夢を与えるためにも、あらゆるスポーツが健全であることを望むというぐらいのことでしかない。
小沢氏の資金問題は、そもそも自由党時代の話だし、その頃の話をなぜに今蒸し返しているのだろう。たしかに税金がらみは、半永久的に訴求して説明を求めるみたいな意識が国税当局にあったのは事実だが、以前に職員が問題なしと見なしていた行為(飛行機に対する投資)を、後になって解釈を変え課税しようとした裁判では、すでに最高裁判決が出て、国税側が負けている。この裁判例から見ても、一定年度以内に不法行為として裁判にしなければ、裁判できないようにしておくことが重要である。小沢氏に限らず、政治家の案件も同等に見ておかないと、官僚からの冤罪被害に怯えなければならず、政治活動の危機につながるだろう。役所や財界の改革を訴えて当選しても、冤罪で裁判にかけられ、政治生命をたたれるなら、役所や財界に都合は悪いが、大多数の国民の利益になる改革を実行することが不可能になってしまう。
今回の小沢氏の一件を見ると、検察審議会の役割は、起訴事案に対して取り下げの判断に限定した方がよいことが分かる。検察は疑わしいだけで罰しようとする。少なくとも村木厚子 厚労省元局長冤罪事件のように、これまでは無謀にだいたい起訴してきた。その直後だけに小沢氏に慎重にならざるを得なかったのと、裁判になれば村木氏の証拠改竄した検察の行った小沢氏の捜査は無効になるためもあるが、それを抜きにしても事件性が低く、秘書はともかく小沢氏は有罪になる見込みがない。市民は検察の冤罪を食い止める判断だけ行えばよい。一部自分と思想を異にする政治家というだけで、起訴すべきというのは、「刑法の原則:疑わしきは罰せず」とは正反対の冤罪行為である。検察でない市民だからといって、冤罪をかけていい道理はない。
それから裁判員裁判に関しては廃止した方がいい。そもそも、裁判官は高給の見返りに、高度の(死刑判決を含む)判断を行っている。なぜ、アルバイト料金の裁判員がそんな重役を務める意義があるのだろうか?裁判員制度はアメリカと制度が似るという利点だけで、新手の国民いじめにしかなっていない。もし、国民の法への参加の義務が大事というのなら、義務教育で地方裁判の傍聴を義務付ければよいし、義務教育で軽犯罪の模擬裁判をカリキュラムに組めばいい。法治国家を目指すなら、こちらの方が正道であろう。成人にも法への参加が必要というのなら、裁判官が参考にするための影の裁判を行えば十分である。その場合、裁判員の実名は非公開、内容は公開で裁判員裁判を影の裁判として行い、その判決を参考に、すべての責任は裁判官が持つ形で、判決を行えばよい。つまり裁判官判断で、影の裁判の判決を覆すことも可能にしておくということ。覆すだけの論拠をあげるのは普通より難しいのだから、それで十分、参加したことになるだろう。
冤罪を減らすための取り調べの可視化は、今すぐにでも実行すればいい。それから、義務教育に追加するのは、証言に関する心理学を盛り込むのも重要かもしれない。人間は社会的な影響から時間の経過とともに記憶を変化させる。証言はあまり当てにならないものであることはよく知っておくべきだろう。警察で繰り返されている誘導尋問も、可視化によって裁判で公開されれば、明らかになるため、誘導尋問への反省を促し、今後の取り調べ技術の向上につながるだろう。
<2011.2.4記>