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 最近の映画に一言。盗作や複製もどきにはうんざりです。新作を手間隙かけて作って下さい。

 「世界の中心で、愛をさけぶ」の元の題は「恋するソクラテス」だったらしいが、元の題なら売れなかっただろうという意見は多い。ハーラン・エリスン(1979)「世界の中心で愛を叫んだけもの」のSF小説のタイトルの盗作であるが、このSF小説、エヴァンゲリオンの「世界の中心でアイを叫んだけもの」でも盗作にあっている。

 テレビ番組で多かった類似番組も世界的に急速に増えている。『クイズ$ミリオネア』はアメリカが元で、日本、インドなどにコピー番組がある。

 最近の韓国映画では、「・・・韓国版」として堂々と複製するが、テレビ番組の「冬のソナタ」にしても音楽を独自に作らないなど安易な作成という意見も聞く。つい先日、テレビ放映された韓国映画(低質のためタイトル忘却)も、暴走列車の複製のような感じで、最後の場面で、主人公は後続車両に飛び移れば助かるのに、自爆する列車に残った。爆弾が爆発しないためには補充電源を入れる必要がある。それには誰かが先頭車両に残らなければならないという設定だった。補助電源装置の位置が操縦席の方にあれば矛盾は起きない。しかし、連結器側に補助電源が置かれ、設定が破綻していたのは、雑なシナリオ作り、もしくは最後の場面で主人公の連続撮影を優先した結果だろう。

 こうした複製物に対して特許で対抗することは、特定の人の既得権にしかならない。質の高い新作につながるとも思わない。撮影技術的なことはすべて公開すればいいと思う。しかし、シナリオくらい独自に高質に拘れないものだろうか。単純に、作成されたもの(本、映画など)を製作者がこだわりを持っていればできることである。"流行にあわせて儲けよう"という安易な商業主義が、質の低下を招いている。消費者は宣伝や流行に踊らされず、低質なものに料金を払わないようにしないと、市場が駄目になってしまう。資本主義という制度は、消費者が企業や市場を育てないと機能しない制度である。

<2006.8.29記31訂正・追記>

Kazari