映画「コクリコ坂から」の試写会を観て
かつてこれほどまでに、ひどいジブリ映画を観たことがあっただろうか。宮崎駿が関与していたとは思いたくないほど、出来栄えが悪い作品である。「ホーホケキョ となりの山田くん」「海が聞こえる」「借りぐらしのアリエッティ」は見てないので除外しているが、それ以外は一通り観ている。しかし、「ゲド戦記」よりひどい映画を作るとは思わなかった。
まず、アニメ動画が汚い。ものすごく低予算で誤魔化そうとしたのか、それともいくつかのインタビューに見られるように、脚本に時間を掛けすぎたせいで突貫になったのか、いずれにしても不快である。まず単純な背景スクロールが汚い。不自然である。文字の一部だけ歪んだり、冒頭からひどいものである。最後のシーンの大型船の過ぎ去るシーンも大型船の進み方が変なんだなぁ。これまで宮崎駿が監督していたならまずあり得ない映像である。宮崎駿は今回脚本だけ、「ゲド戦記」というひどい映画を作った宮崎吾朗だけあって、相変わらず、絵へのこだわりは、ほとんど感じない。
宮崎駿監督作品の後にアニメーターたちが9時〜17時で帰れる作品がジブリに必要だったとしても、あまりにひどすぎる。金を払って観るレベルではない。こんなんで百万人のオーダーに上ったら、今後ジブリ、映画をまともに作れなくなるんじゃなかろうか。とても心配だ。
大きな欠点は3点ある。1.アニメ動画が汚い。2.登場人物の描き分けが下手糞、3.脚本が非現実的。特に最後の点は致命的であり、この作品に感情移入することをほぼ不可能にしている。
まず、登場人物の描き分けについて書いておこう。主人公:海(うみ)の妹と友達の描き分けが中途半端である。主人公は、まず友達や下宿の同居人からメルと呼ばれている。呼び方に関してはすべての登場人物、説明は一切ない。しかし映画でストーリを追うのが面倒であれば、それは失敗作と断定していいだろう。パンフを読まなければ、仏語に素養のない人は、メル(仏語でMERは海の意)の由来が最後まで分からない。それはまだいい。妹は「お姉さん」、友達は「メル」、母は「うみ」と呼ぶ主人公は絵が違うから、どう呼ばれようが見間違いようがない。しかし、この主人公の友達と妹の方は油断すると、どちらか見分けがつかない。こういうのは今までなかっただけにとても残念である。
この映画の最大の失敗は主人公の恋する相手の出生に関する設定である。以後は、ネタばれを含むので、映画を観たい人は読まない方がいいかもしれない。出生に関わる設定であるが、映画を観る限り、1.育ての親が正しい生みの親を知らない。2.知ってはいるが信じてもらえるとは思わないので、子どもの真摯な問いに真面目に答えないのいずれかを設定している。1は非現実的すぎて話にならない。2の場合でも、映画からその微妙な心理がまったく伝わってこない。
つまり普通に観ていると、1の設定を置いていると感じておかしいなぁと感じたまま、映画が終了してしまう。もし宮崎駿がこの映画の脚本を真面目に書いたのなら、宮崎駿には、ファンタジー以外は脚本家としての才能がない。引き際を汚さないためにも、ファンタジー以外の脚本は手がけない方がいい。それと宮崎駿がイメージボードを描かずにまともな脚本が書けるとは思えない。過去の密着取材などを見る限り、宮崎駿の創造力の源泉は絵を描くことからはじまっている。
<2011.7.12記、7.18見てない映画追加訂正>
TV放映されたので、「海は聞こえる」を見た。TV放映用なので、映画と比較するのは無理があるが、ストーリー自体は違和感なく追える。表情の乏しい所などは主人公の独白で補われている。物語前半で登場人物の描き分けが中途半端で分かりにくいという現象も見られない。
「コクリコ坂から」に対する他の評価では、「ゲド戦記」よりマシというのも見られるが、改善されたのは、過去のジブリ映画と登場人物の絵が被らないという1点だけではなかろうか。最初の飛び降りシーンを誉める記事なんかもあるようだが、ルパンを思い出すだけで、特に工夫があると思えない。
その後、いろいろ検索してみたら、ポスターだけは宮崎駿みたいである。だいたい彼が映画にこめた思いや解説といったものが、過去の監督映画から読み取れることは全くないが、もしこの映画が彼の言うように若者(高校生)向けに書いたのなら悪意があるとしか思えない。改めてよく考えてみたところ、何故この映画がとても違和感があるのか、分かったので書いておきたい。「上を向いて歩こう」は鈴木の言らしいが、鈴木も宮崎も団塊世代だというなら、とても勘違いをしている。
その勘違いを指摘しておきたい。これもこの映画を愚劣なものにしていると思えるからである。団塊世代には当たり前にあった学生自治を、現在、実践してくれる高校や大学など、最早ほとんど存在していない。団塊世代が学生闘争のバカ騒ぎで学生自治の継続を壊滅的に難しくし、現在、高校や大学の統治者側になる団塊の世代が、自治を潰して回っているからである。学生のクラブハウスは大学の管理下にある。最早、学生に自治を任せる器量が学長にあるはずもない。早稲田大学では自治組織の一部を革マルと同一視して、警察に通報するような有様だし、クリントン大統領が訪日、大隈講堂に来た際には、出席者リストを公安に提出したことで問題になった。革マルに変わる組織なら自治を認めるとか放言していた時期があったが、その関連性の否定を誰が判断するというのだろう。全国的に見ても、真面目に学生自治機構が残ったのは、東大や京大など大学院での一部にすぎない状態になっているのではなかろうか。アニメに似た寄宿舎の利用に関しては、東大の駒場キャンパス東部の学生自治寮があり、宇澤弘文(経済学)教授が学生自治の継続を訴えていたが、2001年8月22日、強制執行により壊されている。つまり現実は正反対、団塊の世代は、その上の世代から与えられた自由を謳歌して、今度はその自由を若者世代から奪い、そして若者世代は元気がないと言うのである。これが傲慢でなく何だというのか。
団塊世代の人から聞き飽きるほど聞いた言葉がある。「我々は自分たちの力だけで努力し成功した」と。このアニメに登場する理事の存在や、先輩から引き継がれた学生自治はもともとあったものだということなどを忘れているのである。そして自分たちが理事の立場になった時、環境も激変させているにもかかわらず、理事と同じ行動ができないにも関わらず、高校生側に責任転嫁しようとしているという構図があるからである。傍目から見ていると、今の高校生の方が団塊世代より数倍難しい世界を懸命に生きている。それを温かい目で見る器量が一方的に団塊世代に失われているのだ。
そんな団塊の世代の鈴木たちが、団塊世代に郷愁を感じさせ、稼ぎたいというのなら、何とえげつない汚らしい大人の世界をアニメ映画に持ち込んだことかと呆れる他ない。自分たちのしてきた事を忘却して、今の若者が元気がないとか、団塊世代の郷愁のためにこんな糞みたいな映画を作ったというのなら、ジブリは倒産させた方がいいのかもしれない。宮崎駿が「こういう内容がアニメ映画として成立するか」と考える以前に、実写にしたところで成立しないひどい映画である。
<2011.7.18追記>
その後、コクリコ坂に関係するジブリのテレビ放送を見た。震災の影響は少し割り引かないと可哀そうかもしれないが、シナリオの悪さは変わらない。宮崎駿や鈴木敏夫のミスである。宮崎吾朗監督が絵コンテをほとんど書いたそうだが、それってジブリ映画に関してはすごいことなのだろうか?前回のアリエッティも、マロ氏が全部、描いたのでは?
<2011.9.6追記>